2682.北伝仏教の道(仏教史)



中国への仏教の道を見ておこう。 Fより

今はパキスタンになっているガンダーラを本拠地とし、2世紀半ば
にクシャーン朝カニシカ王が仏教に帰依したことに始まる。首都は
北西インドの都市プルシャプラ(現:ペシャワール)である。
カニシカ王は各地に仏塔を建造したことが知られている他、彼の治
世に仏典の第四回結集が行われたとも伝えられている。

カニシカ王の版図は、当時の東西通商路(シルクロード)を含んだ
ために、仏教の中央アジア、中国への伝播を容易にした。インドか
ら月氏の僧が経典を持って、中国に来るものが多いとある。この月
氏がクシャーン朝のことである。

ガンダーラ石彫の多数の仏像がこのクシャーン朝で作られた。ギリ
シャ系のパクトリアが隣国であり、そこのギリシャ文明・ヘレニズ
ム文化の影響を受けたと言われる。時代は違うが、この地域にアフ
ガニスタン人のガズニ王朝は962年から1186年まであり、イ
ンド北部からイラン中央部に及んでいる。この首都カズニからもス
トウーパが出てくることから、その頃まで仏教であったことが分か
る。このカズニ王朝は南下したイスラム教のセルジューク朝に滅ぼ
された。

仏教伝播の西端はウズベキスタンのオアシス町ブハラである。この
地域に住んでいるのはイラン系の人たちであるが、ゾロアスター教
を信奉していた上に仏教も受け入れた。8世紀にイスラム教がこの
地域をイスラム化した。そして、このブハラの現象はステップ・ロ
ードの都市に共通している。

サマルカンドも同様であるが、ここに住む住民がソクド人であり、
胡人と中国の文献には出てくる。ソクド人の文書は北インド、チベ
ット、モンゴル、中国西部から発見されるように広範囲で商売をし
ていた商人である。ソクド人は騎馬遊牧民族の侵略を受けると降伏
して、その保護の下に商売の範囲を広げた。そのソクド人はトクマ
クに寺院を建立している。

中国トルファンにはベゼクリク千仏洞があり、この絵にイラン人、
モンゴル人、漢民族など様様な人たちが描かれている。ここでは仏
教、ゾロアスター教、マニ教、東方キリスト教会(景教)などが
信奉されていたようである。

中国に最初に仏教は伝えられたのは、前漢時代のBC2年である。
大月氏の伊存が仏典を口授したとある。桓帝の時代に洛陽に入った
大月氏出身の支婁迦讖は、霊帝の時代に大乗経典の『道行般若経』
『首楞厳経』『般舟三昧経』を訳した。『般舟三昧経』は光和2年
(179年)の10月8日に胡本から漢訳された。

紀元3世紀より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代
の主流は、支遁(314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。
訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。紀元4世紀頃か
ら、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什が活躍する。

仏図澄の弟子である釈道安(314年 - 385年)が出て、経典目録を作
り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱
却した中国仏教の流れが始まる。

しかし、中国仏教隆盛の中心人物は350年-409年の鳩摩羅什である。
インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国の王族の母との間に生
れた。7歳のとき母とともに出家した。はじめ原始経典や阿毘達磨
仏教を学んだが、大乗に転向した。

384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、以後18年間で涼州での
生活を余儀なくされた。のち、401年に後秦の姚興(ヨウコウ)に迎え
られて長安に入った。以来、10年足らずの間に精力的に経論の翻訳
を行うとともに、多くの門弟を育てた。 

東アジアの仏教は、鳩摩羅什によって基本的に性格づけられ方向づ
けられたといってよい。主な訳出経論に『坐禅三昧経』3巻、『阿
弥陀経』1巻、『大品般若経』24巻、『妙法蓮華経』7巻、『維
摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻などがある。
門弟は三千余人に上ったという。

通常の日本語にもなっている「色即是空、空即是色」も、この人物
が仏教の中国語訳作成にあたり、新たに生み出した用語だ。
仏教の示す観念をシンプルに表現し、より民衆に広めて安くした。

602年 - 664年玄奘三蔵は、洛陽近郊の県の陳氏に生まれる。10歳の
ときに兄の長捷のもと、洛陽の浄土寺で出家し、玄奘と名づけられ
た。

仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国した。
河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺
に至る。ナーランダ寺で戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡
拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、
657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。帰国した彼は、持ち帰
った膨大な梵経の翻訳に専念した。

玄奘の翻訳は、その当時の中国語に相応しい訳語を新たに選び直し
ており、それ以前の鳩摩羅什の漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以
後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。

また、一年以上もの歳月を使って「大唐西域記」を書き上げた。宋
の時代には文人達は芸術の手法を神化し、「大唐三蔵取経詩話」を
出版し、その後明の時代には小説「西遊記」が広まったのである。


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