2748.とてつもない日本の歴史1



このコラムでは長期に、日本史や東南アジア史、中国史などを再構
築してきた。それは日本が孤立で存在しているわけではないことを
証明するためである。ここでは今までの集大成したい。  Fより

日本史は、ここ40年で大きく変わってきた。超古代の吉田信啓、
中国史から見た岡田英弘、古代・中世史の梅原猛、中世、近世史の
網野善彦やその他民俗学、考古学などの研究で、徐々に本当の日本
の歴史が分かってきた。イデオロギーの曇った目で見ない本当の姿
が明らかになってきている。

しかし、分かれば、大きな疑問も同時に出てくる。それを私特有の
もう一人の私との会話やイメージで埋める努力をしている。そのた
め、私Fの仮説も多く含むことをご承知してほしい。

日本の縄文時代が始まったのは、今から1万5千年前と見られてい
る。BC130世紀のことになる。そこから縄文土器を使用したこ
とになる。日本でのペトログラフ使用は今から6500前のことで
あり、BC45世紀である。そのペトロクラフは世界の各地で見つ
かっている。それと共に、日本の縄文土器も各地から見つかってい
る。北米、ハワイやペルーからも日本の縄文土器が見つかる。この
ため、この当時、太平洋を横断して行き来していたことが分かるの
である。

ペトログラフは、メソポタミアのシュメール文字の古形であり、日
本から出た文字がメソポタミアに行ったことになる。メソポタミア
文明ができたのはBC30世紀である。このシュメール文字がフェ
ニキア文字になり、ローマ字に変化して欧州のアーリア民族に伝わ
り、今の英語などになっている。また、インドのサンスクリット文
字もこのペトログラフによく似ている。アーリア民族全体にアジア
の草原で伝えられたようにも感じる。しかし、この日本ではペトロ
グラフは使用していない。ここに大きな疑問がある。

謎の神代文字として、数種類の文字があるが、どうも当時から神と
の交信に使って、一般的ではなかったようである。そして、当然の
ごとく、この文字は現在でも使用されていない。しかし、どれもロ
ーマ字のような構成になっているのが特徴であり、そのため40年
以前には、後世に創作したと思われていたが、そうではないことが
ペトログラフの発見で分かったのである。この神代文字で書かれた
歴史書を見ると、古事記や日本書記とは違う日本の古代史が見える。
そして、その記述を民俗学も支援している。

古代の日本はバラバラであったことや、そのバラバラな民族がアジ
ア大陸と黒曜石などの交易していたことが判明している。民族の交
流もあり、日本はいろいろな異民族がいたことが分かる。今のニュ
ーヨークのような様相を示していたように感じる。日本から見ると
、新羅や百済から来るように見えるが渡来人の最終経由地であった
と見る。

前2世紀(中国は秦崩壊後の前漢王朝時代)から弥生時代が始まる
が、縄文人と弥生人は住み分けがされていて戦争になっていない。
縄文人でも畑があったが、労働をしないでも収穫できたのに、後か
ら来た弥生人は洪水がある低地で、しかも朝から晩まで労働してい
る姿を縄文人はバカにしていたようだ。

縄文時代の日本の人口は最大30万人程度であり、1つの集落は
500人が最大で、それより小さい。阿蘇山の大爆発などで西日本
には1万人以下しか住んでいない。95%以上が東日本に住んでい
た。

弥生人とは、夏王朝の難民や漢王国の華僑や阿蘇山の大爆発で避難
した縄文人が中国や朝鮮で混血となって帰ってきた人たちのことで
、彼らは、主に西日本に住んで、砂金などを取って輸出し、田畑で
麦や米を耕作していた。この弥生人は基本的に漢字文化圏からの人
たちであり、歴史が漢字で書かれることになる。

融和政策でアマテラスという太陽神として縄文神を取り入れる。
初期の移住者は、道教の古形である鬼道派であり、祈祷、呪い、祝
詞、お告げなどを持っている。3世紀の邪馬台国の卑弥呼は、道教
の巫女で「鬼道に事え能く衆を惑わした。」との記述がある。この
卑弥呼のような信仰形式は縄文人にはなかった。

次に4世紀に秦氏が新羅から道教の神道派を持ってくる。老子、荘
子、易経や、どうも秦氏は仏教、景教の影響も受け、思想体系を確
立したようだ。そして、その前の巫はそのまま継続した道教を神道
として導入して、神仏融合の八幡神社を宇佐八幡として創設した。

これが縄文人が信仰していたアミニズムの宗教に付加されて、今の
ような神社になったようだ。秦氏一族・2万人以上が移住してきた
と想定されている。鉄の製造技術や法隆寺など建築技術も持ってい
た。

秦氏はその後、その技術力を買われて、今の京都、山城に呼ばれた
が、そこでは国家の要請で氏寺・太秦寺を作って、ここでは景教の
要素を出している。八幡神社としては石清水八幡宮のほうが宇佐八
幡宮より有名になるが、今全国に8万社もある八幡神社に成長して
いる。

漢東氏、蘇我氏なども百済、新羅から移住してきたが、倭の大乱の
後は平和を取り戻す。これは日本が豊かで全員が暮らしていけるか
らで、その時の日本の人口は200万人であるが、砂金が取れたこ
とが重要であったようだ。鉄は当初、任那からの輸入であったが、
これも秦氏の日本移住でできるようになる。

しかし、この縄文と弥生が繋がっていないことに疑問を持ちません
か。大和朝廷に果たした秦氏の存在が大きいが、日本に来た時期が
遅かったことで、権力機構に入れなかったように思う。

しかし、この秦氏がどこから来たかにより、見方が大きく変わる。
ペトロ文字は西日本からしか発見されていない。これはBC40世
紀の阿蘇山の大爆発で、西日本が住めなくなり、ここに住んでいた
日本人がどこかに移住したことを示している。大部分は朝鮮半島や
中国などの日本周辺に住んだのだが、一部の縄文人は集団で行動し
て、それより遠くに行ったことになる。この人たちがメソポタミア
まで行く着くことに成る。BC30世紀にメソポタミア文明を作り
、この民族全体がBC25世紀、エジプトにその技術力を買われて
、その捕虜となる。

許されて、神との契約を誓うことになり、ユダヤ人と認識すること
になる。ユダヤ人はアシケナージとスファラディに割れている。
このうち、アシケナージが典型的なユダヤ人とみなすと、それは違
う。周辺イスラム教徒のセム族と同じスファラディこそが、本来の
ユダヤ人である。

ユダヤ人の11部族の内10部族が、イスラエル王国を作るが、
BC6世紀、アッシリアに負けてバビロンに捕囚される。しかし、
そのアッシリアも負け、捕虜は許されてユダヤの地に戻らずに、
日本に向かうことになる。BC3世紀に秦を作り、しかし20年足
らずで滅びる。秦氏一族2万人は朝鮮に向かい、そして、日本に4
世紀に帰還したのだと見ている。

1584.縄文時代の再考
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k6/160403.htm
415−2.日本の道教について
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak3/1301202.htm
299−1.古田史観など
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209251.htm
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卑弥呼の正体はほぼ分かっている 幽谷 
   
 >岡田英弘著「日本史の誕生」を検討する。 Fより

Fさんの記事ですが、倭国の建国者が華僑というのは、ややトンデ
モ話でしょう?岡田英弘ってのがね...

たしかに、最近の研究では、日本の稲作は、6000〜3000年前、中国
南部から渡って来たそうだが(その後、日本の九州から朝鮮半島南
部へ稲作が伝播したらしい。つまり、これまでの考古学の定説は間
違っている)、だからといって、倭国の建国者が華僑なんて、阿呆
だなと思う。

要するに、日本の古代史が謎だらけになったのは、邪馬台国・卑弥
呼の謎が解けないのが最大の原因になっている。この原因を作った
のが、江戸時代末期の国学者・本居宣長の邪馬台国九州説だ。

邪馬台国問題を解こうと思えば、文献史学・考古学・農学など様々
な分野を体系的に考えないと不可能だ。

しかし、考古学・文献史学などの様々な学問の発達で、卑弥呼が何
者なのか、なぜ、彼女が共立されたのかということも分かっている。
このへんは、記紀の欠史八代にも関わってくることだ。

いろいろ書くと長くなるから、簡単なことしか書かないが、

邪馬台国女王・卑弥呼=媛命=倭迹迹日百襲媛命
邪馬台国女王・台与=豊鋤入姫命
邪馬台国大夫・難升米=梨津臣命
邪馬台国大夫・都市牛利=丹波大縣主由碁理

狗奴国男王・卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
狗奴国官・拘右智卑狗=河内彦

邪馬台国=ヤマト国=大和国
狗奴国=コノ国=許乃国
投馬国=ヅマ国=出雲国

日本書紀・崇神天皇治世10年=魏書・正始8年(247年)
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(Fのコメント)
日本書紀も日本が当時の世界状況で、どうしても中国とは違うこと
を証明するために、作った書である。そこに書いてある内容も当時
の歴史書の思想をもとに読むべきでしょうね。

邪馬台国の位置については、岡田英弘著「日本史の誕生」では、位
置の記述は間違えであると述べているだけで、位置を確定していな
い。秦王国は瀬戸内の九州よりであることが述べられているが。

よって、邪馬台国の位置は、大和朝廷の位置である可能性は高いと
私も思うが、後の河内王朝とは違う王朝である。その前に大乱があ
る。

中国の正史も注意をして読む必要があると岡田英弘は言っている。
その時代背景を見て読むことである。

もう1つ、縄文人と弥生人の区別をどう捕らえるかが、幽谷さんと
私では違うように感じる。そして、確実に西日本には前10世紀に
は、人がほとんどいなかった事実とその後の人口増加をどう捕らえ
るのかをお聞きしたいと思う。

また、弥生人と思われる秦氏やその他、渡来人たちは故国との関係
をなしに生活していたと見るのですか、ここも今までの日本史はお
かしいと思う。

日本人も多く世界に現在、拡散しているが、この日本人は故国日本
との関係なく暮らしてる人は少ないように思うが、どうも感覚的に
私にはおかしいと感じるがどうでしょうね。


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