2790.ブログの記事と知性について



題名:ブログの記事と知性について

                           日比野

1.記事を書くことで磨かれるもの

ブログ検索のテクノラティが発表したレポートによると、2006
年第4四半期は、ブログ投稿数の多い言語の第1位に日本語が再び
ランクインしたそうだ。

現在、テクノラティが追跡しているブログの数は全世界で7000
万。そのうち日本語で投稿された記事数は全体の37%にも及ぶ。
ただし、これは「記事の投稿数」でのランク。

日本のブログ登録数は平成18年3月末現在で868万だから、テ
クノラティが追跡するブログ数の比率でみると12.4%しかない
。それでいて記事数では37%を占めるのだから、1ブログあたり
の投稿数が多く、活発に更新されている様子が伺える。

ブログを書くことによって磨かれるであろう能力を思いつくままに
上げてみると、

 1.論理的思考能力の向上
 2.関連知識・専門知識の増加
 3.社会的アンテナの感度があがる

があると思う。

記事一本とっても、それを書くには、下調べはそれなりに必要にな
るし、筋道立てて考えなければいけない。頭の中でいくら分かった
気になっていたとしても、実際に書き出してみれば、本当に分かっ
ていたのかどうかはっきりする。

普通、頭のなかで思いつくことは、雑多な着想の断片であって、系
統だったものじゃない。それを順序立てて論を組み立てていく力は
、思いつきとは別のもの。だから、書いてみるという行為は論理的
思考能力の向上に役立つ。付随効果として、関連知識や専門知識を
、仮にうわっぺらであったにせよ、学ぶことができる。

また、ブログを続けていくと、何の記事を書こうかと常にテーマを
探すことになるので、日常の観察が細やかになったり、社会への関
心が高まる。結果社会的アンテナがぐっと伸びて、感度が良くなる
。

社会派ブログを書くのは大変だったりするけれど、それなりの利点
がある。



2.社会・政治系ブログ記事にみられる3つの類型

世に出回っているブログの多くはごくごく普通の人が書いているこ
とが多い。

だから特に社会ニュースや政治を扱うブログなんかそうだけど、自
分で取材して一次情報を入手するのはとても困難。いきおい情報の
2次加工が中心になる。

これらの社会系・政治系ブログの記事には型があって、次に示す3
類系に分かれると思う。
   
 A)事実・事象に対する原因追求型      
 B)事実・事象に対する論評およびその評価型     
 C)事実・事象からの未来予測または対案提示型 

ブログでの記事は大体これらの類型のどれかまたはその複合型。

ブログの筆者の視点の方向性を時系列的にみるとA,B,Cの順に
過去・現在・未来をみる視点に対応してる。


A類型のブログ記事は、原因追求がその主眼だから、真実の提示や
暴露が中心になるし、B類型のブログ記事は、事実の論評だから筆
者の見識が表れる。C類型のブログ記事はB類型と同じく見識と未
来予測するところの予測力が必要になる。

A類型の原因追求型ブログ記事は、目にみえる事象を材料として、
原因を追求し、その答えを推測してゆく思考が必要になる。中には
、関係者しか知りえない内部情報を持っている筆者も当然いるのだ
けれど、もちろん推測の精度はその分だけ高くなる。

B類型の論評・評価型ブログ記事は、現時点での事象に対しての評
価。これはブログの記事を書く本人の価値観や認識力に大きく影響
される。たまに感情も入ったり。

よくある時事の記事を引用して論評するブログはこの型に入るだろ
うし、普段国内で目にしない海外記事を翻訳して紹介しているブロ
グ記事も、どの記事を選択して紹介するかという筆者の見識が入る
ので、これもB類型になるだろう。

C類型の未来予測・対案提示型ブログ記事は、未来に視点を置いて
いるとはいえ、その分析の前提には、A類型のように原因を推測し
て、それを踏まえつつ、未来のあり得る論理的帰結をつむぎ出して
ゆくもの。原因を推測・発見できて、現在の事象の意味を認識でき
て、未来への道筋を作っていく。結構大変な思考作業。

ネットの世界で価値があるものは、真実と暴露と高い見識。

A,B,Cのどの類型の記事でも、それぞれの記事内容がどれだけ
「真実」に近いか、より真相を「暴露」してるか、より高い「見識
」を持っているかによってブログの良し悪しを判定されているので
はないかと思う。



3.本質を見抜く力

スーパーのレジでは、商品についているバーコードで値段を自動読
み取りしたりするけれど、何故そんなことができるかというと、あ
らかじめバーコードのこの模様がこの値段だ、というデータがレジ
のシステムに入っているから。

りんごとアップルは同じものを指すけれど、文字記号データとして
は異なるもの。日本語と英語という、それぞれの言語に対応するデ
ータベースが必要になる。

「りんご=アップル」というデータベースを持っていないと、折角
入力した情報は「読み取れ」ない。

だから事象を認知できるためには知識というデータベースがないと
いけない。

バーコードリーダーを直訳すれば、「バーコード自動読み取り機」
くらいになるんだろうけれど、意味としてはそのとおりで、ただ読
み取っているだけ。べつに読み取ったものを、認識しているわけじ
ゃない。

認識であれば、対象に対して値段が高い安いなどの判断や意味づけ
が入る。りんごについたバーコードを読み取ったら、

「お客さん、入荷日と仕入先、それに他店と比較すると、30円高
 いですよ。」

なんて意見するレジがあったら、店からたたき出される。

認識力とは、見たり聞いたりした状況や人の言動に対する認識のク
オリティのこと。認知した対象に、なんらかの意味付けや評価をす
る力。


同じ事実を見ても、人によって認識は様々に違う。有名な話だけど
「アフリカの靴話」というのがある。


−−ある二人の靴のセールスマンがアフリカのとある国に派遣され
  ました。

  一人のセールスマンのAさんは意気消沈して本社に戻って来て
  、こう部長に報告しました。

  「あそこには靴のマーケットはありません。なぜならみんな裸
   足なのです」。

  さて、もう一人のセールスマンのBさんはいつまでたっても帰
  ってきません。心配になった部長が国際電話をかけると、Bさ
  んは、意気揚々と言ったのです。

  「部長、ここのマーケットは無尽蔵です。なぜならみんな裸足
   なのです!」と。                 −−


この「アフリカの靴話」の例では、「誰も靴を履いていない」とい
う「事実」に対して、Aさんの認識は「だから靴のマーケットはな
い」。Bさんの認識は「だから靴のマーケットは無尽蔵」。

全く同じ事実に対して、正反対の認識をしている。

事象に対して評価を与える認識力。これは事象をどうみるかという
見識であるとも言える。

加えてブログ記事を書くときには、対象を認知して、認識して判断
し、それを他者に分かるように記事にしないといけない。

特に系統だっていない個別事象とそれに対する認識を、順序立てて
論を組み立てていく力は論理的思考能力、いいかえれば思索力に関
わる。

だからブログ記事とは、筆者の知識の範囲内で捉えられる対象に対
して、筆者の認識力によってその対象の問題と原因を見抜き、筆者
の思索力によってそれらを表現したものと定義することができる。
 


4.不明推測法と知識と認識力

思考の方法として、演繹法や帰納法と並ぶ第3の方法として、不明
推測法(アブダクション)というのがある。

不明推測法とは、1890年にチャールズ・サンダース・ピアスが
提唱した思考法。

前提から出発して結論に至る演繹法や、個別事例から一般法則を見
つけてゆく帰納法とも違って、個別事例を引き起こした原因や法則
をうまく説明できそうな仮説をたてて、その仮説が正しければ必然
的に観測される筈の別の事象や現象を、調査・検証してゆくのが不
明推測法。

科学者が最先端の分野でよく仮説を立てて、実験と観測を繰り返し
て、仮説の正しさを検証しているけれど、あれに良く似た考え方。

A類型の原因追求型ブログ記事を書く人は、意識するしないに関わ
らず、この不明推測法による思考を実際にしているのではないかと
思う。

この不明推測法で思考する場合には、まず仮説を立てなければなら
ないのだけど、その仮説の精度、確かさはそのまま記事の正しさに
直結する。

仮説の精度は次の二つの能力に拠ると思う。

 α)仮説を傍証するような別の情報、時には当事者しか知らない
   ような内部情報を持っている。または、仮説と似たような事
   例についての豊富な知識を持っていて、仮説を容易に類推で
   きる。

 β)天才的な直感または洞察力・認識力によって、常に真実を見
   つけ出せるセンスがある。

αの能力は知識量に比例し、βの能力は認識力に依存する。この二
つの能力が高いということは、「真実」を掴み取ったり、「高い見
識」を持つことと同じだから、必然的にブログの質は高くなってゆ
く。



5.読書の意味

知識を増やす一番の方法は読書。読書で得られるのは過去の事例や
今まで知らなかった概念。

歴史は繰り返すというけれど、過去の歴史の事例を沢山知っていれ
ば、今の事象にひとつひとつ当てはめてみて何が起こっているか、
これから何が起こりそうなのかを類推できる。そんな例は枚挙にい
とまがないから、実際これらの知識は凄く役に立つ。

今の時代は人間が扱う知識がすごく多岐にわたって、ひとつひとつ
の領域の知識量もどんどん膨れ上がっていっている。後の時代にな
ればなるほど、過去の知識が積み重なっていくから当たり前といえ
ば当たり前だけど、科学技術や教育の普及によって、多くの人が知
識にたずさわったり、扱えるようになったというのも大きい。

さらに、個々の領域の専門性も増していっている。だれもが簡単に
追える世界ではなくなった。昔の哲学者達は、科学も数学も医学も
人文も神学もなにもかも一人であつかったものだけど、今となって
は遠い昔。一人で全部網羅なんてとても出来なくなってきている。

科学が発達して、CDやHDDなど外部記憶媒体の容量も年々増大
していくにつれ、情報の全体量も膨れ上がっていくばかり。本もい
ってみれば、情報記憶媒体の一種だし、今ではネットも情報データ
ベースの一翼を担ってる。

だからといって、本をわざわざ読まなくてもネットがあればいいじ
ゃないか、というのは少し早計だと思う。知識を頭に入れ、腑に落
とす作業は思索力と強い相関関係があるから。



6.思索力は記憶力と認識力の和

本を読んでその内容を憶えるとき、細部まで、時には一字一句まで
記憶してしまう人もいれば、前提と結論だけ憶えて後は忘れてしま
う人とか、中には本の題名すら忘れてしまう人もいるかもしれない
けれど、読書って、概念をデータにして頭に蓄積していく試みでも
ある。

思索するときには、記憶力と認識力が必要になってくる。思考って
互いの概念同士を論理で結んでいって思考の論理演算回路を作るこ
と。

思考のプロセスは、普通、頭の中で概念同士を結線してゆくのだけ
れど、そこで使われる個別の概念は、当然その人の頭の中にある、
記憶されている知識しか使えない。だから記憶力の高い人、知識が
沢山ある人は使用可能な概念の論理ブロックが沢山あることになる
から、色々な思考の論理演算回路を組みやすい。思考に幅がでる。

もちろん無限に記憶できる人なんて存在しないから、人は様々な外
部記憶装置を使ったり、思考の補完ツールを使ったりして記憶力や
思索力を補ったりする。

日々の着想を逃さずメモしたり、ポストイットに書いたりして、忘
れないようにするのなんかはその典型。

確かにネットもそうだけど、本は外部記憶装置の役目を果たす。だ
けど、肝心な時に適切な概念を呼び出せないと意味がない。

たとえGoogleなんかの検索ツールを使って、ネットという外
部記憶装置から情報を引っ張りだそうとしても、検索キーワードが
適切じゃないと目的の情報は引っ張りだせないから、最低でもキー
ワードくらいは記憶していないといけない。

だけど、そんな思索に使うような情報検索のキーワードって重要な
単語であったり概念そのものを指したりするものだから、やっぱり
ある程度は概念を記憶できていないといけなくなる。

次に認識力だけど、それぞれの概念同士を結線してゆく力は認識力
とも強く相関してる。

認識力とは、互いの概念同士がいかなる関係で結びついているか、
前段の概念からこういう論理を出力したら、次段の概念にどういう
結果をもたらすか、そういう相互の関係を見抜いていく力。これが
弱いと概念同士を結線していけない。

概念の結線作業の方法はといえば、頭の中でどんどん結線していけ
る人は別として、有名なKJ法なんかを使って概念をカードに書い
てみて、あれこれ組み合わせたり、ひっくり返したりして、目にみ
える形で結線してゆくのがある。

また、自分の頭じゃなくて他人の頭を借りてくるという方法もある
。他の人とあるテーマについて話し合ったり、ブレーンストーミン
グみたいにどんどん意見を出したりして、自分では思いつかないよ
うな角度からの意見を聞いてみたり。言ってみれば、外部の認識力
を借りてきて使うやり方。

このあたりの知的生産の技術については山ほど本が出てるから、皆
それなりに苦労しているということ。



7.心の言葉は認識力を高める

高い認識力とは、より広く、より多くの対象を的確に捉える力。理
解できる力。

高い見識、高度な認識力とは、あらゆる立場からみても、あらゆる
条件でみても確かにそのとおりと認められるような見解。文字通り
高みに上って始めてみえる情景。中にはなんとも判断できなくて、
やってみなくちゃ判らない事象ももちろんあるのだけれど。

認識力は、対象をどう捉え、なんと意味づけしていくかということ
だから、その人の価値観や考え方に大きく左右される。だから認識
力を高めるためには、自らの価値観や考え方そのものを高めていか
ないといけない。

それには、高次の思想に触れて、それらを自分のものとしていく必
要がある。

内観して、思想を腑におとす。自分の心の言葉にする。自分の心に
響く言葉というのは、自分の心にそれに感応するものがあるから。

だから、心を磨いたり、心をゆたかにするということは、自分の心
の言葉をどこまで増やしていけるかのポテンシャルを高めることに
つながる。

言葉って、心の有り様の表現形式の一形態。心の言葉は、たぶん心
のかたちを言葉という表現形態で「みえる化」したもの。

他にも絵画や音楽といった形態でも「みえる化」はできるとは思う
けれど、必要とされる表現技術に高いレベルが要求されるので、あ
まり一般的ではないかもしれない。

「みえる化」できた心の言葉こそ、その人のもの。それはゆるぎな
いもの。

高次の思想に触れ、自らの心を磨いて、時にその一部を「みえる化
」して、自分の心の言葉として自分のものにしてゆく内観。それが
認識力を高めてゆく。

なにかの事象をぱっと見て、それが何であるか瞬時に認識できる力
。その人の認識力は、その人の心の言葉に直結してる。

なぜかというと、事象は単なる事象にしか過ぎなくて、それが「な
にもの」であるかを示す名札がついている訳じゃないから。それが
「なにもの」であると意味づけしてゆく材料は自分の中の心の言葉
だけ。

知識を自分のものにしているということは、その知識を自分の言葉
で一言ででも、長文ででも自由自在に表現できるということ。

言うなれば、10=5+5とでも、10=1+2+3+4とでも表
現できるようなもの。

だから、たとえば、認識すべき事象が3だったとすると、自分の心
の言葉となっている10を3+7と表現しなおして、その3の部分
と同じではないか、などと照らし合わせながら認識していくことが
できる。

だけど、知識を心の言葉として、自分のものにしていないと、その
一言一句どうりにしか理解していないから、自分の言葉で自由自在
に表現できない。10は10としてしか、認識できていない。

だから、そこに3という事象があっても10と3はイコールじゃな
いから認識対象外となってしまう。銀の匙がスープの味を知らない
のと同じように事象だけが通り過ぎてゆく。

事象を認知するためには知識があればいいけれど、その事象を認識
するためには心の言葉というデータベースがないといけない。

心の言葉は思考の出発点だから、ここがお粗末だとどんなに思索を
がんぱっても、大した思考の演算式は得られない。がらくたの知識
からは有益な思考は得られない。

知識自身は時間があればどんどん増えてゆくものだけど、認識力を
高めるのは簡単じゃない。よく言われることだけど、単に本を読む
だけじゃなくて、よく考えて、腑におとして、自分のものとするこ
とは認識力を高めるには必要不可欠。

思想をしっかり咀嚼する。膨大な情報が溢れる今だからこそ必要な
こと。万巻の書を全部読みきれるほど人生は長くはない。

 
(了)


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