2680.考察 ==「美ューティ殺シアム」==



考察 ==「美ューティ殺シアム」== S子 

  今更でもないが、女性の美しくなりたいという切なる心理を利用、
なおかつそれを捕食し、そこに各種様々な欲望を巧妙に混在させ、
究極の目的は、スタッフ全員が尽力を尽くし、あなたを身も心も美
しく大変身させ、あなたの願いを叶えてあげる(実現させる)こと
にあるのですよとうそぶきながら、番組の高視聴率確保を狙ってい
る「ビューティコロシアム」というテレビ番組がある。

ビフォー、アフターの落差を真に実感できるのは相談者である当の
本人でしかありえないのだが、それを少しでもテレビ視聴者にわか
りやすく訴えるために、ビフォー(変身前)では、まったくの化粧
っ気のない素顔に、手入れの行き届いていないだらりと伸びた髪、
洋服の色使いもダーク系の暗いイメージを演出し、相談者を登場さ
せていたりする。

そして、この醜い容姿のためにどれだけこれまでの人生が惨めなも
のであったかを語って視聴者の同情を誘い、相談者の目からこぼれ
落ちる大粒の涙を画面にアップして、ビフォー(変身前)のクライ
マックスを迎える。

その後相談者の悩みを聞いたスタッフ(ヘアメイクアーティスト、
スタイリスト、ビューティクリニック、美容整形医院、美容形成外
科医院等)が、相談者の願いを聞き入れて手術の方法論を述べ、最
終的には相談者のイメージと同程度か、もしくはそれ以上の仕上が
りを手がけてゆく。

その間の過程はテレビには一切映し出されないので、アフター(変
身後)は数ヶ月後か半年後の結果だけということになる。しかもテ
レビ番組ではビフォー、アフターをわずか数十分で取り上げてしま
うのだから、視聴者は時間的観念が薄らぎ、その衝撃は更に上回る
ことになる。そこがこの番組の狙いどころでもあるのだが。テレビ
という視覚文化はやたらと強い視覚的刺激に頼らざるを得ないとい
う宿命を背負わされるために、演出もより過激になりやすい。

アフター(変身後)の登場シーンは、テレビ画面いっぱいに相談者
の後ろ姿を映し出すところから始まり、徐々にカメラを遠ざけ、ア
フター(変身後)の後ろ姿全体を見せ、正面は視聴者各々の想像力
を借りるようにしている。その後に、ゲスト芸能人の驚きの表情と
驚嘆の声がテレビ画面に映し出され、視聴者の関心と興味はピーク
に達してゆく。

アフター(変身後)の相談者はまるで別人のように見事に大変身し
、終始笑顔が絶えないというか、笑いが止まらないといった感じが
強くある。尽力を尽くしたスタッフのコメント(現代科学技術の粋
の限りを尽くしたこと等)が入り、ゲストの賛美が次々に入ると、
相談者の心理は高揚と快感で満たされ、以後の人生の幸福は確実に
保証されたかのような印象を残して番組終了となるのだが、果たし
てそうなのかどうか。。。

まず、相談者に関わる(群がる)スタッフは売名行為とそれに伴う
利潤が保証されること(相談者を救済する側でありながら、なお
かつ自らも救済以上の報酬を得ることができるという有難いメリッ
ト)が挙げられる。これはスタッフが望む、望まないに関わらず、
この番組を見た視聴者の意識下にひとつの情報としてすり込まれて
ゆくので、必然的な流れとなる。それは、有名女優の出産、子育て
本と無名の女性のそれとでは、どちらがより多くの人に読まれるか
ということと同等である。

根本の問題は、「ビューティコロシアム」に食い物にされていると
は知らずに出演する相談者自身の真の目的が、一体何にあるのかと
いうことである。この番組に出演することで外見上の美を手に入れ
ることはできても、真に心の底から欲しているもの、この人生に
おいて成し遂げなければならない唯一のものは、一体何であるのか
ということである。

それが相談者に明確になされていないと、全ては無駄に帰すどころ
かまた相談以前のような状態に逆戻りしかねないと想像される。
いくら外見が美しくなっても、それに見合うバランスのとれた精神
力が備わっていなければ化けの皮はすぐにはがれてしまう。

また、この番組に出演する以前の問題として、自分をどれだけ深く
見つめ、どれだけその困難と向き合ってきたか、自分をごまかさず
に真摯に向き合ってきたかというその努力のかけらが、各々の相談
者からは正直見えてこないのである。

これまで自分でできる限りのあらゆる努力を尽くしてみたが、うま
くいかずにそれでももうだめだと諦めて、この番組に一縷の望みを
かけて出演したのだという切羽詰った様子が全く見えてこない。
いくら涙を流してもである。

更に、相談者の願いを叶えるための総費用額は、おそらく番組が負
担しているのだろうと思われるが、そこが所詮他力本願なのである。
相談者の求める美も所詮その程度のものでしかないこと、心底欲し
ているものでないこと、相談者自身も番組に釣られ(美・ビューテ
ィという言葉にあやつられて)、あわよくば的なところが見えてし
まう。

心底欲しているなら自分で汗水たらして働いて稼いだお金であれば
、何の問題もないのだろうが、所詮他人が出すお金である。しかも
そのお金には色んな欲望が複雑に絡んでいるから始末に終えない。
そんなお金で美を簡単に手中にしても、相談者本人に何の効力も発
揮させてはくれないだろうと思うのである。

そして、もっと深くこの番組を見てゆくと現代人が陥りやすいひと
つの行動パターンが見えてくる。これを料理にたとえるなら、基本
の作業を手抜きせずにきっちりとやり、手間隙かけて手作りの愛情
のこもったお弁当を作り、それでお腹を満たすことと、面倒くさい
、時間がないからといった理由で安易に買ったお弁当で済ませてお
腹を満たすことでは、同じ満腹感でもその満足感という質において
は、どちらに軍配があがるかということである。

もうひとつこれを花にたとえると、現代人は種を蒔いて芽が出、双
葉になり、さあこれからだという当たりから一挙に大輪の花を咲か
せようとする傾向が強くある。目に見える表面はきれいな花であっ
ても、目に見えない土中にその大輪の花を支えるほどの根が十分に
張っていないのでは、その花はすぐに枯れて朽ちてしまう。最も
そんな花なんて現実に有り得ないのだが。

要するに現代人は結果という答えだけを手中にしたがり(できれば
より速く)、時間がかかるものには見向きもしない。そこそこの努
力と苦労を体験すればよくて(大半の人がこの時点で中途半端に充
足してしまう)、それ以上の身体的・精神的苦痛はできれば味わい
たくないと考えている。

では、なぜそういう生き方の方法論に現代人は陥ってしまったのか
という問いに対して、ひとつの答えのようなものが、「ビューティ
コロシアム」から窺い知ることができる。

科学技術の進歩と発達は人間に便利性や合理性をもたらし、時間的
短縮とその科学技術をより多くの人と共有するメリットをもたらし
た。本来ならその余暇で人間は自らの内面に関心を振り向けてゆく
はずだったのだが、より多くの人と共有してしまったという事実か
ら、関心ごとが外部へと向かい始め、自己と対峙することなどしな
くなった。

科学技術の便利性は困難をさける安易性にとって変わり、その共有
は自己逃避という現実認識の希薄を生んだ。「ビューティコロシア
ム」に出演する相談者にもこれとまったく共通のものがある。そう
、自己逃避と安易性である。

目の前に自分の欲しいものがある、自分の願いを容易に叶えてくれ
る科学技術がある、それを提供してくれる番組がある。そうすると
人は困難な道をあえて選択しなくともその科学技術の手をいとも簡
単に借りて、自分の願いを実現させてくれる番組に走ってしまう。
それを利用しない手はないのである。

そこから自己に深く直面することなど当然しなくなる。自分の本当
の姿など見えなくなり、自分が真に求めているものすら見えなくな
ってしまう。そう思うと、科学技術って余計なお世話的なところが
あるとわかる。便利なんだけど正直有難迷惑なんだと思えてくる。

女性は身体的構造からどうしても受身的姿勢になってしまうので、
飛んでくる蝶を引き止めるためにはより美しくありたいと思うのは
自然な気持ちだろう。だが、その美しくありたいという美の基準は
一体どこにあるのか。何かと比較しての美であれば、そんな美は脆
くもあっという間に崩れ去るだろう。

そうならないためには、回り道をしてでも自己と向き合いながら着
実にひとつひとつ問題解決し(それはまるでゲームをひとつひとつ
クリアしてゆくように)、体得して自分のものにしてゆくしかない
はずだ。

が、科学技術はひとつの結果という答えを人間に労せずして提示し
てくれている。安易な道を選択する方法論を覚えてしまった現代人
の意識は、科学技術の進歩と発達につれてゆっくりと弛緩してゆき
、こんな捕食番組に食い物にされるようになった。そして、それす
ら気づかないという状態になる。

安易に美を手に入れてしまった彼女たちが、喪失したものに今後気
づくことはありうるのだろうか。。。
 


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