2628.自然災害の効能について



自然災害の効能について S子 

近年多発する異常気象とそれに伴う自然災害は、物心両面において
、我々に数多くのダメージと恐怖、不安を与えた。住む家を失い、
家族を失い、それまでに構築してきた財産のほとんどを失った時、
被災者は、人知と人為の限界を否が応でも突きつけられ、もろに自
己と現実に直面せざるを得なくなる。

今後もこうした異常気象や自然災害は、更に増えるだろうと予測さ
れる。というのも地球人口がその容量に対して、既に飽和状態の限
界を超えており、地球が生き延びてゆくために我々人類をふるいに
かけ始めているからだ。

「僕らの世界」はフィードバックループという欲望の世界にあり、
まずは出力(与える、欲望や願いを叶える、)が先であり、それが
優先される。その後に入力(結果)が決定されるということを考慮
すると、自然災害が我々人類にもたらすのは何も恐怖や不安、悲し
み、絶望ばかりではないことが見えてくる。

確かに物質的には家屋や店舗、生産した野菜や穀物、様々な器具や
機械、自動車等のものが流失したり、破壊されたりはする。しかし
、そうしてもなおそこに生き残っている自己があることをもろに認
識すると、それら物質的なものはこれから自己が、その人生におい
て、徐々にでも構築してゆけるものであることを知る。

そうすると我々が自然災害によって受けたダメージの大半であると
ころの恐怖や不安、悲しみ、絶望というのは、ほとんど取り除かれ
てゆく。そして、自然災害がもたらす実害というのは物質的な表層
部分だけであるということが理解できる。

そこで私は、一見すると災難と受容される自然災害が我々の意識と
いう深層部分に及ぼす効能について私見と見解を述べてみようと思
う。これを思い立ったのは、現代人の意識が、本質というものから
今日あまりにもズレまくっていると私自身が感じたからである。
それ故に既に現代人は通常の日常生活においても、常に不安の中に
いるということでもあるのだが。

自然災害は冒頭でも述べたように物質的損失があまりにも大きいた
めに、視覚に訴えるには最高であり、それ故に絶望的にならざるを
得ず、もろに現前する現実と自己に直面してしまう。これはどうあ
がいても自己をごまかすことのできない出来事である。不安や悲嘆
に暮れ果ててばかりいたのでは、そこから構築されるものは今後一
切生まれないことになるのだから。

被災者が避難所生活で食事を差し出されたのなら、食事をすること
だけに意識を振り向ける。毛布を差し出されたのなら、その毛布の
感触を実感して眠りにつく。そのことに意識を振り向け、歩調を合
わせ、同調してゆく。隣の人が話しかけてきたらその会話に意識を
合わせる。その人は何をして欲しいのか(出力)をその会話から読
み取る。そこに意識を合わせてゆく。ただそれだけのことである。

そして、今はただこれだけのことしか自己にはできないのだとその
限界を知る。それが生きていることの唯一の今実感できることであ
り、それが精一杯生きている自己の今の居場所だからである。この
ような場合における焦り心や急ぎ心は無駄であるとわかり、そこに
何の意味もないと知る。それを体感、体得する。

つまり、自然災害における効能とは、もろに現前する現実と自己に
直面させられ、自己をもうこれ以上ごまかすことができなくなると
いうことである。そして、それは、我々の意識のズレを少しでも本
質に近づくように矯正させようと地球(自然)がなしていることで
あり、我々はそこで試されているのではないか。

しかし、相当に本質からズレた現代人の意識は、地球が人類に与え
た自然災害という警告の中ですら、もう無理なのではないかという
声も聞かれる。が、私はこれは我々のズレた意識の照準を合わす良
い機会であり、地球が生き延びるためのより良き方法論としての地
球の最終の叫び声のように聞こえる。

何度も言うようだが「僕らの世界」はフラクタルという自己相似形
である。地球の自転は「僕らの世界」の日常生活(一日)と同等で
あり、その公転は一年分の日常生活と同等であると私は思っている。
回転することがこの宇宙の基本なら、「僕らの世界」の基本はまず
日常生活という回転をきちんと生き切ることである。

そこに意識の照準を合わせる。家族という社会の基本で、自己に与
えられた役割があるのなら、それを一生懸命その中で全うしてゆく。
そこが今の自分の確かな居場所だからである。生きていることを実
感し、体感、体得してゆく場所は、日常生活というテリトリーの中
でしか味わえないからだ。

ところが、現代人は情報化社会の無駄知識に翻弄されて、自己の欲
するもの(自己充足)が日常生活以外のところにあると錯覚し、日
常生活という基本を無視して、テリトリーの外へと関心を向け行動
に移すようになった。これがボーダーレスな世界を生みグローバル
化して、量的世界への方向性が生じた。(西欧型文明は産業革命あ
たりから量的世界に突入したのではないかと私は見ている。)

一見勝ち組のように見える量的世界の支配者達は、実は非常に自己
が空虚である。「僕らの世界」は質的世界がその本質であるために
、富を手に入れれば入れるほど、本質からますます遠ざかることに
なり(意識が本質からズレることとなり)、自己充足はできないこ
とになっている。

だから今以上に富を求めてグローバル化してゆき、量的世界を支配
しようとするために、必然的に格差社会が生まれるのである。また
、今日の管理社会もテリトリーの中で充足せずにおいて(基本を無
視しておいて)、すなわち、身体知(体感、体得)をせずにおいて
、物知り博士(情報化社会という頭脳知)であることを社会が「愛
」だと受容、錯覚していることから起こっている(多数決の論理は
質を問わないだけに方向性がズレるとずっとズレたままに向かって
ゆくから恐いことを我々は知るべしだ。)

管理社会についての詳細はここでは述べないが、結局我々の意識の
ズレが今日の狂った社会を誕生させたのは確かなようだ。だから、
地球が自然災害という形で我々の意識を矯正させ、少しでも本質に
同調させようとしているのだ。

今後更に増えるだろう異常気象による自然災害(地球の出力)を、
我々がどのように受容してゆくかによって、入力(結果)は大きく
左右される。だから各々がテリトリーの中で質的世界におけるより
良き方法論を体得してゆくしかないのである。

自然災害は表層的には物質的破壊という形で現れるが、深層部分で
はズレた意識を矯正してくれるその良い機会を我々に与えてくれて
いるのではないかと私は思うのだが。


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