2659.インドからムラユへ、そして日本へ(東南アジア史)



インドから東南アジアのムラユ経由チャンパで日本への仏教伝来の
道もあるはず。      Fより

インド4世紀にできた大乗仏教拠点であるナーランダー寺院で修行
した中国人僧で中国へ戻った僧は、5名程度であり、その内3名が
有名である。4世紀末の法顕と6世紀の玄奘、義浄である。

法顕、玄奘は西域のルートでインドに行くが、義浄は海のルートで
インド往復をした。法顕も帰路は海のルートであった。このように
海のシルクロードがシッカリしていたことが分かる。

しかし、一番有名なのが西遊記に出てくる三蔵法師で、このモデル
が玄奘なので、西域のルートしか仏教伝来の道と認識されていない
だけなのだ。

671年 義淨は海のルートでインドへ渡り、仏教寺院をめぐり、特に
ナーランダー寺院で修行し、帰路も再び海路で、マレー・インドネ
シア(スマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国など)を経て、
695年中国へ帰国している。特にシュリーヴィジャヤ王国に長期間滞
在し、新都マラユ(パレンバン)は仏教教学の一大中心だったと。
そこで義浄は僧侶が1000人以上も学問に励んでいて、その学問や儀
式の仕方もすべてインドと同じであることを強調している。

シュリーヴィジャヤ王国は7〜11世紀が全盛で、14世紀後半まで
あるが、後半は衰退している。インド文化の影響を受け、大乗仏教
を奉じたが、遺跡等は不思議なくらいわずかしかない。パレンバン
を首都、ケダーを副都として12ヶ国を従える大帝国であった。この
言葉がムラユ語である。14世紀、最終的にマジャパヒト王国に滅
ぼされる。

このように7世紀のインドネシア地域は、大乗仏教であったのだ。
そして、この地域は交易拠点として、大発展していた。そして、そ
こにはインド商人も多くいた。また、インド文化を取り入れたムラ
ユ文化が栄えていた。ムラユ語(今のマレー語)がこの一帯の共通
語として機能して、交易をスムーズに行えるようにしている。

10世紀始唐の滅亡と共に国際貿易は衰え、シュリーヴィジャヤの
消息も一時、途絶える。中国に宋(960〜1127)が成立、再び南海貿易
が盛んになると、再び隆盛になる。シュリーヴィジャは南インドの
チョーラ朝と友好を通じ、政治・経済・文化などあらゆる面で影響
を被った。シュリーヴィジャヤで大乗仏教が盛んに行われたのも、
大乗仏教の拠点中部インドとの交通が密接に保たれていたからだ。

この交易の仲間としてチャンパ王国のチャム人もいた。このチャム
人は船でこの海域を交易で行き来している。このため、大乗仏教の
東南アジアの拠点である新都マラユから密教である大乗仏教を持ち
帰り、今までのヒンズー教から王家は大乗仏教に乗り換えることに
なる。

8世紀にシャイレーンドラ朝ができ、中部ジャワに巨大な仏教遺跡
ボロブドゥールを建造した。9世紀にはシュリーヴィジャヤ王国に
両王家の結婚を通じ合体される。イスラム教ができたのが7世紀始
で、7世紀後半までには商人を中心に急拡大し、イスラム商人たち
もこの地域に進出してくることになる。

また、義浄は帰国後、仏典の漢訳を行う。訳経は国家事業として洛
陽・長安の西明寺で行なわれた。漢訳された経典は56部230巻に及ん
だ。また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著す。
この本でインドや東南アジアの社会状況がわかる。

義浄は金光明最勝王経を漢訳したが、このお経を遣唐留学僧の道慈
(?〜744)によって日本に伝えられ、金光明最勝王経に聖武天皇が
深く帰依し、長年病気と飢餓に苦しむ国民と、日本の国を救おうと
発願し、詔して建立されたのが国分寺で、全国に国分僧寺68ケ寺と
国分尼寺が建立された。
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日本は「許し」「世間様」「お上」で回っている(日経BP)
                     日下公人
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/p/58/

 前回に続き、外国と日本を対比して、日本にあるものとないもの
を挙げてみたい。日本には輪廻の思想がない。これはインドと対比
した時の違いである。

 それから、最後の審判の思想がない。
キリスト教、あるいはユダヤ教、あるいはイスラム教と対比した時
の違いである。

 逆に日本にあるものを考えると、まず日本社会には「許し」があ
る。過去は水に流す。「みそぎ」というものがあって、いくら悪い
ことをしても、もう1回選挙をすると当選してくる。「みそぎは済
みました」といって、また選挙に通るのだ。
つまりまた生きていけるということ。日本には許しがある。

 それから「世間様」というものがある。
「理屈はそうでも世間様が許さない」などと日本人は言う。
そして「お上」というものがある。お上とは説明するのが難しい不
思議な存在である。

 日本では世間様とお上が微妙なバランスのうえに存在している。
その先に「許し」「理解」「相手を察する」というようなことがあ
るから、日本はうまく回っている。

仏教では輪廻から脱することが成仏

 インドでは輪廻を実感する。
インドの北部は乾燥地帯だが、南部は森林である。ジャングルには
小動物がたくさんいて、お互いに食い合いをしている。つまり、小
動物は死に、また生まれ変わる。ジャングルで輪廻を実感するのだ。

 中国では、あまり輪廻を実感しない。仏教はチベットのほうへ布
教していく途中で、新学説が出て変わっていった。一番の新学説は
「空」の思想である。

 悟りを開きたいというのは、輪廻の輪から逃げたいという意味だ。
どこにも生まれ変わらないことを「成仏した」という。
ではどうすれば成仏できるか。ヒンズー教は、難行苦行をすれば、
できると教えた。

 釈迦はそれをやってみた。一族の中で最高に難行苦行した揚げ句
、難行苦行しても無駄だと釈迦は覚った。そんなことをしなくても
成仏できると言った。

 ではどうやって成仏するのかというのが、その後の仏教の後輩た
ちのテーマになった。
難行苦行しなくても成仏できるというので、竜樹が「一切皆空」
(いっさいかいくう)と言った。

 要するにみんな空しいのだ。いちいち意味なんかない。物がある
と思うな。理念があると思うな。精神があると思うな。一切皆空だ
と思えば成仏できる。それが成仏だ。
輪廻を超えるためには、輪廻がない思えばいい。輪廻を超える方法
は、何もないと思えばいい。
竜樹の考えをごく簡単に解釈すると、そのようなことであった。


・日本で輪廻はすべて仏となった

 一切皆空の考え方は、中国ではわりと受け入れられた。
それがやがて日本にも入ってきて、禅宗になった。
日本に入ってきた時は鎌倉時代で、武士が殺し合いをしていた。
禅宗は武士に広がった。
武士は一切皆空。身を捨ててこそ名誉が残る。潔く死ねという思想
が受け入れられたのだろう。

 しかし、日本の仏教は「悉皆成仏」(しっかいじょうぶつ)とな
った。インドと中国では「一切皆空」だったが、どうも日本人は
「空」では困る。日本は現実主義だから、悉皆成仏、つまり山川草
木すべて仏であるということになった。

 日本では仏教がものすごく変化して、輪廻は全部仏だとなった。
これは日本仏教の大発明といってもいい。
「みんな仲良く」という考え方がもともとあったから、仏教もその
ように変えてしまったのだろう。

 「みんな仲良く」という日本的精神の具体例を挙げよう。
我々日本人は「人事カード」などにあまり熱心ではない。最近では
作る会社も増えたが、みんなあまり本気で書いていないし、会社も
本気で見ていない。最初ちらっと見るだけで、それよりも面接や社
会の評判を重要視する。

 人事カードにやたら熱心なのが米国と中国である。中国では档案
(たんあん)という。この人はどういう人間かというのをカードに
書くのだ。そして永久保存する。档案局という建物が北京にある。

 だが、ヨーロッパのエリートは人事カードをあまり重視しない。
おそらく貴族同士の評判で人事を動かしてきた歴史があるからだろ
う。そのあたりは日本と似ている。


・日本では「最後の審判」ではなく「現在の審判」

 欧米の人たちは人脈を非常に大事にする。それは、最後の審判を
考えるからだ。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、最後の審判
があると教えている。

 最後の審判の法廷には、自分1人で立つ。その時に「みんなでや
りました」「わたしだけではありません」という言い訳は通用しな
い。相手は神様だから、全然ごまかせない。「あなたは地獄」と言
われてしまえば終わりである。

 だから個人主義になる。
個人情報は最後の審判のために必要なのだ。最後の審判があるから
、行ないをきちんとしなければならないと人々が考える。それでヨ
ーロッパは1000年くらいはうまく回っていた。

 だがフランス革命以後、ヨーロッパの人々はそういうことを信じ
なくなって、近代的自我を持った人が出てきた。
彼らは合理主義だから、「神様は迷信」といった。
すると途端にヨーロッパはむちゃくちゃになった。その影響は米国
にも飛び火した。

 彼らは自分で自分を縛る規律がない。神様がいないということは
、最後の審判もない。そうなると、みんながエゴイストになってし
まった。

 その点、日本人は互いに見張っている。みんなに見られている。
最後の審判ではなく、現在の審判がある。悪いことをすれば、明日
にはバレてしまう。だから行ないを慎む。それでうまく回っている
から、日本には最後の審判がないのだ。


・日本では「世間様」が個人よりも大事

 自我も輪廻も最後の審判も、日本にはない。
だが、日本には許しがある。「過去は水に流して現在を楽しく暮ら
そうではないか」という知恵と技術と思いやりは、世界最高に発達
している。

 それが世界最高に発達しているということを、最近の外国人は分
からなくて、「封建的」「非合理的」「曖昧」などと手持ちの悪口
をぶつけてくる。

 ところが江戸時代や明治時代に来た外国人は、日本に長く住み着
いたから、そんな悪口は日本人には当たらないというところまで深
く日本を理解してくれたのだろう。
日本のよさは長く住まなければ分からない。

 そして、日本の常識の中にはありとあらゆる世界の思想と宗教が
全部入っている。
勝手にいいところだけを取っている五目飯のようなもので、それは
外国人には分からないだろうし、こちらも説明するのが難しい。

 それから日本には「世間様」というものがある。
世間様のほうが個人よりも大事だ。つまり人間関係が大事なのである。

 養老孟司さんが「名刺」について面白いことを言っていた。
日本人は名刺が大好きで、すぐに出す。「○○局△△課長」とかな
んとか、自分の名前はさておき、肩書きがこれでもかと並べてある。

 もらった側は「○○局△△課長様ですね」。名前はどうせ変わる
から、あまり見ていない。
それなら名刺の作り方を変えろ。「○○局△△課長」だけを大きく
書いて、名前は隅っこに小さく書いておけ。真ん中にポストだけ書
いておけと、養老さんが言っていた。


・裁判所にも「法の情け」がある

 世間様の上には、「お上」というものが乗っかっている。
これは制度であり、合理主義である。人情は関係なく、決まりがあ
るということだ。

 決まりがないと、大規模集団はもたない。あるいは長い時間をも
たせるには決まりが必要だ。
聖徳太子のころに律令制度が中国から輸入されて、「お上」という
存在をみんなが承知した。

 承知はしたけれど、あまり守らないからだんだんに消えてしまう
。消えたらまた作る。決まりにも新陳代謝がある。お上も新陳代謝
する。そこが日本がうまく回っているゆえんだと思う。

 裁判所の所長に裁判の実情を聞いてみたことがある。
その人が言うには、例えば懲役3年を超えると執行猶予が付かなく
なる。どうしても執行猶予を付けてあげようと思ったら、3年超に
はしないで懲役2年半とかにして、2年半になるための罰を探し出
して、それ以上の罰は探さないのだそうだ。

 わたしが「そのようなやり方でいいのですか」と質問をしたら、
「法の情け」とか「お上にも涙はある」とか、とても日本的なこと
を言っていた。だが、わたしはそれでいいと思う。

 基準が時々ずれると困るのだが、社会はいろいろだから、ずれて
もいいと思う。
ただ、時々、偏った裁判官がいると困る。それをチェックするため
に、日本は一審、二審、三審まである。裁判は公開で傍聴を許す。
そこで傍聴した人が指摘すればいい。マスコミがもっときちんと論
評しなければいけない。そういういろいろなチェック体制があって
こその決まりなのである。

 社会にはいろいろな実情があって、その上にお上がある。
日本のお上はあまり杓子定規でない。それをみんなが認めている。
日本精神とは、詰まるところ、われわれの心の中に残っているセン
スや常識が、地下のマグマから噴き出してきたものだといえるので
はないか。

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