2798.江戸の思想5(貝原益軒)



前回の江戸の思想で農学者宮崎安貞を取り上げたが、その宮崎を
助けたのが、貝原益軒である。        Fより

本草学は中国古来の薬物学である。本草とは,本草学が研究の対象
とする薬物の総称である。日本に渡来した本草学は,近世後半期に
隆盛となり薬物学自体の研究というより、実利と関わりのない博物
学が育ち、園芸との交流も深まり,それによって自らの内容を豊富
にした。

というように、江戸時代の本草学者の興味は今日の自然史であり、
特に日本の植物学の発展を考えていく場合、江戸時代の本草学の諸
研究とその成果を見逃してはいけない。そして、中国の本草学を脱
して、日本の本草学を作ったのが貝原益軒である。

貝原益軒をもってして、日本の本草学は単なる中国の文献学的研究
を抜け出し、日本独自の実証的研究の時代に入ったとし、そうした
成果を代表する益軒の『大和本草』をキーワードとして、プレ大和
本草の時代とポスト『大和本草』の時代を江戸本草学を区分してい
る。

ポスト『大和本草』の時代はシーボルト渡来まで統き、シーボルト
渡来以後は西欧にも通じる自然史研究に移していく。

益軒は自らの学問を「民生日用の学」と強調している。この部分は
私Fの考えと同じである。日本が豊かということは民衆の個々が豊
かであるということである。その民衆個々が豊かになるには、日本
の文化力による日本の製品・サービスがすばらしいと世界からに認
められたときである。この文化力の基礎は日常にあるいろいろなも
ののセンスや考え方や生活の仕方などによっている。日常の用が重
要なのである。

晩年には教訓書「 養生訓」「 和俗童子訓」をあらわして独特の精
神修養法を提示した。今、このコラムでも仏教思想史を連載してい
るように、人間精神が重要な位置を占めている。文化力においても
同じで、人間の魂が正常で健全でないと文化力は向上しない。この
頃の若者の精神は弱くなってきている。うつ病も多い。

しかし、まだ欧米より精神疾患が少ないのは、伝統的な日本の習慣
が残っているからである。そして、この日本の伝統を復活するよう
にコラムでも取り上げるつもりである。

というように貝原益軒の主著は「大和本草」である。宝永6年(1709
)80歳のときに刊行された。彼は、優れた本草学者でもあり、本格的
な本草書を日本ではじめて書いたのが「大和本草」である。中国の
本草書で有名なのは、明代に書かれた「本草綱目」(1596)であり、
1607年に林羅山が入手して幕府に献上した。1630年自ら和名と対比
し、漢文の「多識篇」として発刊したが、余り役には立たなかった
ようである。「大和本草」は本草綱目の分類法に益軒独自の分類を
加えて、1362種について由来、形状、利用などを記載したものであ
る。

大和本草には薬用植物だけでなく 薬用に使われる動物、鉱物も含ま
れ、農産物や加工食品も取り扱われ 、利用価値のない雑草なども対
象となっている。益軒によって本草学は単なる薬用植物学ではなく
、博物学、物産学、名物学(文学や歴史書に記載されている動植鉱物
の実体の研究)に拡大されたと言うことができる。その意味で本草学
は生薬学であるとともに農産物加工学や調理学であり、博物学でも
ある。益軒は農業にも大きな関心をもち、近くに住む農学者宮崎安
貞に1635年清王朝時代の「農政全書」を講義し、本邦最初の農業書
「農業全書」を書くのに大きな影響を与えたと言われている。また
1701年、黒田藩の命で「筑前続風土記」を著したが、これは日本で
最初の、社会学、博物学のフィールドワークと言われている。

このコラムもいろいろな分野を扱い、経済、政治、文化、エネルギ
ー、自動車、軍事学、IT、仏教、江戸学など扱った分野が多岐に
わたっている。貝原益軒の著書も儒学、神道、本草学(漢方薬学)
、医学、地理、歴史など百数十冊で、多くの分野を網羅している。

人間界は多岐な分野で成り立っているので、多くの分野を知らない
と、正確な評論ができないことになる。その点、貝原益軒はずば抜
けた才能で多分野を制覇しているので、すばらしいと思う。

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貝原益軒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

貝原 益軒(かいばら えきけん、1630年(寛永7年) - 1714年10月
5日(正徳4年8月27日))は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国
(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生れる。名は篤
信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。

成長し福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ7年間の浪
人生活を送ることとなる。三代藩主光之に許される。藩費による京
都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、
松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝
鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔
走するなど重責を担った。藩命により「黒田家譜」を編纂。また、
藩内をくまなく歩き回り「筑前国続風土記」を編纂する。

幼少のころから読書家で、非常に博識であった。ただし書物だけに
とらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にするこ
とで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを
旨とし、著書の多くは平易な文体で書かれより多くの人に判るよう
に書かれている。

70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に
及ぶ。主な著書に「大和本草」、「菜譜」、「花譜」といった本草
書。教育書の「養生訓」、「和俗童子訓」、「五常訓」。思想書の
「大擬録」。紀行文には「和州巡覧記」がある。
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大和本草
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大和本草(やまとほんぞう)は貝原益軒が編纂した本草書である。
1709年(宝永7年)に刊行された。

益軒は「本草綱目」の分類方法をもとに独自の分類を考案し編纂、
収載された品目は1,362種、本編16巻に付録2巻、図譜3巻、計21巻。

薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載
されている。また「大和本草」は古典に記載された物の実体を確定
する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは薬用植物を扱う
学問であるが、この大和本草に於いて日本の本草学は博物学に拡大
された。これらは益軒が本草学にとどまらず農学、儒学、和漢の古
典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある。

「大和本草」には漢名な無い品目も多数収載されている。益軒以前
の日本の本草学は「本草綱目」を分析する文献学であった。他の学
者は漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無
理に当てはめるというようなことをしたが益軒はそれをしなかった。
また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われて
いることも当時の学問書としては異例のことである。これは益軒が
学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである。

益軒は自ら観察・検証することを基本とした。この後日本の本草学
は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学
者が現れるようになった。

各巻
巻之一 
序 
凡例 
論本草書 
論物理 
巻之二 
論薬用 
巻之三 
水類 
火類 
金玉石土 
巻之四 
穀類 
醸造類 
巻之五 草之一 
菜蔬類 
巻之六 草之二 
薬類 
民用類 
巻之七 草之三 
花草 
園草 
巻之八 草之四 
?類 
蔓類 
芳草 
水草 
海草 
巻之九 草之五 
雑草 
菌類 
竹類 
巻之十 木之上 
四木類 
果木類 
巻之十一木之中 
薬木類 
園木 
巻之十二木之下 
花木 
雑木 
巻之十三 魚 
河魚 
海魚 
巻之十四 蟲 
水蟲 
陸蟲 
介類 
巻之十五 
水鳥 
山鳥 
小鳥 
家禽 
雑禽 
異邦禽 
巻之十六 
獣類 
人類 
付録 巻之一 
付録 巻之二 
諸品図上 
諸品図中 
諸品図下 



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