2678. 海のシルクロードについて(日本とローマの道)



今回はシルクロードについて、検討しよう。   Fより

シルクロードというと砂漠を行く道を、NHKのシルクロードで放
送したために日本人は強く印象を付けられているが、物資輸送面か
らは海のシルクロードの方が重要である。江戸時代、陸の東海道よ
り、物資輸送面では江戸と大阪を結ぶ弁天船の方が重要であったの
と同じ論理である。

そして、この海のシルクロードの中継貿易港で栄えた国が多数ある。
7世紀に唐が中国にでき、かつ欧州には東ローマ帝国、中にイスラ
ム帝国があり、中国の絹や陶磁器など、東南アジアの香料や香木を
欧州に運んだ。豊かなイスラム文化が栄えたのも、この東西を結ぶ
イスラム商人たちが活躍し、莫大な利益を得たことによる。

欧州と中国を結ぶ中継貿易港は、アルクサンドリア、カイロ(エジ
プト)、バクダッドなどのイスラム商人、インドの商人、チャンパ
、シュリービジャヤなど東南アジアの国々が中継貿易の商人として
活躍している。

欧州からは香水や宝石などを売出され、東南アジアは欧州や中国に
香料、香木などを売り、中国からは絹、陶磁器などを手に入れた。
また中国にはインドや欧州文化が流入したのである。仏教・景教や
イスラムの工芸品に使われるコバルト・ブルーなどの色でできた文
様などが中国に流入した。イスラムは工芸品を作り、貿易品として
いた。

アジア諸国には金や銀を貿易品との代わりに欧州諸国は支払うこと
が多った。この金銀が欲しくて、欧州は次の時代、中南米を侵略す
ることになる。しかし、マルコポーロが金に輝くジパングと言った
国を目指したので、これは明確に日本侵略を目指した行動であるこ
とになる。このことを豊臣秀吉が知り、日本の防衛を確実にするた
めに朝鮮出兵したという説もあるくらいである。

日本ではマルコポールが有名であるが、この同時代にイスラム教徒
イブン=バットゥータが旅行して手記を残している。この時代の主
役はイスラムの商人である。世界貿易の主体として活躍し、その活
躍を為替などの金融制度が支えていた。

イスラム商人が力を得た理由は鉄の釘を使用しない縫合型船ダウに
ある。最大級のアラブ・イラン系のダウ船の長さでも30M前後で
あり、また船首と船尾が尖ったダブルエンダー型であったようだ。
南インドからのチーク材やココヤシ・ナツメヤシ材が使われていた。

最大級の船で1隻当たり1トンの積み荷を収容し、1隻平均400
人が乗り込んだようだ。帆装についてはマストが2本であるが、1
本は見張り台の可能性もあり、三角帆であった。帆布はナツメヤシ
やココヤシの葉と繊維をむしろ状に編んだものや亜麻布、木綿など
の織布が用いられた。ダブルエンダー型の船尾のため、船尾につけ
る舵は発達しなかった。穴のあいた複数の石(大理石)の錨が用い
られたようだ。そして、船員は黒人奴隷である。

普通は30Mより小さい商業船が多数で貿易していたようだ。航海
用羅針盤がイスラム世界に導入されたのは13世紀で、これによって
航海術は飛躍的な進歩をとげた。磁気現象と磁針は、これに先立つ
数世紀前に中国で発見されていたが、磁針をピヴォットで支えた羅
針盤を航海に初めて利用した。

明の鄭和の南海大遠征は、第2次「大航海時代」が終わり、「アジ
アの海の繁栄期」も過ぎて、さらに15世紀の変わり目から、それが
安定期となっていた時期に行われた。ポルトガルの大遠征は海のネ
ットワークを再編成して統制下に置こうとしたが、明は伝統的な慣
行を重視し、既存のネットワークの中で、最大限明の声望を高めたよ
うとしたように感じる。

そして、今、世界は、欧米中心の世界から大変化して、中国やイン
ド、ロシアなど多数の国が平等な力で組み立てられる世界に変化し
ようとしている。この世界観は、15世紀以前にあった世界観を蘇
らすことが必要になっている。そうしないと世界の見方が歪のまま
では、日本の発展はない。

欧米中心の見方しかできない政治家やビジネスマンを多く見かける
が、一日でも早く、15世紀以前の東南アジアから日本までの海の
豊かな恵みに気がついてほしいと思う。東アジア共同体は15世紀
以前の秩序を取り戻すことであるとも見ている。

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イブン=バットゥータ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イブン=バットゥータは、モロッコのタンジール生まれのイスラム
法学者、旅行家。

1325年、21歳のとき世界旅行に出発し、エジプトを経てマッカ(メ
ッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、
キプチャク・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経
て中国に達し、泉州・大都を訪問したとされる。1349年故郷に帰還
したのちも、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し
、1354年にマリーン朝の都フェスに帰った。

マリーン朝君主の命令を受けてイブン=バットゥータが口述し、
1355年に完成された旅行記『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観
察者たちへの贈り物』(通称「イブン=バットゥータの大旅行記」
、「三大陸周遊記」)は19世紀にヨーロッパに紹介され、各国語に
翻訳されて広く読まれた。


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