2641.アンコールワットへ



アンコールワットの写真集
私と息子は、アンコールワットに来ている。そこでの考察。
                        Fより

ベトナムのポーチミン空港経由でシムリアップに来ている。家を6
時に出た。成田は連休の谷間で思ったよりも空いていた。ベトナム
航空も空いている。その意味では快適な空の旅であった。ホテルに
着いたのは17:00だが、時差2時間である。ホーチミン空港の
トランジットも時間待ちもなく、乗り継げた。

1.遺跡を見て
アンコールワットは12世紀頃に完成した寺院で、ヒンズー教のお
寺である。このインドシナ地域は、昔はビルマ族以外は、大乗仏教
かヒンズー教の地域であった。ヒンズー教、大乗仏教は国家護持を
目的とするので、どうしても王侯貴族の宗教になってしまう弊害が
あった。

日本でも親鸞や日蓮が出て、民衆の宗教をして大乗仏教を改変した
が、それと同じようなことをタイ族はした。タイ族が南下して、今
のタイ地域を支配するのに今まで支配されていたクメール王朝との
違いを出すために上座仏教をわざわざスリランカから輸入して、民
衆寄りの仏教を国教にしたのだ。その後、タイに支配されたカンボ
ジアも上座仏教になっている。ストウーパがプリア・カン寺院にあ
るが、これはタイの上座仏教が16世紀にカンボジアに持ち込んだ
ものだ。

アンコール王国の文化、クメール王朝文化を知るのに、このアンコ
ールの寺院群は貴重な文化遺産である。カンボジアの現在のお寺を
見ると、墓が大きなストウーパのような形をしている。墓が大きい。
権力者はより大きな墓を立てるようだ。それがアンコールワットで
あり、その遺跡群を形作ることになったと見る。寺院ではなく強大
な墓である。このため、おじいさんという名の寺院があるのだ。

しかし、この地域の王者であったクメール族も8世紀から15世紀
までは栄華を極めたが、チャンパ王国の主のチャム族とクメール族
は18世紀以降、まず最初に欧州人たちに、そして現在はベトナム
人とタイ人に隅に追いやられている印象がある。クメール族の栄華
を知るには、アンコールワットがあるので分かるが、チャンパ王国
を知る手がかりは少ない。

ということで、このアンコールワット遺跡群を今回は見ることにし
た。

須弥山を模した山と海を模した池、その間にある平地を表した回廊
を持つ寺院としてヒンズー教の世界観を再現したのが12世紀前半
に建立されたアンコールワットである。これだけの石の建物を見る
と、ミラノのドーモを思い出す。ドーモは300年以上も掛けて
18世紀に建設している。ドーモ以上に大きな寺を立てたこの王朝
の権力の強さをその面からも分かるし、奴隷が大量に必要であった
と見る。戦争で負けた側は大変であったと思う。アンコールを放棄
したのも、アユタヤ王朝に負けたことによる。

その証拠として、権力が小さい寺院は、近くで採石できる雨に弱い
赤い石を使っているが、アンコールワットは雨に強い山の砂岩であ
る。アンコールトムのバイヨンも砂岩である。9世紀のハリハラ朝
時代のバコン寺院などはこの土地の土を焼いたレンガであったため
に、破損が大きい。このため、12世紀にバコン寺院は補修されて
いるが、その補修部分は山から運んだ砂岩であり、保存状態がいい
ので搭の部分は今でも人間が上れる状態で残っている。

9世紀のハリハラ朝はヒンズー教、11世紀は大乗仏教、12世紀
始めはヒンズー教、12世紀後半はまた大乗仏教、その後またヒン
ズー教になる。しかし、民衆は基本的にヒンズー教であったとのこ
と。ということは王様だけが大乗仏教となる。魅力ある大乗仏教と
いうと密教であるので、その可能性が高い。密教は国家護持として
日本の平安朝でも重要視されている。天皇の元寇の平伏祈願も密教
寺院が行っている。最澄と空海が持ってきた密教は、8世紀の密教
であるが、アンコール王朝は12世紀のインド最後の密教なので、
効果がかなり高かったのでしょうね。そうしないと王様だけが大乗
仏教とならない。

クメール文字は、サンスクリット文字を簡単化した文字で、ある程
度は現在でも読めるとガイドさんは言う。そのクメール文字を簡単
化したのが、タイ文字であり、これもある程度読めるらしい。

というようにインドの影響を受けている。この地域は中国文明とイ
ンダス文明の影響を受けている。ベトナムが儒教の影響を受け、ク
メールやタイはヒンズー教の影響を強く受けている。12世紀後半
の王朝は大乗仏教であり、そのお寺には日本と同じような火のない
灯篭がある。この灯篭は、ヒンズー教では男の象徴(リンガ)とし
て意味があったが、大乗仏教にはその意味がなかったが、ヒンズー
教の影響を受けて作られてたと。これが日本に仏教と共に入ってき
た可能性が高い。

リンガを水で洗うといいことがあるとヒンズー教ではなっている。
このリンガの変わりに仏像の頭から水を掛ける風習にカンボジアで
は変わった。これも東南アジアで始まって、日本では水洗い地像な
どとなって影響を受けているようだ。

この事例でも分かる通り、日本の仏教はヒンズー教と仏教の混合し
た仏教になっている。東南アジアへ来て見ると分かる。日本を知る
ためにも東南アジアを研究する必要がある。このため、相対的な意
味でボロブドールの遺跡も見てみたいと強く感じた。インドのナガ
ーラヤも見てみたい。

しかし、まだ多くの分からない部分もある。たとえばプリア・カン
遺跡の円柱の建物はなぜできたかがわかっていない。どうもシルク
ロードからギリシャの影響があったと見るがどうであろうか??
というように新しい疑問も出た。

カンボジアやタイはインド暦を使っている。このため、正月が4月
、お盆が10月と中国暦とも違う暦である。カンボジアの民衆は死
んた肉親の骨の一部を水で洗い、その水を飲むという。また、遺骨
は川に流すこともしているようだ。これはヒンズー教の習慣で、上
座仏教が国民の80%を占めるというが、色濃くヒンズー教の影響
を今も受けている。カンボジアは火葬であるが、ベトナム人は土葬
であり墓があるという。12支も使っている。羊がヤギに、イノシ
シがブタになっている。ブタはいい役割であるという。仕事をしな
いでも丸々と太って暮らせるからお金持ちのことになっている。

なぜ、タイ族は漢字を使わずにクメール文字を使ったかというと、
シャム(タイと言う前の民族名)はクメール王朝に最初は支配され
ていた。このとき、クメール文字を使っていたので、自分たちの発
音をクメール式文字で表現したようである。また、タイ語とカンボ
ジア語の単語の20%以上は共通なことばであるという。タイ人は
自分にないことばをクメール語のことばで補ったのだ。その後は逆
転した可能性がある。

2.カンボジアの現在
カンボジアの生活は、ガイドさんに聞くと、月2万円で8人を養っ
ているので生活費は安いと。ガイドさんはまだ、大学生で年は29
歳だそうである。息子も29歳であり同年であるが、ガイドさんは
シッカリしている。

カンボジア人のお父さんは、プノンペンで役所に勤めている。お母
さんはベトナム人であり、ガイドさんにもベトナム人の血が入って
いる。五人兄弟の長男だとのこと。下はまだ中学生だそうだ。

カンボジアでは結婚はお見合いしかない。結婚すると、男性は女性
の家で一緒に生活する。このため、お父さんだけがプノンペンで、
残りの家族全員は、観光で稼げるとシュムリアップに来たようだ。
妹2人はホテルに勤めていると。しかし、妹さんは化粧道具などで
家には金を入れていないようだ。

ホルポト時代は大変であったが、田舎にいたために助かったと。プ
ノンペンに住んでいた人は、職業を聞かれて、学生や役人などは左
と言われ、ロモーの運転手と言うと右に行かされた。そして、左に
行った人たちは殺された。右の人たちは、田舎に追放となった。

現在の政権は、総理大臣が全権力を握っている。王様には権力がな
い。シアヌーク殿下は中国・タイに頼んで南ベトナム軍と米軍に占
領されたカンボジアの開放のためにポルホト軍を作った。しかし、
このポルホトが160万人の自国民を虐殺したため、現在の総理大
臣が私兵とベトナム軍の力を使った。シアヌーク殿下は中国に逃げ
ることになる。そして、シアヌークの息子が王様になるが、このよ
うな経緯のために権力がない状態だ。総理大臣の私兵が国軍になっ
ているし、ベトナムの保護国状態になっている。

このために、ベトナムから人が押し寄せてきた。100%カンボジ
ア人しかいなかった国に、現在40%がベトナム人がいると公表し
ているが、その多くはベトナム軍に関係している人たちのような気
がするという。大臣も4名がベトナム人である。また、メコン川下
流域のカンボジア領の3県をベトナムに割譲している。

タイとベトナムに挟まれて、その緩衝地帯にあるためにカンボジア
は生き残ったとも言える状態であるようだ。シェムリアップという
意味は、シャムを追い出したということであり、現政権がその名を
言うことでもベトナムの影響が強いことが分かる。

純粋なカンボジア人は貧しい。中国系やベトナム系、タイ系のカン
ボジア人が社会の上位を占めている。小学校は義務教育ではないの
で、貧しいカンボジア人は学校に行けない。教育に熱心な混血系の
人たちが高校教育を受けて、かつ英語を使えるまでになる。英語が
できないといい仕事がない。大学教育は全て私立しかないし、この
10年でできた。ポルホト時代は高校以上の教育を禁止していた。

そして、学校に夏休みなどはない。1年中夏だし、小学校は2部授
業をしている。木曜日は掃除の日になっている。日曜日は休み。授
業料は無料であるが先生の給与が安いので、先生は学生にプリント
などを売りつけて給与の足しにしているので、基本的には貧乏人は
学校に行けない。

数年前に大学ができて、このガイドさんも大学に入ったと。しかし
、ガイト業が忙しく、かつ夜は英語の学校に行っているので、あま
り大学にいけない。大学教育は全て英語であり、英語ができないと
基本的には講義を受けられない。カンボジアの大学教授はほとんど
殺されて、今は海外の先生が教えている。授業料は400ドル/年
だそうである。

シェムリアップはカンボジアの第2の都市で、かつ観光業で成り立
っている。町はどんどん大きくなっている。国道6号線沿いに新し
いマンションやホテルが出来ている。世界から観光客が押し寄せて
いる。このため電気、ガス、水道があるが、第1の都市首都プノン
ペンに比べて、高いと。特に電気は10倍高い。

このため、冷房などは普通の家では使えない。田舎の家はヤシの葉
を屋根に使い高床式の家であり、この構造が一番涼しい。今住んで
いる家はコンクリートで熱い。また、ガイドさんはお金があったら
、土地を買いたいと。食べ物が一番安定している。政府の上層部も
土地を積極的に買っているようだ。このような経緯でカンボジアを
農業国とする方針ができたのでしょね。

街から1時間かかるバンテアイ・スレイの遺跡に行く間、農村が続
いていた。農村では、ヤシの花のジュースが1つは砂糖になり、も
う1つが酒になるという。街ではビールやワインを飲むが農村はヤ
シの花の酒で済む。街ではウイスキーであるが、農村では濁酒であ
る。そのドブロクにマムシなどを入れて薬として飲んでいると。

このため、農村でヤシの花の汁を売っていないかと探したが、ココ
ナツの実の汁は売っていたが、ヤシの花の汁は売っていなかった。
ココナツの実の中にある汁を飲んだが、これはポカリスエットに似
た味で元気になるように感じた。しかし、よく考えると大塚製薬が
、ココナツの汁に似た製品を作ったということでしょうね。

農村の畑に蟻塚がたくさんある。この蟻塚は幸福を呼び込むと信じ
られているために、壊さない。このようにいろいろな仕来りがある。
村の祭りをやっていたが、女性が呼びかけているが、その呼び掛け
が、イスラム教の寺院の呼び掛けによく似ていると思った。街中の
音楽も日本の盆踊りの音楽によく似ている。ホテルの喫茶室で、こ
の原稿を書いているが、そこで聞こえるのは盆踊りの音楽で、自分
がどこにいるのか一瞬、分からなくなる。

3.ガイドから見た日本
なぜ、日本語を習ったのかを聞いたら、中国語は漢字があり4年ぐ
らいかかるが、中国系の人たちは子供のときから中国語を話してい
るため、中国語での仕事に着くのは難しい。韓国語は、韓国人だけ
でかたまり、ガイドも韓国人で占めている。ガイドの仕事がない。
しかし、ここシュムリアップでも日本人のガイドは現在1人しかい
ない。

しかし、韓国人のガイドは多数。それと大型バスで団体で押し寄せ
る。昔の日本人観光客の評判が悪かった状態にあり、韓国の観光団
は評判が非常に悪い。韓国語のハングルが街中でも多い。韓国人は
韓国料理しか食べない。このため、レストランはどこも、欧州人と
日本人だけで韓国人も中国人も見かけない。中国人も大型バスで回
る観光団である。個人旅行がない。日本人が個人旅行をできるよう
になったのは、ここ15年ぐらいであるから、大きなことは言えな
いが、韓国人の評価がここでも悪い。

中国人はここに長いこと住んでいるために、中国系カンボジア人が
ガイドになっているために、評判が悪くないし、中国料理の店も多
数、昔からあるために評判を落とさない。歴史の差を感じる。

このため、中国はメコン川の開発するにも、この中国系の人たちと
組むことができるために、迅速に開発が進むことになるようである。
この差は大きい。中国の実力を感じる。

しかし、旅行者で一番多いのが韓国人、次に中国人、そして欧州人
たち、イタリア・フランス・ロシア・ドイツなど1つ1つとすれは
、それほどでもない。その次に日本人である。このため、日本語は
割がいいようだ。このガイドさんは、日本語を始めて1年間で、い
い線まできている。ガイド業は日本語の勉強をしているようなもの
で、上達が早いという。そして、中国と韓国からシュムリアップへ
は多数の直行便があるが、日本からの直行便は関空からのアンコー
ル航空の週1便しかない。

そう言えば、迎えに来たガイドさんは、中国系で日本語を専門学校
で習って2年であるが、非常に日本語がうまかった。このガイドさ
んは中国語と日本語の選択で、日本語を選択したという。日本語の
方が実入りがいいと考えたようである。このため、カンボジア語と
英語、日本語の3ケ国語しかできないという。父方は中国系である
にもかかわらず、中国語はできない。

日本からの観光客は3月と8・9月が多いという。次に5月の連休、
年末始だそうである。HISで行ったので若い人が多かったが、老
人には遺跡の頂上まで上るためにきびしい。若い人たちの遺跡です
ね。このため、3月の卒業旅行にアンコールワットは人気なのでしょ
うね。

帰りの飛行機の中でバックパッカーさんと席が隣になったが、1週
間いて、ドミトリー宿泊1日3ドル、遺跡周りは1日8ドルのバイ
ク・タクシーをチャーターで行ったので、たいして掛かっていない
という。食事はドミトリーの近くの屋台で1食1ドルで十分。一番
高いのがホーチミンと成田の航空券であったと。ホーチミンからシ
ェムリアップはバスだそうだ。ホーチミンからプノンペンまでが6
ドル、プノンペンからシェムリアップまでが4ドルだそうだ。時間
は12時間以上かかったと言う。このような楽しみは若くないとで
きない。東南アジアは若いバックパッカーには魅力的なのでしょう
ね。

このガイドさんが日本へ旅行しようとしたが5000ドルもするの
で諦めたと。シンガポールとマレーシアの1週間の旅行は500ド
ルと安いので、どうしてもシンガポールに行ってしまうと。
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カンボジア歴史年表
http://blog.livedoor.jp/maple358jp/archives/13647819.html

1世紀頃  カンボジア南部に「扶南」おこる。  
560年頃  扶南の盛期  
611年  イーシャナヴァルマン王碑文(最古のクメール語碑文)  
707年  真臘(クメール)の分裂(水真臘・陸真臘)  
770年頃  アンコール地方に小王国  
802年  ジャヤヴァルマン2世登位。アンコール王朝おこる。  
877年  インドラヴァルマン1世登位し、ハリハラーラヤを王都とす
   る。(ロリュオス遺跡)  
889年  ヤショヴァルマン1世登位し、アンコールの首都ヤショダラ
   プラ(アンコール)造営。  
928年  ジャヤヴァルマン4世登位。チョック・ガルギャールヘ遷都
  (アンコール北東90キロ)。(〜942年)。  
944年  ラージェンドラヴァルマン1世登位。全国統一。  
968年  ジャヤヴァルマン5世登位。  
1002年  スールヤヴァルマン1世登位。  
1045年  ウダヤーディチャヴァルマン2世登位。  
1113年  スールヤヴァルマン2世登位。アンコール・ワットを建設。  
1145年  アンコール朝のチヤンパ支配(〜1149年)。  
1177年  チャンパ軍のアンコール都城占領。  
1181年  ジャヤヴァルマン7世登位。アンコール・トム造営。  
1190年  アンコール朝のチャンパ支配(〜1220年)。  
13世紀初  版図は西はメナム流域、北が南部ラオス、東が中部ヴェ
     トナムに至る広大な領土。
ジャヤヴァルマン7世、アンコール・トムを完成。  
1243年  ジャヤヴァルマン8世登位。  
1296年  周達観、元朝の使節に随行してアンコールを訪問(〜1297年)。  

1353年  シャム軍の第1回アンコール攻略  
1394年  シャム軍のアンコール攻略。  
1431年頃  シャム軍によりアンコール王都陥落?  
1474年  王弟トモ・リャチャ登位。シャム(アユタヤ朝)の宗主権
    を認める。  
1528年  アン・チャン1世、新都ロヴェックを造路。  
1546年  アン・チャン1世、アンコール・ワットの修理を命ず。  
1557年  アン・チャン1世、2万の大軍でシャムを攻略。東北タイ地
    方など占拠。  
16世紀末  東南アジア各地に日本人町成立(〜17世紀前半)。  
1623年  カンボジアの首都ウードーンを建設。フェ朝廷(グェン氏)
    にプレイ・ノコー州(サイゴン)での活動を認許。  
1632年  日本人、森本右近太夫一房、アンコール・ワット参詣。  
1758年  ヴテイ2世登位。ヴェトナムの宗主権下に下り、王令には
    ヴェトナム人高官の副署必要。  
1792年  約1万人のカンボジア人、運河堀削のためバンコクヘ連行
    される。  
1841年  フェ朝廷、カンボジアを併合。アン・メイ女王、高官たち
    サイゴンへ。  
1845年  カンボジア人、各地で蜂起。アン・ドゥオン、シャム、
    ヴェトナムの合意により登位。  
1860年  アンリー・ムオ、アンコール遺跡調査。  
1863年  フランス―カンボジア保護条約調印。コーチシナ総督ドゥ
    ・ラ・グランディエールとノロドム王が署名。  
1884年  フランス―カンボジア協約調印。フランスの支配強化。  
1887年  仏領インドシナ連邦成立。カンボジア編入される。  
1904年  フランス―シャム協約。ムルー・プレイなどの地方が仏領
    となる。シソワット登位。  
1907年  フランスーシャム条約。タイよりカンボジアにアンコール
    地方が返還される。シェムリアップ(アンコール地方)な
    ど西北部3州が仏領となる。  
1908年  アンコール遺跡事務所開設。  


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