2785.民主主義とノブレス・オブリージュは両立するか



題名:民主主義とノブレス・オブリージュは両立するか

                           日比野    

1.高貴な精神

民主主義とノブレス・オブリージュが両立するかについて考えてみ
たい。

「高貴な者は、高貴な振る舞いをせよ。ノブレス・オブリージュ。
美しい響きだ」

2006年1月から1年間に渡って放映された『仮面ライダーカブ
ト』に登場する、仮面ライダーサソード役、神代剣の名セリフ。

ノブレス・オブリージュとは、フランス語で文字通り「貴族の義務
」あるいは「高貴な義務」のこと。一般的に財産、権力、社会的地
位には責任が伴う事を言うけれど、貴族のいない民主国家における
ノブレス・オブリージュを考えてみる。

高貴さを表現するのに、身分が使えないということは、外見もさる
ことながら、それ以外のもの、精神的なもので高貴さを表現しなけ
ればならないということ。

プラトンは、魂には理性、気概、欲望の3つの部分からなっており
、理性が他の2つの部分に命令を発して、全体として調和するとき
、正義が実現されるとした。

欲望が理性に従わないと不節制・放埓に堕し、気概が理性のくびき
を逃れて暴れだすと乱暴や傲慢が生まれる。

高貴な精神の生成にはどんな条件が必要なのであろうか。



2.精神の自由の確保

正義もそうだけど、高貴な精神を作るためには、まず精神が変化可
能な状態でないといけない。精神状態が固定されて、動くことがで
きなかったら、高貴さには一歩も近づけない。

精神が固定されている状態って何かといえば、たとえば、深い悔恨
や悩み事、時には嬉しい思い出に浸っているときのように、心が一
点に囚われている状態のこと。執着で一杯のとき。

貴族が高貴であったり、そのように見えたりするのは、高い教養を
持っていたり、上品なたち振る舞いをしているから。

それらは幼いころからの教育や上流社交界の場に出ることによって
身に着け、洗練されていったもの。そしてそれらを可能にしたのは
、十分な時間。

時間的余裕から生み出される趣味の洗練は、やがて上流階級全体に
対しての厳格で高貴な作法となっていく。その結果、たち振る舞い
も洗練され、それが精神にも影響をおよぼして、それに従った精神
を作ってゆく。

貴族は普通金持ちなものだから、極端な話、生きるのにあくせく働
かなくていい。必然的に自分の自由になる時間が沢山持てる。しか
も、その時間のほとんどは生きるために働くどころか、悩みごとや
心配事とも無縁な時間。

普通の人は、腹が減れば、頭の中は食べ物のことで一杯になるし、
リストラされれば、将来の不安で夜も寝られない。早く仕事を見つ
けて安心したい。それだけ精神の自由を確保する時間が持ちにくい
。大きなハンデを背負ってる。

要は、心の中が何に満たされているかということだけど、悩み事で
いつも満たされている状態のまま、高貴さに向けて精神を向上させ
るのは難しい。

高貴な人は高貴なことを考え続けた人。でもそれを可能にするため
には、悩みごとで心を満たされる事態に陥らないだけの経済力はあ
ったほうがいい。お金がありすぎて、逆に執着にならない程度には
。
 


3.ディオゲネスとボヘミアン

精神の自由を確保するためには、執着から遠く離れていないといけ
ないと言ったけれど、これは多分に主観的なもの。過去には、お金
にまったく心が囚われなかった人々がいたのは事実。

ギリシャの樽の中の哲学者、ディオゲネスはその代名詞。彼は物質
的快楽をまったく求めず、粗末な上着のみを着て、樽を住処とし、
乞食のような生活をした。

アレキサンダー大王がディオゲネスに会いに行き、日向ぼっこして
いたディオゲネスに、何なりと望みを叶えるから、何か希望はない
かと聞くと、「あなたにそこに立たれると日陰になるからどいてく
れ」とだけ言った逸話はあまりにも有名。

執着が生まれる金銭の額は人によって違うもの。全く執着が生まれ
ない人も、時として存在してる。

また、限られた額をいかに使おうかと知恵を働かせて精神の自由を
確保していった人々もいる。経済力がなくても、生活を最低限にき
りつめ、知的生活を優先していった人々。

19世紀のイギリスの思想家P・G・ハマトンはその著書で、高尚
なボヘミアニズムとして、これらの人々を紹介している。

ボヘミアンとは15世紀にボヘミアからフランスにやってきたと考
えられるジプシー達をあらわすフランス語から派生した言葉で、放
浪生活をしたり、社会の習俗を無視して自由奔放な行動や生き方を
した人々のこと。

ハマトンは様々な実例をあげて、ボヘミアンには、知的生活を優先
するために、物質的快楽に禁欲的な高尚なボヘミアニズムと、逆に
物質的快楽にのめりこみ、知的生活に関心を持たない俗物主義的な
最低のボヘミアニズムがあるとしている。少し長くなるけれど高尚
なボヘミアニズムについて引用してみる。
 

−− ボヘミアンは自分のもてるわずかのものをまず第一に実際に
   どうしても必要なもののために使いました。

   次に、本当に自分に喜びを与えてくれるもののためにつかい
   ました。社会の慣習だからといって使うようなことはまずあ
   りませんでした。このようにして自らの欲するものを得たの
   です。

   ボヘミアンたちの持っている本は古本で今にもバラバラにな
   りそうな代物でした。しかし、彼らは確かに本を自分のもの
   とし、読んだのです。彼らの身につけているものはみすぼら
   しいものでしたが、身体を暖めるには充分でした。

   あらゆる方法を利用して、金をかけずに旅行しました。徒歩
   で旅することも少なくなかった。大都会のうらぶれた片隅で
   生活しながら、多くの美術品や自然や人間の営みを見て暮し
   たのです。 −−


高尚なボヘミアン達は、精神と肉体の自由のどちらを選ぶかに際し
て、文句なく精神の自由を選んだ。

より高次なもののために、低次なものを切り捨ててゆくストイック
な生き方にもまた、精神の自由を確保する道がある。

  

4.より善く生きる

「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなく
て、善く生きるということなのだ。」

ソクラテスが獄中で親友のクリトンに語った有名な言葉。

精神と肉体の鬩ぎあいの中で、肉体煩悩を克服しそれをコントロー
ルする。それは、まさに自分こそが心の主になっている姿。欲望に
心を支配されていない自分がある。

自分の精神が心の主になれないと、自在に変化して善く生きること
はできない。

善く生きようとする姿は、神に向かう姿勢。高貴さにも近づく道。

有り余る富があったとしても、贅沢な時間の中を過ごしたとしても
、たとえ貧しさの中にあったとしても、結局のところ、より善く生
きる時間がどれくらい人生の中にあるかで、その人の高貴さが形作
られる。

より善く生きるということは、精神が悪から遠ざかっているという
こと。

そのためには、悪を捨てて善を選ぶ心。より高次なものを選び取る
精神態度がなくちゃいけない。

だから、そういう人は傍目にはストイックな生き方をしているよう
に見えることもある。

ストイックな生き方は、精神の自由を確保したりもするけれど、ま
た同時により善く生きる方法のひとつ。
 


5.フリーターとニートとひきこもり

教育を受けず、労働をおこなわず、職業訓練もしていない人。通称
ニート。

日本のニート人口は2005年時点で約87万人と言われている。

フリーターはニートと混同されこともあるけれど、本来はフリータ
ーはなんらかの仕事をしているのに対し、ニートは仕事をしていな
いという違いがある。働く意欲のあるなしで区分することもある。

世間では、フリーターもあまりいい印象で使われることは少ないけ
れど、ニートや引きこもりは、さらによくないとされている。生産
活動になんら従事していないからだろうか、問題視され、社会のお
荷物的な扱いになってる。

社会的に不安定な存在という意味では、フリーターも、先に紹介し
たボヘミアンとあまり変わるところはないし、ニートや引きこもり
と、たとえば、千日回峰の行者や比叡山の修行僧とでは、通常の生
産活動に従事していない、役に立たない、という意味ではそんなに
違いはない。

彼らは、山に籠って、山々を走り回ったり、外界と隔絶された僧房
で黙々と修行している。ひきこもりというなら、これこそ純粋なひ
きこもり。

だけど行者や比叡山の修行僧をニートとかひきこもりとか言う人は
いない。

つまり、なにか高尚なもの、高次なものに仕えているという生活ゆ
えに是とされているのだと思う。

何かに仕えるということ自体が、たとえ、なにも生産していなくて
も、なにかの役に立っていると思われている。実際そうなのかもし
れない。

人間は、一日のうちで精神を自由にする時間をもつべきだと思うけ
れど、これは国や社会のレベルでもそうなのかもしれない。

現代は社会が忙しくなって、共働きも普通になって、社会全体がせ
かせかしてる。

少々乱暴な意見かもしれないけれど、昔は主婦が家を守り、一日中
家族のことを気にかけ、考え続けてくれる存在としていてくれたか
らこそ、家族の精神的安定を受け持っていた面もあったのではない
かと思う。それがなくなってきたから、その代わりとして、ニート
やひきこもりがあらわれてきたのではないかとさえ。

ニートとかひきこもりとかいうけれど、大事なのはその中身。修行
僧のように目に見える形で、修行してございじゃないから分かりに
くいだけ。

自由になる時間でもって精神の自由を確保して、時にはストイック
に低次なものを捨ててでも、高次なものを求める精神的態度がある
かどうかか肝心なこと。
 


6.戒と律

仏教用語で戒律というのがある。

あれもこれも何かかもしてはいけないとか、なにか堅苦しいものを
連想するのだけれど、戒と律とでは意味が違う。

「戒」はこれを守ろう、と自分で決めるルール。個人的なもの。
「律」は法律的ニュアンス。破れば罰が与えられる決まり事。

つまり、「戒」は自ら自分の心を正してゆくもので、「律」は社会
生活を秩序あるものとするための規範。ルール。

戒は個々人の心を律し、律は社会秩序を守る。

ノブレス・オブリージュの核心は、自発的な無私の行動を促す明文
化されない社会の心理。法的な義務ではないけれど、これを為さな
かった事による、社会的な批判を受けることもある。

要するにノブレス・オブリージュって律ではなく、戒のことを指し
ている。

日本は、この戒にあたる目に見えない道徳規律が伝統のうちに色濃
くあって、律に頼ることなく社会の秩序を守っていった。

ポール・クローデル(1868―1955)が日本人は高貴だ、と
いったのも日本人の心の中の戒をみてとったからだろう。

律によってかろうじて秩序が保たれる社会と、戒によって心のレベ
ルから秩序を成す社会の差は果てしなく大きい。

世界の殆どは律に頼って、時には暴力装置でもって、秩序を保って
いるけれど、日本は戒が伝統として生活道徳として流れていたから
、そもそも律の出番が少なかった。これも天国の一条件なのかもし
れない。
 


7.民主政体とノブレス・オブリージュ

 「美しいことを日常のつとめとすれば、徳を所有するほうへ、醜
  いことを日常のつとめとすれば、悪徳を所有するほうへと導か
  れるのではないか」

「国家 巻W」より引用したソクラテスの言葉だけど、これも正し
い戒が徳を身につける手段であることを示してる。

精神の自由と、正しき戒を自分で決めて守る精神と、それを善しと
する伝統。これがノブレス・オブリージュを生みだしてゆくのだと
思う。

高貴さは悪を遠ざけ、より善く生きる姿勢が培うもの。 

民主国家におけるノブレス・オブリージュとは、身分や経済力に関
わらず、個人が自らの心に戒めを持つことから形成されてゆく。

日本にはまだ、精神の自由を確保する経済力と時間がある。日本人
の多くが悪を遠ざけ、より善く生きようと願い、自らが戒をなし、
それを守ろうと生きるとき、日本のノブレス・オブリージュは始ま
る。

(了)
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ハーバード・ビックス講演会
From: 得丸公明

10月29日に、東京女子大学で、「昭和天皇」を書いたハーバード・ビックス
の講演会があります。昨年度の合宿のテーマでした。

テーマは天皇ではありませんが、質問などあればぶつけることも可能かと
思います。

http://lab.twcu.ac.jp/acad-soc/page005.html


東京女子大学学会 講 演 会  (2007.10.10.更新)



   「公開」 
とあるものは、一般の方にも公開しているものです。
   関心のおありになる方は、どなたでも当日直接会場にお越しください。
   事前のお申し込みの必要はありません。聴講は無料です。

   「学内」とあるものは、東京女子大学学生を対象とするものです。

  会場 東京女子大学 

  交通 JR西荻窪駅北口または吉祥寺駅北口から関東バス利用「東京女子大
前」下車
    (〈西荻窪駅北口〜吉祥寺駅〉間の関東バスです)


/公開/  地域文化部会主催講演会
10月29 日(月) 14:55〜16:25   24301教室
題目  Non-combatant Immunity and the Myth of US " Good Intention"
     米国は本当に民間人攻撃を自制したのか−神話の検証−
     講師  ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授)

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