2765.進歩と調和



題名:進歩と調和
                           日比野

1.進歩と調和
「人類の進歩と調和」というテーマを掲げて開催された、大阪万博
から、はや三十数年の月日が流れた。人類はこのテーマにどこまで
近づいたのだろうか。

進歩とは「新しい発見や発明による自己の認識力の拡大」と定義し
て、調和を「他を害さない、相互補完をなす力」と定義して考えを
進めてみる。

前者は、自身の認識を拡大するために、認知する対象を研究したり
、分析したりして、知性的・理性的に物事を探求することを意味す
る。現代では特に科学技術がそれに大きく貢献している。

後者は、調和をつくりだす自然な生き方になるから、受動的かつ柔
軟な対応力と広範な受容性を求められる。

2.進歩の極限
人間が自分の認識力を拡大するためには、まず認知できる対象を広
げないといけない。考えるための材料をまず認識できないと始まら
ない。真っ暗闇の、無音の部屋で新しい認識を得ることは難しい。
外部からの刺激がないから。

心の内面から発する着想もあることはあるけれど、そのためには基
礎となる情報を予めインプットしておかなくちゃいけない。

だから、認識力の拡大はまず知的アプローチをとることになる。

昔から人間は神学や哲学によって、認識力の拡大を求めたけれど、
最初はほんの一部の人だけのものだった。

海外にいける人はほんの一握りだったし、異国の事物や考えを知る
のは書物に頼るほかなかった。でも科学技術の発達が、その問題の
ハードルをうんと下げた。

交通手段が発達して、多くの人が簡単に世界中にいけるようになっ
たし、テレビやネットなどの情報伝達手段の進歩は、居ながらにし
て世界情勢を知ったり、遠くの人とコミュニケーションを可能にし
た。

科学技術が時間と空間を縮めて、世界中の事象が一般の人に手の届
く存在になった。科学技術の発達は、多くの人に認識の拡大をもた
らした。

科学技術によって、空間と時間が縮まったということは相対的に人
間が大きくなって、寿命も伸びたということ。神のごとく不老不死
の巨人に近づいたということになる。

昔なら決して体験できない外国や歴史を知り、世界を知り、世の仕
組みを知ることができるようになった。知の集積である書籍も安価
に人々に手にはいるようになって、認識のレベルが飛躍的に向上し
た。

それは、知のアプローチから神に近づいていけるということを意味
する。その神の名は「知の神」。

3.調和の先にある存在
調和を単に「他を害さない」とだけで捉えると動物の存在自体が悪
になってしまう。道を歩くだけで蟻や虫を踏み潰してしまうかもし
れないし、取って食うなどもってのほか。だから「他を害さない」
ということをつきつめると植物や鉱物の存在が一番になる。

だけど、自然は動植物を含めて食物連鎖を構成し、それでいて調和
を作っている。だから調和とは、特定の存在だけが突出して他の存
在を滅ぼすくらいまで害をなすことがなく、相互に補完しあって、
永続できる共生の姿のこと。

真の調和とは固定したものじゃなくて、いかなる環境においても調
和をつくりだす力。

無為自然というけれど、全く何もしないということではなくて、調
和を作り出すために自らを変容し、場合によっては相手にも変容を
促しながらすべてを受容していく力。それが自然の調和なのだと思
う。

その意味では、日本の価値観はこの自然の調和力に一番近い存在。
この価値観の最高の姿、調和の先には「美の神」が存在してる。

4.中ほどの道
発展を極限まで突き詰めると「知の神」に近づき、調和を極めると
「美の神」に近づく。

どちらの神を求めるのかで文明の色合いが定まるけれど、現代世界
の文明だと「知」と「美」の二つの神に近づくアプローチがある。

だけど、どちらかだけを求め、もう一方をすっかり忘れるとそれを
破壊することにもつながる。

科学技術オンリーだと、環境破壊はもとより、心の調和を忘れてし
まう。美の神から見放される。逆に調和オンリーだと、進歩が止ま
り、永遠に知の神に近づけない。

だから、どちらか一方に偏ることなく、中ほどを選び取るべき。釈
迦の説いた中道思想を選択するのが一番いい。

釈迦は悟りを開いてのち、最初に説いた教えが苦楽中道だった。王
子の何一つ不自由のない環境でも、厳しい修行によってでも悟りは
得られなかった。真理の道は両極端を捨て、中ほどにあると説いた
。

進歩と調和も多分同じ。両者の真ん中のところに真実の道がある。

(了)


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