2784.朝鮮通信使と雨森芳洲



今後、朝鮮が統一に向かうが日本と朝鮮の間には、摩擦がある。
この解決に雨森芳洲の知恵が必要になる。       Fより

雨森芳洲は、外交思想を『交隣提醒』に表している。対馬藩主宗義
誠に献上したので、対朝鮮外交の提要(心得書)が書かれ、その内
容は朝鮮の風俗・習慣をよく理解し、違いを尊重して外交に当たる
べきことを事例を挙げて説き、偏見や蔑視を抱いてはならないと強
く主張している。また、『誠信の交わり』については、互いに欺か
ず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信であると
説いる。この「互いに欺かず争はず」の思想と行動は、国際化時代
の指針でもある。

国際化の要諦は、第一歩は相手国の文化・歴史・風俗を理解するこ
とだが、わが国日本のことも十分理解した上で交わらなければ、本
当の意味での国際化にはつながらない。雨森芳洲は日本の古典も熟
読し、作歌一万首をこえるという日本人としてのアイデンティティ
ーがあった上での異文化理解を行い、理想的な国際化のすじみちを
示している。

特に現在、朝鮮と日本は日本統治の時代があり、韓国の人たちと話
すと日本へのわだかまりを感じる。このような現在も同様に日本の
歴史・文化を理解・説明できて、初めて国際化ができると見る。

そして、江戸時代も同じで、天正13年(1585)関白となった豊臣秀吉
は、同15年九州を平定し、ついで大陸に目を向け、前後7年間、2度
にわたる朝鮮出兵、いわゆる「文禄・慶長の役」である。
結局、秀吉の死によってこのいくさは終止符を打つが、朝鮮国全土
は荒廃の極みに達し、前時代までの両国の良好な友好関係はたちま
ちにして崩れ去ってしまい、その修復を必要としていた時代である。
このため、朝鮮通信使の派遣を江戸幕府は要請し、合計12回の通
信使が江戸時代、日本を訪れている。

また、当時の政治制度でも、朝鮮の儒教政治で日本の武家政治と、
その政治・文化の背景が違っていた。この政治制度の違いが、一層
理解を難しくしていたが、この違いを分かっていたのが雨森芳洲で
あり、それを通信使の書記官である申維翰に説明している。

もう1つ、現在、江戸時代は鎖国の時代だったという誤った歴史観
がある。1607年〜1811年までの204年間、12回に及ぶ
通信使の来聘は、江戸時代、日朝の友好往来に画期的な成果である。
また、この時代、琉球とも外交関係を開き、通商は中国、オランダ
と活発に行われたし、日本は当時、世界での銀生産量の1/3とい
う鉱業国家で、そのほとんどを輸出していた。

また、銅生産でも抜きん出ていた。その証拠にベトナムのお金の単
位のドンは、銅が訛った物である。そのように日本は世界貿易の拠
点でもあったのだ。オランダの交易品の多くは中国の絹で、日本は
伊万里焼と銀・銅である。

もう1つ、第7次の使節団から歓迎の渦には幕府・各藩、知識人の
みならず、多数の民衆が参加したことである。これこそ『民際』の
あるべき姿であった。国と国との交流は政府の代表者が進めるため
に、『国益』の制約と限界がつきまとう。しかし、『民際』は権力
者が交代しても続く。幕府が通信使とのふれあいを禁じても、民衆
はそれを乗り越えて、交流のすそ野を広げた。その事例としては、
通信使の一行の華やかな衣装、耳慣れない朝鮮音楽などが強烈に残
り、三重県津市分部町、鈴鹿市東玉垣町の『唐人踊り』や岡山県牛
窓町紺浦の『唐子踊り』になったようである。異質な物に出会うこ
とで文化の発展はあることを教える。

1719年第9回の使節に同行した書記官の申維翰『海游録』で、雨森芳
洲の思想が朝鮮に伝わり、1990年5月、韓国のノ・テウ大統領が国
賓として訪日した折、宮中晩餐会で挨拶の中で、雨森芳洲について
言及している。

現時点も、再度、北朝鮮を韓国が救済する方向での朝鮮統一が行わ
れる方向であり、中国は不安を持って見ているが、歴史は1つの流
れに乗って動いていくと予想してる。この朝鮮統一で、日本との関
係が見直されることになる。この見直しの機会を有効に活用するこ
とが必要であろうと見る。

このためには朝鮮の歴史・文化を理解し、日本の状況も説明するで
きる能力が必要になる。分かり合えるには、大きな道のりが必要な
のかもしれないが、日朝関係、日韓関係を再構築することである。

日本は戦争を否定しているので、善隣友好のまじわりしか道がない。
その点を十分にわきまえて、かつ主張も行い国益や友好的な雰囲気
を守ることである。

芳洲先生の思想と行動に学びたい。

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雨森芳洲
http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/hosyu-2.htm

 近年、幕藩体制下における東アジア世界、とりわけ隣国朝鮮との
交流史が見直され、一躍クローズアップされ始めたのが、江戸時代
中期の対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者雨森芳洲(1668〜1755) 。

出自と学問
出生は北近江の雨森村(現滋賀県伊香郡高月町雨森)、また京都・
伊勢ともいう。字は伯陽。はじめ俊良と称し、仕官・還俗後は藤五
郎、さらに東五郎と称した。
朝鮮では中国風に雨森東の名を用いた。のちに六代藩主宗義誠より
一字を賜り誠清と名乗る。芳洲はその号、別号には橘窓・櫟斎・尚
絅斎・(朝鮮逗留中は)院長等がある。

雨森氏は江北の土豪として知られ、戦国期には浅井家に仕え数々の
武将を輩出したが、小谷城落城・主家滅亡に際し没落したという。
芳洲の父清納は京都で町医者を開業。12歳頃みずからも医学を志す
が、のち儒学に転じ柳川震澤(1650〜90) に師事。
父没後の18歳頃江戸へ出て木下順庵(1621〜98) に入門。新井白石
(1657〜1725) ・室鳩巣(1658〜1734) ・榊原篁洲(1659〜1706) ・
祇園南海(1677〜1751) と共に『木門の五先生』に数えられた。
「文は芳洲、詩は白石」と称されるなど文章の秀逸さは木門随一で
、師は「後進の領袖」と評した。

対馬藩に仕官
元禄元年(1688)同門の対馬藩儒西山順泰(1660〜) が没し、翌年藩
は順庵に後任の儒者を求めた。
対馬はその地理から古来より日朝交流の窓口で、徳川幕府は朝鮮外
交の実務を対馬藩に命じていた。よって藩では進講のほかに外交文
書の解読・起草、中国等の漂着船の筆談役などをも務めうる学識豊
かな儒者を必要としていた。
順庵は当時22歳の芳洲を抜擢。
師の進言もあってか、若い芳洲は江戸藩邸勤めのまま引き続き順庵
のもとで学ぶよう藩から命じられた。
翌年芳洲は中国語を学びはじめ、長崎へも数度遊学している。藩の
儒者採用の目的を承知して、音読を通じて漢文能力の向上をはかる
ためであったろう。
仕官から4年後、26歳で対馬に初赴任。
以後約40年間、主任務である藩主らへの進講・真文役(外交文書の
解読・起草)をはじめ、求めに応じ漂着船の筆談役・文庫(古記録
類)の書籍係・歴代藩主の実録編纂・朝鮮支配役の補佐役・朝鮮通
信使に随行する真文役・参判使や裁判役(両者とも藩から朝鮮へ派
遣される使者・外交官)・幕府との折衝役・藩主の御用人などを務
めた。

芳洲と朝鮮
31歳で朝鮮支配役の補佐役を命じられ、はじめて朝鮮へ渡ったのは
元禄15年、35歳の時。先代藩主の引退報告の使者としてである。
この訪朝は彼に朝鮮及び朝鮮語の理解が不可欠なものと痛感させた
のであろう。
翌年から2度、釜山の倭館(藩の外交役所)に滞在して、精力的に
朝鮮語と朝鮮の諸事を学んだ。
藩儒みずから朝鮮留学した前例はなく、芳洲の意気込みと真剣さが
窺われる。
この留学で朝鮮語をほぼマスターし、『交隣須知』等16冊の朝鮮語
入門書をも作成した。
さらに自身の経験から通訳の重要性に着眼し、単に朝鮮語が上手な
だけでなく才智・学問・篤実をそなえた質の高い通訳の育成を説き
、のちに藩の通訳養成制度の確立にも生かされていった。

芳洲の思想
国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は誠信にあると
説いた。
61歳の著『交隣提醒』の「互いに欺かず争わず、真実を以ての交わ
り」は、彼の先進的な国際感覚を示し、現代でも指針とすべき言葉
であろう。
さらに正徳・享保両年度の通信使随行の際には、幕府と朝鮮側との
折衝役として様々な交渉にあたるなど、みずからも善隣外交の実践
に努めた。
なかでも正徳時幕府の中心にいた白石との、日本国王号改変・通信
使の待遇変更・銀の輸出等をめぐる論争は有名。
また対馬は僻地であるため藩内での人材養成を主張し、自宅を私塾
として多くの子弟に教授した。
常に「学は人たることを学ぶ所以なり」を示して、学問の目的は立
身出世や金銭、あるいはただ知識を得ることにあるのではなく、真
に人間たることを学ぶことこそが本当の学問であると諭すなど、教
育者としても高く評価できよう。
晩年においても向学心衰えることなく、齢80を過ぎて和歌を志し
『古今和歌集』一千遍詠みと作歌一万首を完遂した。
享年88歳。対馬府中(現厳原町)長寿院に眠る。

今後の課題
子孫に伝えられた雨森芳洲関係資料(芳洲会所有)は250件をこえ、
その内容は学問・思想・政治・外交・詩歌・書蹟・書翰・絵画など
多岐に亘る。
また関連資料は対馬・韓国をはじめ各地に散在している。
芳洲の研究には多面的視点が必要であり、それぞれの専門分野から
研究することは当然必要ではあるが、枠を超えた研究成果の結集に
より、日本史の中により具体的な芳洲の全体像をとらえ直すという
のが基本的課題といえよう。
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朝鮮通信使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)は日本へと派遣された李氏朝
鮮からの国使の名称。

1.起源
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町将軍からの使者と国書に対す
る返礼であり、1375年に足利義満によって派遣された日本国王使に
対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりであ
る。15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮か
ら、豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向け
ても派遣されている。しかし、その後文禄・慶長の役によって日朝
間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開
された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部
を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は、狭義の意味の江戸
時代のそれを指すことが多い。

2.室町時代の朝鮮通信使
室町時代の朝鮮通信使は、日本の国情視察目的も密かに含まれてお
り、例えば1428年派遣の使節に同行した書記官の申叔舟が著した『
海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて、倭寇の根拠地の特
定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況
や通貨政策など国力状況の観察、日本での仏教の展開状況をはじめ
15項目の調査内容があったという。

室町時代には3度来日し、1459年、1479年にも派遣計画があったが来
日しなかった。これは、使者が途中で死亡したことや、渡航の危険
を理由として説明されるが、偽使(守護大名や国人が将軍の名前を
詐称して勝手に交渉すること)の横行や日朝貿易の不振により、必
要性が減殺したためだと説明されることもある。その後豊臣政権ま
で約150年間にわたって中断した。

室町期朝鮮通信使履歴
室町期朝鮮通信使履歴 回数 年 目的・名称等 
第1回 1428年(正長元年) 通信使 
第2回 1439年(永享11年) 通信使 
第3回 1443年(嘉吉3年) 通信使 

3.豊臣秀吉に派遣された通信使
朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使である。
このときも対馬宗氏が仲介を行っている。この際の正使と副使が対
立関係にあったために正使は侵攻の意思ありと報告し、副使は侵攻
の意思なしとの報告が行なわれ、王に近い副使側の意見が採られた。
文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのは、この副使の報告に
従い、なんら用意をしていなかったためともされる。

4.江戸時代の朝鮮通信使
江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶して
いた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の
派遣を打診したことにはじまる。主として対馬藩が江戸幕府と李氏
朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず
、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を
確実なものとするために、対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使
者も偽造を黙認した。後世、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽
造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主宗義成は忠告のみでお咎め
なし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。

朝鮮側に日本による朝鮮再侵攻の噂が立つなど紆余曲折あったもの
の、対馬藩の努力によって1607年、江戸時代はじめての通信使が幕
府に派遣される。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷
還使とされている。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を朝
鮮に連れ帰るのが主目的という意味である。余談ではあるが、儒家
はほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まったとされる。
これは当時日本で一国ほどの価値があるとされた茶器や陶器を作り
出す陶工を大名が藩の庇護の下、士分を与えるなど手厚い待遇をし
ていたのに比べ、李氏朝鮮では儒教思想によって職人に対する根源
的な差別があったことが原因である。

その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕
府から通信使派遣の要望により、国使は回答兼刷還使から通信使と
なった。

幕府は通信使を勅使以上に遇する一方、幕威高揚のために利用した
ことが窺える。通信使は釜山から海路、対馬に寄港し、それから馬
関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは輿と徒歩で江戸に向かうル
ートを取ったが、近江国では関ケ原合戦で勝利した後に徳川家康が
通った道の通行を認許している。この道は現在でも朝鮮人街道(野
洲市〜彦根市)とも呼ばれている。吉例の道であり、大名行列の往
来は許されなかった街道である。

その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側
から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派
遣されているが、1811年に通信使が対馬までで差し止められたのを
最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主とし
て軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜
山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例
外は1629年に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、
これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるよ
うに見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも
対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿を輸出を依頼し、成功し
ている。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。

5.交流
前述のように朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやって
きた国使であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割、すなわ
ち将軍の権威の誇示に利用された。同時に、鎖国を国是としていた
当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れること
のできる数少ない機会でもあり、通信使の宿泊先には多くの日本の
文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらし
た。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。

江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された
備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本
堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年に建立され、日本
の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年に従事官の李邦彦
が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島の眺望を「日東第一形勝
(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年に
正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額
にしたものが対潮楼内に掲げられている。

とはいえ、この交流は漢詩や朱子学など本来は中国の文化について
のものであり、李氏朝鮮自身が日本にまして中国文化に傾倒してい
た事実を考えれば、前節にあるような韓国側の主張するところの朝
鮮独自の文化の理解や導入という点での意義がどれほどあったもの
かどうかは分からない。また、朝鮮通信使は日本に関し、事実であ
ると否とを問わずさまざまな事柄を見下す傾向が強く、日本国内の
道中や文化交流の際にも周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態
度をとることが多かったようである。無礼の例としては、供された
食事に難癖をつける、夜具を盗むなどがあり、警護に当たる対馬藩
士が侮辱を受けることはしばしばだったという。このような事情か
ら一般町人には嫌われ、町人と喧嘩沙汰になることも多々あり、横
柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。喧嘩が発
生すると侍は本来警護の者として制止すべき立場であるにもかかわ
らず、止めるふりすらしなかったといい、道中の内実がいかなるも
のであったかが伺える。

その一方、基本的に日本人を「倭人」として見下しながらも、古く
室町には平仮名、片仮名と言った固有文字の存在に、江戸時代には
、京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さ、そして乞食が食物
ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上
げた(李氏朝鮮では、その末期においても都市部で中国の銅銭が流
通していた程度であり、最後まで貨幣経済と呼ぶに足るものが成立
せず、物々交換が主であったため)といった記録が残っており、
また、朝鮮で後に飢饉を救ったサツマイモや揚水式水車など、日本
から相応の文物を持ち帰っていたようである。特に歴代の朝鮮通信
使は日本の揚水式水車に興味を示し、幾度もその構造を絵図面に写
して自国に持ち帰ったものの、その後に李氏朝鮮でこの種の水車が
用いられたという歴史がないことから実現はしなかったようである。
ただしこのような事実は、現在の韓国の歴史認識と背反しているた
め、韓国側では日本側による捏造・歪曲とされることが多い。

6.絵画、工芸、芸能に伝わる朝鮮通信使 
現在、日本の各所に通信使来日の際に筆写された行列絵巻が残って
いる。とくに正徳時に老中土屋政直の命令によって大量に作成され
たが、対馬藩に残る『正徳度朝鮮通信使行列図巻』はその典型であ
る。他にも当時の画家英一蝶が描いた『朝鮮通信使小童図』や紀州
藩に伝わる『朝鮮通信使御楼船図屏風』が著名である。

日本の街道を練り歩く使節団の姿は、太平の世にあっては物珍しい
イベントであった。朝鮮通信使を模したもので、今日にも伝わる著
名なものとして唐人おどり(鈴鹿市東玉垣町、津市分部町)、唐子
おどり(岡山県瀬戸内市牛窓)の三件がある。大名行列とは異なり
、朝鮮通信使は正使や副使などの外交官の他に、随行員には美しく
着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが加わっており、江
戸時代を通じて庶民にとっては数十年に一度やってくる異国情緒を
持った一種の見世物として沿道の民衆にも親しまれていた。上述の
『朝鮮通信使小童図』には、馬に乗った小童に町人が揮毫(現代で
言えばサイン)を求める様が描かれており、随行員には庶民が簡単
に接触できたようである。さらに滋賀県東近江市五個荘の小幡人形
などには通信使人形(正確には唐人人形。随行員である小童や楽隊
の人形)があり、異国より献上された象などとともに、当時の人気
キャラクターであったことがうかがわれる。

また歌舞伎・浄瑠璃の文芸作品に朝鮮通信使を題材として扱ったも
のが存在する。1764年の宝暦度の来日の際、対馬藩の家臣で通詞を
担当していた鈴木伝蔵が、朝鮮通信使の通詞・中官崔天宗を大坂で
殺害する事件が起こったが、明和4年(1767年)には『世話料理鱸包
丁』(『今織蝦夷錦』)、寛政元年(1789年)には『漢人韓文手管
始』、寛政4年(1792年)の『世話仕立唐縫針』などは、いずれも
この一件を土台に作成された文芸作品である。



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