2666.泉椿魚先生に会う



昨日、横浜の赤レンガ倉庫で、電気自動車の展示会にモータの先生
に呼ばれて行った。そこで面白い人にあった。   Fより

白い陣羽織のおじいさんを紹介された。なぜ、こんな場所にいるの
であろうという井手達である。格好だけではやくざかなと思う。
しかし、年のころ65才、温和なおじいさんなのでやくざとは違う
と感じる。そして、私の名刺を渡したのに、突然いろいろと私のや
っていることを聞く。なぜ聞くの??疑問符がいくつも浮かんだ。

「あんたには、これだ。」と言って、名刺をくれた。名刺の裏には
、「人生 感動の温もり 一生大事 椿魚」と達筆で書いてある。
一番ふさわしい言葉の名刺を上げたいので聞いたという。名刺の裏
にいろいろな言葉が書いてある。50枚ぐらいの名刺に50通りの
全て違う言葉が書かれてある。名刺の交換時に強烈な印象を与える
人間学を教えられた。

そして、自分の人生を語り始めた。私は博多を出て日本海を北に向
けて死ぬか生きるかのテント生活をしながら、いろいろな町に居を
構え、今は鶴岡にいる。ここまでの人生、全て愛、会いであるとい
う。いろいろな人との縁で生きてきた。

そして、行き着いた町の町おこしを手伝いながら、書と俳句を作っ
て暮らしている。俳句も12万句作り、芭蕉の人生で2万句を歌っ
たようだが、それも越えた。北へ向かい、稚内まで行くことを目標
としている。また、町おこしでは一切、金を貰っていない。

今、仕掛けているのは佐渡の島おこしで、エコアイランド構想と若
いもんを東京から呼び返すために、お笑いをITで行う企画をして
いる。この企画・製作を佐渡でおこない、かつ佐渡観光振興で、「
佐渡百選」というイベントを計画し野口健にアドバイスを貰ってい
るという。また、佐渡観光の問題点は船の欠航だそうである。この
船の欠航を無くすために、モータの先生に潜水艦をお願いしている
という。モータの先生は法律でできないので困ったと話しているが
、この代わりの案を出さないと殺されるという???
それと佐渡が国交省の電気自動車モデル地域に選ばれたという。こ
の選考委員がモータの先生である。

椿魚先生は最上川下りの新しい観光船のデザインも担当しているが
、これも金を一切貰っていない。そのかわり、一切口を出すなと社
長には言っている。今、川下りの後、上流に回航するのに、エンジ
ンを使っている。このエンジンの廃棄ガスを水面下に出している。
しかし、それは環境を壊していることになる。環境を売り物にして
いるのに、環境を壊している。この最上川船を電気モータで動かそ
うとモータの先生にお願いしているという。

椿魚先生は、金沢の「東廓・懐華樓」の修復工事の設計・デザイン
・プロデュースで認められ、その噂を聞いてモータの先生が大阪に
いた時、大阪経済同友会が泉椿魚先生の所に押しかけた。それが縁
で知り合ったようだ。

椿魚先生もモータの先生を只者ではないと感じて、講演会の後で殺
すか殺されるか人生の勝負をしようと言ってお互いに意気投合した
という。このため、椿魚先生はモータの先生に難題を持ち込むよう
だ。どうだ、これ、できるかという問いを椿魚先生はし、それをモ
ータの先生が答えるという人生の真剣勝負をお二人はしているよう
である。モータの先生がいう、殺されるという言葉の意味が分かっ
た。

椿魚先生はモータの先生を莫迦博士という。馬鹿ではなく莫迦と言
う。奥が広いという意味であるというが本当かな??

椿魚先生は、山形県酒田市の料亭「相馬屋」を現代風にアレンジし
て復元している。畳を2色にしたり、襖の模様を色鮮やかに現代化
したり、観光名所化を意識した現代風ワビ・サビを表現していると
いう。「懐華樓」も渋い赤を基調としたアレンジをして現代化に成
功している。

また、それぞれの店舗で現代化の観点が少しづつ違うのがいい。椿
魚先生は、ユニークでないとダメだという。その店の個性は違うと
いうのだ。

椿魚先生は銀座3丁目の和光近くのすし屋「まいもん」の店舗デザ
インをアサヒビールから受けた。ここのテーマはガラスで作るワビ
・サビのようだ。どういう作品ができるか今から楽しみである。

また、この店舗の現地調査と、この電気自動車の展示会と合わせて
、東京に出てきたが、東京にはコナイし、マスコミにもデナイ。
出てはいけないという。このような人生を送ってきたが、どうも有
名になり、世の中が頬って置かないようである。

さあ、どこまで有名になりますか?楽しみな人を紹介された。
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泉 椿魚 (いずみ・ちんぎょ) 略歴
http://www.touban-art.com/art.files/chingyoprofile.htm
本名 泉 正勝 昭和18年、中国の北京にて生まれる。
終戦とともに帰国。山口県豊浦町小串で小学校五年までを過ごす。
父の仕事の都合で下関に転居し、高校を卒業。
デザイナーを志望し武蔵野美術大学を受験中に父、急死のため家業
を継ぐが、自分の夢を捨てきれず九州のデザイン会社に就職。
倒産、閉鎖などを繰り返し、ついに20年前、妻子故郷を捨て博多を
出奔。
転々と居を移しながら日本海沿いに北上の旅を続けている。
その途中、地元のひとびとのふれあいの中から町おこし、村おこし
で異才を発揮。
輪島・金沢・酒田・利賀村などに多くの足跡を残している。
著書に『人生最後に笑えれば』(小学館文庫)がある。

―以上 泉椿魚著『風のごとく生きる』(パルス出版)平成15年発
行 より抜粋―

平成18年9月現在 山形県鶴岡市羽黒町に住み自由奔放な書画・戯
句の創作に励みながら町おこし村おこしに奔走している。

椿魚のひとり言
十数年前、すべてのしがらみを絶ち、犬3匹を連れて福岡・博多を
発ち、日本海を沿って北上。
見知らぬ町や村に立寄りながら、人と自然を吾の師とし「詩画の道
」を歩んでいます。
現在58歳、未だ「ひよっこ」。雪深い富山県の五箇山・利賀村で
、廃校となった小学校の分校を、「椿魚の流星庵」とし、村の方々
の暖かいご支援の中で生かさせていただいています。
自分の半生、人間として生きてこられた道を振り返りながら、旅で
出会った見知らぬ人・自然を、更なる師とし、今日から始まる新し
い出合いに期待を膨らませ、感性のおもむくまま、戯句・陶芸・絵
画・漆芸などに明け暮れる日々。椿魚の「戯遊詩画人」としての足
跡を、その地に残させていただけることに、深く感謝し喜んでいま
す。
過去、金沢「東廓・懐華樓」の修復工事の設計・デザイン・プロデ
ュースをはじめ、金沢料亭旅館「滝亭」の俳諧処「春夏庵」「秋冬
庵」、金沢の「石引き祭り」、利賀村そばの郷「雪の庄屋」、富山
県氷見市にある民宿「磯波風」の大広間の陶板画製作などのデザイ
ン・プロデュース、そして山形県酒田市で江戸時代から栄えた料亭
「相馬屋」を修復し、新たな観光名所「舞娘茶屋・雛蔵画廊」『相
馬樓』の修復工事の設計・デザイン・プロデュースなどを、手掛け
させていただき、平成14年3月、5年間住み慣れた利賀村に、逗留
の宿・天竺温泉の郷館内に、椿魚の「山のてっぺん美術館」を開館
させていただき、心より深く感謝いたしております。旅の途中、
さまざまな人との出逢いから始まる椿魚の莫迦な夢。それがかなう
のも人様との良きご縁の賜物です。
「人生 良きご縁 雪だるまの如し」 「月よりも 星より綺麗 
人の愛」これは椿魚の人生句でありテーマのひとつです。 
−フォト・エッセイCD 越中・五箇山 利賀・おこころ燦燦の詩
『人生最後に笑えれば』より−
      泉椿魚氏 著書/人生最後に笑えれば(小学館文庫)



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