2744.日本史の誕生



岡田英弘著「日本史の誕生」を検討する。  Fより

499-1.日本の成り立ちというコラムを書いている。この詳細を書こ
うとして忘れていた。岡田さんの「日本史の誕生」を読んで、思い
出した。

3世紀の日本を描いたと言われる「魏志倭人伝」の位置づけは、魏
の後の晋時代に書かれた物である。中国の歴史書を読む時、その時
代背景に伴う政治性を考慮して読む必要がある。この著者は陳寿で
あり、この人やその時の皇帝の思惑を見ないと、よく見えない。
日本の卑弥呼の邪馬台国がどこにあったかという議論が盛んである
が、中国の歴史を知ると、これは無意味の可能性が高い。

中国の古代王朝は、貿易をして儲ける商社のような存在で、定期市
の商人団の頭であると思う方が近い。政府の収入は祖といって、農
産物の現物で徴収するが、これは地方官庁の役人や軍隊の維持費に
当てられる。これに対して商品に掛かる税や城門を通過する時に払
う通行税が、皇帝の収入になる。

中国では、税関は政府ではなく皇帝の直轄組織である。皇帝直営事
業は、食塩、鉄、絹織物などの生産を独占して国内販売したり、外
国に輸出したりして儲けている。

県とは、皇帝の直轄都市で、僻地にある交易のための城壁がある堅
牢な都市のことで、ここで貿易を行う商品の集散地、つまり定期市
の立つ所である。「民」とは、城内に住み県庁に登録する組合員で
、一定の義務を負う。組合費として祖を収めること、市場設備の維
持・修理のための労働力を提供すること、非組合員の原住民、すな
わち「夷」に対して守るための自警団に出ること、つまり兵役に服
することが義務であった。このような制度のことを中国の郡県制度
というのである。

日中貿易を行うが、毎年定期の航海はたいへんで、倭の百ケ国の代
表、今で言う総代理店(代表商社)を定めた。それが邪馬台国であ
る。239年に卑弥呼の使節団は、魏の皇帝に会っている。247
年に卑弥呼は死ぬ。魏は265年に晋になるが、邪馬台国は存続し
ていたので、266年に王女台与の使節団が晋の皇帝に謁見してい
る。

しかし、311年にクーデターが起き、312年に中国軍は韓半島
の楽浪郡。帯方郡から撤退する。そして五胡十六国の乱が百年以上
も続いた。このため、中国の植民地は、中国一辺倒を止めて自力で
統一運動が始まる。4世紀後半、倭国では河内王朝・仁徳天皇が統
一運動を行い、韓半島では百済と新羅の王でした。しかし、倭国の
政府で働いているのは中国からの帰化人であり、華僑である。日本
の建国者は華僑であり、日本人は文化的には華僑の子孫である。

魏志倭人伝に戻るが、魏志倭人伝の大元である「三国志」には、西
域伝がない。大月氏が書いていない。そして、大月氏は洛陽から
16、370里である。邪馬台国の17、550里とほとんど同じ
である。洛陽が10万戸以下であるのに、邪馬台国は7万戸と当時
としては膨大な人口がいたことになっている。大月氏の戸数も同じ
ような物であったろう。ということは、政治的な状況で、晋の皇帝
にとって大月氏と並び立つ邪馬台国が必要であったことが浮かび上
がる。

晋を立てる司馬氏は、魏時代に韓半島を収めていたこと、西域の曹
爽との戦いに勝ち、晋を立てるため、東夷が重要なのである。要す
るに邪馬台国の距離は作り事である。それでは、どこであったのか
というと、九州の瀬戸内海沿岸地域あたりと言う。これは宇佐八幡
の位置や国東半島に近いことになる。ここで秦氏の八幡神社と繋が
る。

「宋書」の夷蛮列伝に雄略天皇が宋皇帝に送った手紙が記されてい
ることから、365年に河内王朝・仁徳天皇ができたようだ。そし
て、この王朝が倭王の地位を承認されているが、倭国が統一された
わけでなく、各地域国の連合体であったようだ。河内王朝は7代目
の清寧天皇で尽きる。531年に継体天皇が立ち、越前王朝ができ
る。

越前王朝はその後、百済と組んで、新羅に対抗したが、新羅は唐と
組んで百済・倭連合軍に勝つ。倭は663年白村江で負けることに
なる。唐という大国と戦う必要になったので、天智天皇は都を海に
近い、河内から近江の大津に移し、近江律令を定め、日本と言う称
号を使い、王から天皇とした。中国からの独立をし、日本列島の諸
国はそれぞれ自発的に解体して、新たに日本国を形成した。日本の
アイデンティティを確立するために、日本書紀を編纂したのだ。

499−1.日本の成り立ち
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak3/1304141.htm


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