2789.相次ぐ食品偽装の背景に潜むもの



相次ぐ食品偽装の背景に潜むもの S子 
   
 ▲相次ぐ食品偽装
()老舗和菓子メーカー「赤福」(三重県伊勢市)が伊勢名物「赤福
餅」の製造日や消費期限を偽装していた問題で、同社は18日記者
会見し、売れ残りや返品など店頭から戻ってきた商品についても冷
凍し、解凍後に再包装して再出荷していたと明らかにした。()
(毎日新聞2007年10月19日)

()老舗和菓子メーカー赤福(三重県伊勢市)の不正再出荷問題で、
同社が売れ残りは冷凍保管後販売していたという従来の説明と異な
り、一部は冷凍せずに再包装し、再出荷していたことが二十日、新
たに分かった。()(愛媛新聞2007年10月21日)

次々と暴かれる食品の偽装問題は、ついに天照大神を祀る伊勢神宮
のお膝元にまで及ぶという異常事態(もしかしたら非常事態かもし
れない)となった。消費者を軽んじ、人の道からも外れ、誠意を尽
くせず、自社の保身にばかり徹する姿に神の怒りが降り下ろされた
観がする。

一回目の記者会見で謝罪に応じた「赤福」浜田社長の言葉には、
どこか表面的で心底からの謝罪ではないように私には観えたので、
「あれっ?」と思い、いぶかっていたら、案の定更なる嘘の上塗り
(保身)をしていたことが公となった。

伊勢神宮のお膝元で長年にわたる食品の偽装を隠し続けてこられた
のは、老舗「赤福」という看板の信頼実績が大きくものを言ってい
た。その糸をつなぐ消費者との信頼を裏切る偽装行為を計りながら
、自社の存続と保身をとり続けた結果、「赤福」は無期限の営業禁
止処分となった。

ただし、この無期限というのは単に期限が限定されていないという
だけのことらしいから、営業禁止処分が長期にわたるものなのか、
短期だけのものなのかは、我々の関与の及ばないところのようだ。

今回の「赤福」の偽装問題は一連の食品偽装とは異なり、伊勢神宮
という日の本の神様のお膝元で発覚したということで、日本人の
「食」に対する意識のありようへの厳しい警鐘(かなりの危機感)
と観てとれるのではないかと私は思っている。

また、保身は欲心に繋がり神の怒りを誘うことになり、何のために
もならないどころか、自滅の道を突き進むことになるので、保身は
よくないという神様からの訓告がここから観てとれるのではないだ
ろうか。


▲「食」に対する意識の低下
今回の「赤福」のみならず、雪印やミートホープ、不二家、白い恋
人たち、皮内地鶏の食品偽装問題が後を絶たないのは、一体どうし
たことなのだろうか。その背景を探る上でひとつ言えることは、
「食」に対する我々ひとりひとりの姿勢(意識)が問われているの
は確かだろう。

日々三度の食事を取りながら、我々はその肉体を形成しつつ生かせ
て頂いている。国内食料自給率が40%前後にもかかわらず、今日
の飽食を迎えることができるのも、まだまだ日本が経済大国である
ゆえんが大きい。

世界各国からの輸入食品も多種多様で、国内に居ながらにして世界
各地の名産品を口にできるのも、お金さえ出せば可能なものとなっ
ている。国内食料自給率は最低水準にあるのに、お金さえ出せば
「食」には困らない状況に我々はあると言えるだろう。

だが、ここにひとつの落とし穴がある。お金を出して(払って)
「食」を満たすことによる我々の意識の慢心である。お金を払って
やってるんだぞ、買ってやってるんだぞ、ひどいのになると食って
やってるんだぞという恐ろしいまでの慢心である。

これは経済大国日本が、経済優位の姿勢を優先しすぎた結果の拝金
主義蔓延がそうさせた。その象徴が東京だろうと私は思う。東京は
今都市再開発の波で、高層ビル建築のラッシュである。その高層ビ
ル群の中にもちろん「食」のコーナーはある。

めずらしいもの、おいしいもの、家庭では味わえないような手のこ
んだもの等、「食」をいかような形でもって我々に提供してくれて
いる。財布に余裕のある人なら、このような場を通じて「食」めぐ
りを満喫したりしているのかもしれない。地方都市のホテルやちょ
っとしたお店では、昼食バイキングお一人様いくらで食べ放題とい
うのもそうめずらしくない光景だ。

そういう場所に嬉々として群がる人々を見ていると、私は妙な違和
感を覚えて(テレビで観る限り)、申し訳ないのだが、人々が皆家
畜に観えてしまう。それはまるで「千と千尋の神隠し」に登場する
千尋の両親のように。

表面的(形式的)にはお金を払うという経済行為を取りながら、
「食」をきちんと満たしているように観えても、実際には「食」を
他人まかせにしてお腹を満たしているにすぎないのだから、私には
家畜と同然に思えるのだ。

拝金主義の蔓延で慢心した我々の行き着く場所が家畜同然では、我
々の「生」は納得することもできず、燃え尽きることもできないだ
ろう。「食」に対する意識の低下(希薄)は、そのまま「生」の意
識の低下(希薄)に直結する。それほどに「食」は生きるうえで重
要であり、生きるうえでの基本中の基本である。(当たり前だ。そ
の当たり前が今当たり前でなくなっているのだろう。)


▲里の文化
「食」に対する意識の低下(希薄)で家畜同然にある我々が、今後
回帰しなければならないのは「里の文化」である。(と神様は言っ
ている。)里とは「山あいや田園地帯で、人家が集まって小集落を
つくっている所。村落。人里。ふるさと。故郷。(都に対して)田
舎。」(goo辞書より)

要するに、隣近所がお互い様の心で助け合いながら、お互いに生か
し生かされ、与えられたその居場所で「生」を生き切りなさいとい
うことだろうと私は思う。そして、「食」に関しては地産地消が好
ましく、それを優先してゆくことだ。その地元でとれたものを地元
の人間が消費してゆくことではじめてその土地の風土というものが
形成されるからだ。

全国各地に浸透しているコンビニエンスストアの「食」や輸入食品
ばかりを口にしている限りは、「里の文化」は生まれようがないの
である。だから生きる基本である「食」において、自給自足とまで
はいかなくとも、食材購入後はせめて自分で手作りすることを私は
お勧めする。

「食」に一生懸命になると「生」に対してもひたむきに謙虚になり
、だからなお更一生懸命に「生」と向き合うことができる。それは
とりもなおさず「自己」と向き合うことにもつながる。

また、神様は我々の世界が「人の祈りも国家の祈りも通じないほど
、荒々しい世の中になっている。」と警告を発している。格差社会
の到来が如実にそれを物語っている。

貧富や勝ち負けという二項対立の相対論は人間界だけのものにすぎ
ない。自然界には相対論など存在しない。それは日本の四季を観れ
ばわかることである。夏や冬の暑い寒い時期だけではなく、そこに
移行するまでの曖昧な季節(春や秋)があることで、我々日本人は
あらゆるものを受容できるようになっている。

それが今は季節も極端な方向へと向かいはじめており、我々の受容
力がどんどん狭まれてきている。つまり我々の心から曖昧さが失わ
れつつあるということだ。格差社会現象も季節外れの魚の豊漁や花
の開花は、皆全て我々の心象風景がそうさせた。曖昧さはそのまま
繊細さにつながるのだが、今我々の心からこの繊細さはなくなり、
世の中は荒んだ。痛ましい殺人事件も皆その心象風景が具現化した
にすぎない。

「里の文化」はそんな二項対立の明確な世界を曖昧に彩ってくれる
懐かしい我々の心のふるさとであり、我々の受容力の大きさをはか
るための調和の文化でもあるだろう。


▲たゆまぬ努力
今回の相次ぐ食品偽装問題も、生きる基本である「食」を他人まか
せにしすぎた我々の姿勢(意識)に問題があるということがこれで
わかった。経済優位の拝金主義が我々に慢心をもたらし、「食」に
対する意識の低下(希薄)につながった。それはとりもなおさず
「生」に対する意識の低下(希薄)に直結し、我々の「生」は納得
がいかず、不燃焼してくすぶっている。

では、どうすれば我々ひとりひとりの「生」を納得させ、燃焼させ
ることができるのか。それには、与えられたその居場所で、「たゆ
まぬ努力」を我々ひとりひとりが惜しみなく続けることだと神様は
言っている。

つまり現実に向き合い、自己に向き合い、与えられた自分の役割を
その都度生き切ることである。生き切るとは息切るにつながり、息
が切れるほど一生懸命に自己と直面する様を言っていると私は思う。

便利な社会に慣れ親しみすぎた我々の視点は外向きになり、足元(
生きる基本)を観ることを忘れてしまっている。足元(生きる基本)
がぐらついていたのでは、何事を成すにもぐらついてしまって、納
得のいかないものに終わるのは当然だろう。

そして、納得というのは他人が決めるものではなくて、それは自分
が行為してはじめて得るものである。「たゆまぬ努力」を「食」を
通じて続けることだけでも我々の「生」は十分生き切れる(息切れ
る)と私は思うのだが、どうだろう。
 


コラム目次に戻る
トップページに戻る