2672.インドと日本の道(仏教アジア史)



東南アジアの文化はインドから伝わり、そしてチャンパ経由で日本
にも影響を与えた。この検証。    Fより

仏教の成立自体がウパニジャド哲学から生まれたもので、バラモン
教と同一である。このため、輪廻などの基礎的な教えは同じである。
バラモン教は5世紀に民間信仰を大幅に取り込んでヒンズー教とな
る。逆にヒンズー教のタントラを取り込んだのが仏教の密教化であ
り、もともとヒンズー教の要素を仏教は持っている。

しかし、ヒンズー教と仏教の決定的な違いは、カースト制度を認め
るかどうかによっている。ヒンズー教はいろいろな宗教を取り込ん
だが、頑なにカースト制度だけは守っている。アーリア民族優位を
確立するための宗教という側面を捨てていない。

ブッダは前6世紀に仏教を誕生させた。マガダ国に最初に普及した
が、前3世紀マウリア朝のアショーカ王が仏教を国教として保護し、
かつ、今のスリランカを上座仏教国とした。アショーカ王の功績が
大きい。

仏像ができたのは、ギリシャ人国家で今のアフガニスタンにあった
パトリシアの影響がある1世紀〜5世紀のクシャーナ朝で首都ガンダ
ーラ(今のラホール)で盛んに彫られたようだ。クシャーナ朝カニ
シカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることにな
った最大の功労者だった。ここを基点として東トルキスタンに仏教
が伝播した。このルートがシルクロード経由の仏教伝播ルートとな
る。7世紀中にサザン朝ペルシャがイスラム教ウマイヤ朝に滅ぼさ
れて、シルクロード経由の仏教伝来の道は閉ざされることになる。

8世紀にはパドマサンババがチベットに仏教をつたえて独特のチベッ
ト仏教となって発展したし、善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち
)、不空(ふくう)らのインド僧は、8世紀の中ごろから後半にかけて
中国にわたって密教をつたえ、これは唐代にさかえた中国密教の源
流となった。空海や最澄が日本に持ち帰ったのも8世紀のこの中国
密教であった。

また、チャンパなどの東南アジア諸国もこの時期、密教を導入して
いる。このため、インド僧はシルクロード経由の道を閉ざされて、
東南アジア経由で中国に渡ったことが分かる。

その後、1193年にナーランダ寺院、そして1203年ベンガルの密教の
中心であったビクラマシラー寺院がゴール朝の軍に破壊されて、僧
たちはチベットや東南アジアに逃げ、インド仏教は崩壊した。中国
にも12世紀の密教は伝わったようであるが、修行方法を道教が取
り入れて、仙人信仰になっている。

10世紀に北ベトナム紅河流域を中心にベト族が大越国を建てるとチ
ャンパは南に移動する。この時期と日本の日宋貿易が盛んになる時
期が一致している。チャム人はムラユ語を理解していた。このため
現在のインドネシア地域との交易を独占していたようである。チャ
ンパは一方では、中国と交易関係を持ち、中継貿易ができた。この
中国と日本も交易関係にある。このため、間接的にチャンパと日本
は繋がっていた。

海洋民族チャム人がどのような船を持っていたかが重要であるが、
陸伝いに航海するこの当時ではインドからインド商人やイスラム商
人が来ていた。この人たちが用いた船をダウ船という。イスラム商
人の大きな商売道具である。このような船をチャム人たちも持って
いた可能性がある。

しかし、14世紀に明が成立すると、明が大型船を建造して、チャ
ンパの価値を無くすることになる。そのころからチャンパは交易の
独占ができなくなり、国力を無くしていくが、この時期、チャンパ
は日本と中国との中継貿易として利益を得ていた。しかし、それも
江戸幕府が鎖国令を出して交易ができなくなる。このチャンパの代
わりをしたのが琉球王国である。このため、チャンパ自体が衰退す
ると琉球王国にチャム人は多数、押しかけたように思う。

突然、琉球王国は海洋国家になる。インドネシア諸国と広範な条約
を結んでいる。これはムラユ語を理解しない外界の人たちでは無理
がある。沖縄人の中にチャンパを感じるには私だけでしょうかね。

また、日本との直接的な関係で言うと中国経由で日本に渡来した
林邑僧仏哲が伝えたチャンパの舞踊は林邑楽として、今日まで雅楽
の中に伝承されている。このようにチャム人が日本にも帰化した証
拠もある。

遣唐使がときどき嵐に会い漂流したが、その漂流先がチャンパであ
ったようである。記録が残っている。

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チャンパ王国:日本との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

14世紀から15世紀に掛けて交易国家として繁栄した琉球王国はチャ
ンパ王国(占城)と通好関係があった。(歴代宝案)

17世紀前半に活躍した日本の朱印船はしばしばチャンパ(占城)を
渡航先に選んでいる。これはチャンパの物産が目的というより中国
商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである
(明朝中国は日本船の来航を禁止していた)

中国人が記録したチャンパの伝承で、飛頭蛮という首が伸びて頭を
飛ばす民族に関するものがある。これは江戸時代の日本に伝わり轆
轤首(ろくろ首)の話になったと言われている。全く同じ伝説がカ
ンボジアにも存在する 

正倉院に所蔵されている香木蘭奢待(らんじゃたい)は、9世紀頃、
チャンパから日本に持ち込まれたと考えられている 
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ナーランダ大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ゴータマ・ブッダ が訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立
の下で説法した。  
仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの人が滞在した(最古
で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の生徒と
、1,500人の教員がいた。高い塀と、1つの門、図書館は9階建ての
建物にあり、多様な分野の教科が行われていた)  
チベットの記録によると、インド仏僧龍樹(150 - 250年頃)が講義
を行ったが、グプタ朝時(240 - 550年)に大学が出来たと思われる。 
唐時代に、玄奘三蔵が大学の詳細を中国に持ち帰った。

1193年に Bakhtiyar Khalji 率いるトルコイスラム人の侵略によっ
て大学は破壊された;この後の時代にインド仏教は衰退した。
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ダウ船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

構造
マストは前方に傾斜していて、大きな三角帆が一枚づつ張られる。
基本的に比較的小型の船で、船員も10人〜30人ほどだが、ペルシア湾
から中国に向かうダウ船には、全長30m以上、400〜500人乗りという大
形のものもあったという。

交易・航海
最初にダウ船が登場したのは紀元前後とも言われ、アラビア半島や
インド沿岸部で作られたと思われる。8世紀頃(アッバース朝成立後
)インド洋沿岸の大都市が大消費地として興ってくるとともに、イ
スラム商人のダウ船が交易船として活躍し、季節風(ヒッパルコス
の風)を利用してインド洋を航海し、東アフリカ、アラビア半島、
インド、東南アジア、中国等の間に広大な海上交易網を築いた。イ
スラームのダウ船と中国のジャンク船の活躍が、海のシルクロード
と港市国家を発展させたといえる。しかし難破しやすかったため命
がけの航海となった。ダウ船は陸路のラクダとともにイスラームに
おける主要な輸送手段だった。交易品は、ペルシャ湾岸からはナツ
メヤシや魚、東アフリカからはマングローブ木材、その他各地から
奴隷や胡椒など多岐に渡っていた。アラビア半島と東アフリカの往
復では、冬か早春に季節風で南に航行して、再び晩春か初夏にアラ
ビアに戻った。

航海にはカマルと言う独特の道具を用いた緯度航法や中国から移入
された羅針盤を用いていた。カマルと言う観測装置は、水平線から
北極星の角度を測るることによって、緯度を測定する道具だった。
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歴代宝案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴代宝案(れきだいほうあん)は琉球王府の外交文書を記録した漢
文史料。全262巻と目録4巻、別集4巻よりなる(現存するのは全242
巻と目録4巻、別集4巻)。

琉球王国と中国の明・清王朝や朝鮮、暹羅(タイのアユタヤ王朝)
、安南(ベトナム)、爪哇(ジャワのマジャパヒト王国)、旧港(
スマトラ島のパレンバン華僑王国)、満刺加(マラッカ王国)、仏
太泥(パタニ王国)などとの外交文書を集成したもので、期間は
1424年から1867年に渡る。原本は焼失あるいは散逸したが、近年写
本残篇などから再構成された。

琉球王国の外交文書集。明・清二代の対中国関係文書が大半を占め
、他は東南アジア関係。1424年から1867年に至る443年間に及び、
史料的価値は高い。原本は大半が失われ、台湾大学所蔵本などいく
つかの写本が残るのみであるが、近年、各所の写本から再構成する
作業が行われた。原本を失ったため,字句の校訂は不十分であるが
、形態上からは、ほぼ完全に近いものが今日利用できる。


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