2800.知性の発揮について



題名:知性の発揮について

                           日比野

1.知的正直さ

知的生活の名著に渡辺昇一上智大学名誉教授の「知的生活の方法」
がある。もう30年以上も前の本だけど、今もってその輝きは失わ
れてはいない。

渡辺昇一名誉教授は「知的生活の方法」の最初の章で、知的正直さ
が大切だと説いている。

自分を誤魔化すのではなく、自分が知識を持たない、即ち知らない
ということを認める正直さが、知的生活を行ううえで欠かせないと
いう。わかったふりをすると進歩が止まる、とも。

こうした態度は、「知」に対する姿勢によって生まれてくるのでは
ないかと思う。

武道を習うときに、真に強くなりたいと思って始める人と、人に強
いと思われたいと思って始める人とでは、武道に取り組む姿勢が違
ってくるように、知の世界においても、まず知に対する真摯な態度
が必要なのだと思う。

福沢諭吉は学問はいわば無目的に、そのこと自体に熱中しなければ
大成するものでない、と言っている。つまり学問が手段化したとき
が危険だということ。

日本人は外国人と違って、学校を卒業したら、本を読まないといわ
れる。これは学問が立身出世のためとか、単なる手段になってしま
っていることを示してる。

こうした知に対する姿勢は、おそらく認識力の育成にも関わってく
る。わかったことと、わからないことを自分の中でしっかり分けて
おかないと、自分の中で何か心の言葉になっているかすら、だんだ
ん分からなくなってくるから。知識を軽んじてしまって、やがては
心の言葉を意識しなくなる。



2.虚飾の知に溺れたときの危険性

知が単なる手段となってしまったとき、虚飾の知に溺れてしまった
ときの危険性について考えてみると、人に強いと思われたいと思っ
て始める武道と同じように、「みせかけの型」に拘るようになるの
ではないかと思う。そんな人の取る態度として次の3つの特徴が出
てくるのではないだろうか。

まず、本を読む態度として、本を読むのではなく、本に読まれてし
まう。読んだ本の内容をそのまま鵜呑みにして、分かったことにし
てしまう読み方。知識があるという「結果」だけ欲しいから、全部
分かったことするようになる。そのほうが手っ取り早く知識を得ら
れることになるから。

次に、人と話すときの態度として、本当はわからなくても、とにか
く、話の辻褄さえ合えばよいと考えて、その場で適当に答えてしま
うようになること。その結果、後日別の話題を話したりなんかする
と、以前自分が話した内容と矛盾がおこってしまうことが有り得る
。

最後に、自分で文章を書くときの態度として、難しい単語を使った
り、平易な単語でも難しく書いたりして、読む人の理解を拒絶する
書き方をするようになること。

人に話すのとは違って、文章は何回も読み直しすることができるか
ら、文章は論理的に筋が通っていないと恥ずかしい。だけど、本当
は、自分が知っていないことは良く分かっているから、バレるのが
怖い。それでも自分が知的であると思って欲しい。だから、読者に
それがバレないように、理解できないけれど、なんか凄そうなこと
が書いてある、と思わせるように書こうとする。

その結果、文章は非常に荒れたものになる。他人に理解されないよ
うに、自分でノイズが多い文章を書いてしまうものだから、単語の
選択や文脈の流れを自分で悪くしてしまって、最終的には、自分の
論理的思考能力をも自分で破壊してゆく。自分の知性の向上を自分
で邪魔してる。実にもったい無い。 


 
3.現代的知的生活のための条件

思索するためには心の平静さがないといけない。精神の自由は、よ
り善く生きるために必要なものだけど、知的生活のためにも必要な
もの。

心の中が雑念や執着で一杯だと、思索したいテーマの居場所がない
。雑念や執着だけ思考停止して、思索したいことだけを考えられる
人は別だけれど、順序として、思い煩うことのない状態に自分や周
りの環境を置いておくように努めるのは大切なこと。

自分の心の状態をチェックして、悩みごとや執着で心が止まってい
ないかをみて、そうであれば、まず悩みを解決していくことを考え
るべき。心が波立つときって、どうしていいかわからないとき。や
るべきことが定まれば、心は落ち着いてゆくもの。

心の平静さを担保するものって、実は問題解決能力だったり実務能
力だったりする。

高い認識力で問題を瞬時に快刀乱麻のごとく断ち切っていくことが
できれば、悩む時間は物凄く短くてすむ。

そうしてから次に、ひとりになれる時間と空間を少しでも確保でき
るような生活を、工夫して作っていくことが必要なのだと思う。今
の住宅事情では、書斎を持てる人なんてほんの一握りだろうから、
尚のこと工夫しなくちゃいけない。

皮肉なことだけど、高い問題解決能力を持っている、いわゆる「デ
キる人」ほど沢山仕事を抱えていて、いつも忙しい。時には家まで
仕事を持って帰ったり。

ただ、そういった、大量の情報に毎日接していて、それを片端から
処理していく生活に慣れきってしまうと、逆にいつも情報の洪水に
浸かっていないと落ち着かなくなっていくのではないかとも思う。

もしそうであれば、その人はだんだんと孤独に耐えられない性格に
なっていくに違いない。いきおい、一人静かに考え事したり精神統
一したりすることが苦手になってゆく。こうなってしまっては知的
生活からは程遠い。

現代における知的生活は、高い事務処理能力を備えつつ、同時に孤
独に耐えられて、ひとりになれる時間と空間を持つことが要求され
る。とても難しい。

 

4.知性をコントロールする心

本を読んだりして得られる知識には性能がある。それは、知の有用
性で計ることができて、指向性・深度・賞味期限の3つの軸で表さ
れる。その知のブロックの体積が大きいほど性能は高い。

だけど、知識は知識としてしか存在してなくて、人に使われること
で初めてその性能は発揮される。

知識を扱う主体は知性。知性は知識を運用する。その知性をどの方
向に発揮したかで、運用結果は全然違ってくる。

智慧も悪知恵も、その思考過程では共に知性が働いているんだけれ
ど、その向かう先は全然違う。

たとえば、国益に関して知性を発揮するとき、同じ国益を目的とし
ていても、自国の強みや他国との関係を冷静に分析して、現実的か
つ他国と共存可能な方策を発揮することもできれば、強力なプロパ
ガンダを行って他国を貶めることで自国の国益を計ることもできる
。

知性ってそれだけで無条件に良いものというわけではなくて、使わ
れ方で毒にも薬にもなるもの。

知性は知識を運用する道具として存在するのであって、知性を更に
コントロールするところの心がちゃんとしていないと、とんでもな
い結果を招くことになる。

知識を運用するところの知性を更にコントロールするのは心。心の
あり方が知性の方向を決める。

知的正直の大切さにも触れたけれど、心が知を自らの飾りとして使
おうとすれば、知性はそのように発揮されて、知性そのものや心を
磨くことには使われなくなる。



5.知性という道具と知的格闘

知性は道具だといったけれど、自らを高める方向に知性を発揮して
いくと、知性は自分の認識力を高める手助けとなる。

事象を認識していくということは、事象に対して何がしかの評価や
判断を与えるということだから、認識した数と同じだけ、それらに
対する判断や評価が存在することになる。

心のあり方を決めるのはその人の価値観だけど、認識したものを心
の言葉として価値観にまで転化していくときには、知的格闘をくぐ
り抜けなくちゃいけない時だってある。その人が認識して評価した
群れの中に、互いに相反する評価があったら、どちらかを選ばなく
ちゃならないから。

たとえば、性善説、性悪説とあるけれど、これは同じ「人」をなん
と認識するかという価値観。人を善とみるか、悪とみるかの相反す
る認識。価値観にしようとしたら、どちらを選ぶかの二者択一を迫
られる。

だけど、その人が戦争や環境破壊に満ちている現実社会を善くない
ものとみていたとしたら、善なる人の集まりであるはずの現実社会
が善くないものとなって矛盾してしまう。

善は善からしか生まれないとするなら、善なる人が作ったこの社会
は善であるべきとなるから。

現実社会が善でないとすると、善が悪を生むことがあるのか?

でも、そういう善は、果たして本当に善なのだろうか?

そもそも善ってなんだ?

善ひとつとっても、思索すべきことが山のようにある。

ひとつの事象における認識を他のいろんな事象に適用し、思考と選
択を重ねることで、その人の価値観は磨かれる。

たぶん、個人の中のもろもろの認識の群れを突き詰めていくと、ど
んどん二者択一されていって、最後にたったひとつだけが残るのか
もしれない。それがその人が選び取った価値観。知性という道具で
掘り出した黄金のまさかり。

座右の銘を自分自身の価値観と一致させるためには、こうした知的
格闘から逃れることはできない。



6.知行合一

「知るはこれ行の始め、行はこれ知の成るなり」

陽明学を起こし、知行合一を唱えた王陽明の言葉。

知識と行為は本来同一であり、知って行なわないのは真に知ってい
るのではなく、真の知は必ず実行を伴い、知と行とは表裏一体をな
すという説。

たぶん、知性という道具を使って、自分の認識をとことんまで突き
詰めて、どんどん価値観に転化していって、ようやく知行合一にな
るのだと思う。心の奥底から本当に納得しているから行動に移すこ
とに躊躇がない。

知行合一は、知性を通して、知的格闘をとことんまで行った果てに
あるもの。徹底的に磨き上げられて輝きを放つ自らの心であり、価
値観。座右の銘が、そのままその人の価値観になった姿。

そこには知的格闘を通して、みえる化できた心の言葉があって、知
的格闘をして歩いた道を振り返ると、きっと智慧という宝が転がっ
ている。

その道のりはとても厳しく、果てしないもの。哲学が役に立つかど
うかなんて、ここにまでたどり着いて初めて分かるものなのかもし
れない。
 

(了)

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