2799.日本文化優位の根源は



日本文化を見ると、優れたところがある。この根源を検討しよう。
                 Fより

日本文化に根ざした商品が世界的に認められているのは、なぜかと
いつも考えていたが、密教を見ていると、その原因がわかった。

日本に密教を伝えたのは、真言宗の空海と天台宗の最澄であるが、
天台密教は第3代座主・円仁の時代に、『摩訶止観』で「常坐三昧
」と「常行三昧」の2つに大別し、「常行三昧」は「運動しつづけ
る瞑想法」であり、その常行三昧を中心において修行法を確立する。
その常行三昧の極地が千日回峯行である。そして、この常行三昧の
発展系が武士道であると、仏教思想史8で解説した。

この武士道の考えを発展させたのが、江戸初期の鈴木正三の思想で
ある。鈴木正三自身が武士で出家する。このため、武士道の発展系
を考えることができたのである。そして、「仏法則世法」で生活の
業を立派な行為と考え、心がけ次第で労働をそのまま仏行となしう
るとしたのだ。農業則仏行なりとなる。農業を修行と考えて行動す
ることを求める。商人の利益も否定しないで、正直の道にいれば修
行である。人に奉仕した結果が利潤を生むことはいいことになる。
これは、農業道や商業道などの**道となる教えである。

この仕事を精進すれば則仏行という思想は、日本に革命的な変化を
起こした。仏教の坊主や仏法を必要としないことになる。もし、仏
教教団が江戸時代にシッカリしていれば、このような革命的な仏教
思想を非難していたでしょうが、仏教教団は江戸幕府の保護を受け
て、生活に困らない状態になったために、大事とは捉えなかったよ
うだ。

しかし、徐々にその思想は大きな影響を与えて、現在、サラリーマ
ン道、ラーメン道などが跋扈して、仏教教団は衰退の一途になって
いる。鈴木正三の思想が現代、大きな影響をしているように感じる。

日本の優れている理由を日本人の多くは、理解できないと思うが、
実というと鈴木正三の思想に原因があることになる。仕事を修行の
一部として行っている。同じことを極地まで極めるまで繰り返すの
も、修行であると見る。このような見方は、アジアにも中国にも韓
国にもない。

中国の若者が頑張るのは、ハングリー精神で金持ちになりたいとい
う意識で、仏教の修行と言う感覚はない。
欧州やイスラム圏では、一神教であり、まずは自分を仏にする感覚
がそもそもない。このため、常行三昧が理解できないと思う。イン
ドのヨガやチベット仏教は密教的であり、日本の密教に一番近いが
、チベット仏教は人間の生理的な機能を強化して、専門的に修行し
た僧だけが仏というスーパーマンになるよう修行する。ヨガも同じ
である。

しかし、日本の常行三昧は、同じ動作の繰り返しが重要で特殊な人
でない一般人が専門家になることで仏になるという。インドのヨガ
やチベット仏教とはこの点で大きく違っている。このため、インド
にもチベットにも日本の鈴木正三の思想は入らない。
この1つ1つの道の普通の人間である専門家が日本の芸術にも製品
にも大きな付加価値を着けているように感じる。

また、この日本の鈴木正三の思想も常行三昧も異端的で、仏教教団
の否定を意味するので東南アジアの上坐仏教国にも導入することが
できない。というように、日本の文化的な優位は、実を言うと常行
三昧と鈴木正三の思想によって生み出されたものなのである。

2780.仏教思想史8
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/191014.htm

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鈴木正三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人
、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28
日))は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳
川家に仕えた旗本である。法名に関しては、俗名の読み方を改めた
だけと言われているが、俗名は重三で正三は筆名であるなどの異説
もある。

1.出家以前
天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄(現在の愛
知県豊田市(旧足助町))にある則定城主、鈴木重次の長男として
生まれる。

父の代から徳川家康に従い、初陣は関ヶ原の戦いの際に本多正信隊
に参加して徳川秀忠を護衛した時であり、その後の2回の大坂の陣で
も武功を挙げて200石の旗本となった。

三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を
読んで以降、仏教に傾倒し、職務の間を縫って、諸寺院に参詣した。

1619年の大坂城番勤務の際、同僚の儒学者の「仏教は聖人の教えに
反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲
安杖』を書いてこれに反論し、翌年、42歳で弟の重成に家督を譲っ
て出家した。

2.出家後
その後、臨済宗の大愚宗築や曹洞宗の万安英種らに参禅した後、故
郷に戻って石平山恩真寺を創建して執筆活動と布教に努めた。

島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、
曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆してキリスト
教の教義を理論的に批判した。日本の仏教史においては、江戸時代
には宗門改などのいわゆる檀家制度によって「葬式仏教」へと堕落
して思想・理論的には衰退したとされているなかで、正三の『破切
支丹』は優れた仏教思想書として高く評価されている。

晩年は江戸の四谷の重俊院、牛込の了心院を拠点に布教活動を続け
、島原住民への重税に抗議して切腹した弟の重成の後を継いだ自分
の実子の重辰を後見し、島原の復興事業にも尽力し、明暦元年6月25
日(1655年7月28日)に亡くなった。

弟子に『驢鞍橋』を編纂した慧中(恵中)らがいる。

3.思想
その武士時代から常に生死について考えてきた正三は、より在家の
人々に近い立場で仏教を思索し、特定の宗派に拘らず、念仏などの
教義も取り入れ、仁王・不動明王のような厳しく激しい精神で修行
する「仁王不動禅」を推奨し、在家の人びとには『萬民徳用』を執
筆して、「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」と呼ばれる職
業倫理を重視し、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた。

また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利
用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆し
て分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。

なお無著道忠は『金鞭指街』18において鈴木正三の仁王禅を批判し
ている。

4.著作
『寛政重修諸家譜』 
『鈴木正三研究集録』第7号〜鈴木正三研究会 
『小原村守山家文書』足助町教育委員会蔵より 
『新選組読本〜隊士外伝』あさくらゆう・玉造町観光協会 
『盲安杖』(1651年) 
『驢鞍橋』(1660年) 
『破切支丹』(1662年) 
『萬民徳用』(1661年) 
『因果物語』(1661年) 
『二人比丘尼』(1632年) 
『反故集』(1634年) 
『念佛草紙』 
『鈴木正三道人全集』(鈴木鉄心編、山喜房仏書林、1962年) 
『彰義隊とあらかわの幕末』(荒川区教育委員会、2007年) 

5.寺
石平山恩真寺 豊田市山中町 


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