2737.坂の上のその先



題名:坂の上のその先

                           日比野

1.学歴の効用

ドラえもんで、勉強のできないのび太が、自分の得意なあやとりが
流行る世界を、もしもボックスを使って実現する「あやとり世界」
という話がある。

学歴社会とかいうけれど、あやとり世界のように価値を相対化して
みると、学歴が決して絶対的なものじゃないことが見えてくる。

今の社会で優秀な人材を選抜する方法のひとつが、学歴や学力。

会社は優秀な人材が欲しい。会社に利益をもたらしてくれて、即戦
力の人材。当たり前の選択。

そんな人材を見つけようとする一番の方法は、専門知識を要求され
る業務内容バリバリの試験と一定期間、実務をやらせてみればいい
。

でもそんなことして、合格するような大学生は普通はいない。大学
教育の内容と、実社会で要求される知識と能力が乖離しすぎてるか
ら。

だから会社は、しかたなく新人教育で、一から教えることになる。
将来使える人材になることを期待して、なるべくそうなりそうな人
材を求める。会社にとってはベストの求人ではなくて、ベターの求
人。

できることなら教え甲斐があって、なるべく早く戦力になりそうな
人物が欲しいと思うのは当然。

具体的には、仕事の飲み込みの速さや要領の良さ、相手にきちんと
説明できる論理的思考能力。あとはつまらない仕事でも淡々とこな
せる少しの忍耐力と円滑な人間関係がつくれる性格。

情報化が進んでスピードが要求される社会になればなる程、そんな
能力が必要。

長じてくると、管理能力とか別のものが要求されてくるけれど、若
いうちでは、それがどれだけあるか判らないし、新人に直ぐに必要
な能力じゃない。

これらの能力は、試験や実技をやればある程度、判らないでもない
けれど、手間がかかるし、そもそもそんな厳しいところは、求人し
ても集まらない。よっぽどの人気企業は別として。

となると、手っ取り早いのが学歴になる。数年という一定期間でど
れだけ効率良く学習できて、理解できたかという要領と理解力と忍
耐力の目安になるから。

 

2.何をモノサシにするか

もし、今の社会で学歴を否定したとしても、やっぱり会社は優秀な
人材が欲しい。学歴が使えないとすると、別のモノサシが必要にな
る。

身体能力? 芸術的センス? それともあやとり?

昔は、生まれの身分がその役目をした。身分が高いほうが相対的に
学習環境に恵まれ、他の社会の見聞も広められ、人脈もあるだろう
とされていたから。

生まれの身分の代わりに、何がしかの能力や知識をモノサシにもっ
てくると、ある程度の才能は必要かもしれないけれど、努力の要素
もあるから、とりあえずスタートラインは同じになる。比較的公平
といえば公平。

身分がモノサシだと、競技場から違う。そちらの世界には入れない
。勝負すらできない。

今の社会でも、身分によるモノサシが全く無いとは言わないけれど
、教育の機会平等ができているから、同じ競技場に入ることはでき
て、スタートラインに立つことはできる。

金持ちや身分の高い人のスタートラインは少し手前にあったりする
かもしれないけれど、とりあえず、同じ競技場で勝負はできる。

才能にはいろいろあるけれど、もし身体能力がモノサシの世界があ
ったら、やっぱり持って生まれた才能がものを言う。普通の人には
ハンデが大きい。しかも肉体は年齢による衰えが比較的早いから、
身体能力のピークを維持できる期間は、ほんの僅かの間。どんな一
流アスリートでも40歳を過ぎたら引退を考えるようになる。

その点、頭の衰えは肉体よりずっと遅い、20歳、30歳からスタ
ートして、頑張れば70歳、80歳でも現役でいられる。身体能力
にくらべて、ずっと長距離走になるから、最終コーナーでの大逆転
もないわけじゃない。その分チャンスが広がっているといえる。



3.モノサシに学歴が使われる理由

生まれの身分がモノサシだった時代から、学歴をモノサシに切り替
えたのが今の社会。

なぜ切り替えたかというと、知識や知力が富を生む社会だから。

学歴は効率性と相関してる。それが今の社会にマッチしてるから、
学歴というモノサシが適用されているだけ。

スポーツや芸術が一番社会に富をもたらす文明があったなら、そう
いう人を選抜するモノサシが使われる。あやとりが富を生む世界だ
ったら、のび太は世界中からスカウトされる筈。

ドラえもんの「あやとり世界」の中のひとコマで、プロあやっても
うかるんだな、ぼくもなろうかな、というのび太にパパが諭す。

「ユメみたいなこといっちゃいかん。あれはたいへんな才能と努力
と・・・、」

才能の有る無しはどうしようもないにしても、努力の要素がある世
界のほうがまだ救いがある。才能に対して、努力の余地が大きい分
野は競争自体がどんどん公平になってゆくから。生まれの身分がモ
ノサシだと才能も努力も必要ない。競技そのものが成立しない。

真の天才は次元が違う。インドの数学者ラマヌジャンをみればよく
分かる。

イギリス時代の彼は、研究室に毎朝半ダースもの新しい公式を持っ
て現れ、そのどれもが美しかった。

彼自身はそれに証明を与えることは出来なかったけれど、彼を見出
し、ケンブリッジに招聘した、ハーディがその定理の証明を与えて
論文とし、共同研究の形で発表した。

新しい数式や数学上の発見は、夢の中でナーマギリ女神が教えてく
れたからだと彼はいう。

そんな彼は、日本の学歴のモノサシで計られると間違いなく落第生
。数学以外に興味がなかったラマヌジャンは、他の科目は全然勉強
しなくて、実際に落第もしてる。

でも彼は、数学界に多大な貢献をしたことを誰でも認める大天才。

ハーディは「私の数学界への最大貢献はラマヌジャン発見である」
と告白し、晩年自分を含めて、ラマヌジャンの天賦の数学的才能を
点数で表している。

それによると、ハーディ自身が20点、共同研究者だったリトルウ
ッドが30点、20世紀数学の巨匠ヒルベルトが80点で、ラマヌ
ジャンは100点だという。

ハーディ自身は決して凡庸な数学者だったわけじゃない。経済学者
のケインズはハーディの輝くばかりの知性に敬服し、「あなたが毎
朝30分だけ、クリケット欄を読むのと同じ集中力で株式欄を読ん
だら、間違いなく大金持ちになれるのに」と言って嘆いたという。

だから、モノサシの取り方で、いくらでも抽出される対象が違って
くる。

よく学歴だけを人物評価のモノサシに使うのはどうとか言うけれど
、何のためのモノサシなのかという視点はもっと重要。



4.坂の上のその先

学歴に関係なく、知的好奇心が旺盛な人は一杯いる。世の中には学
校で習う範囲や受験範囲をはるかに超える知の世界が広がっている
。

若いうちにそちらの魅力にとりつかれると、時間の大半をそちらに
使ってしまいかねない。必然、学校の勉強はおろそかになる。ひど
いのになると落第してしまう人もいる。でも、興味分野では先生を
凌ぐぐらい知識を持っていたりする。

ネットで情報が拾えるようになった現在では、専門知識という範囲
だけでいえば、大人を凌駕する子供がいたっておかしくない。

大人にとって、ポケモンの名前が全部いえなくても恥ずかしくはな
いけれど、携帯やパソコンの使い方を子供に教わるのは少し恥ずか
しい。そんなのが知の世界にもやってきた。

日本は明治維新以来、世界に追いつこう追いつこうと努力した。世
界についてけばいいだけだったから目標があった。とにかく全体の
水準を上げることに邁進した。

平均的にどの分野でもそこそこの人材を作ることで、世界の水準を
吸収しては、日本全体の水準を上げていった。特に科学技術分野で
顕著。これまではそれでよかった。

日本が先進国になった今、それだけでは苦しくなった。坂の上に登
ってしまった。雲はまだみえない。

専門分野の知は日進月歩で更新されるから、ついていくのも大変。
一生をささげなくてはいけなくなる場合だってある。

世の中が進歩すると、世の中を支え、発展させるための知性と、世
の中を生きるための最低限の知性の間の乖離が激しくなる。現代な
んて特にそう。

だから、日本が、世界の中でこれから、どういう社会を目指すのか
、どうしていきたいのかでとるべき国家戦略は違ってくる。

進歩なんかやめて、平和維持でいいと思うなら、世の中を生きるた
めの最低限の知識の普及をして、モラル・道徳教育の徹底をすれば
いいけれど、世の中を支え、発展させることを中軸におくのなら、
専門教育の充実や、海外からの研究者の招致などといった、国家的
プロジェクトでやらなくちゃならない。

今のように、そこそこのゼネラリストが大量に欲しいのか、たとえ
少数でも天才を生むような社会にしたいのか。結局、日本の国家観
・世界観の問題になる。

坂の上の雲をみつけて、そこに行きたいと望むなら、教育や社会体
制からそのように変えていかなくちゃならない。社会が何を望むか
によってモノサシも当然変わる。そのときのモノサシは学歴じゃな
くなってるかもしれない。


(了)


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