2617.情報化社会は「トリビアの泉」の如し



おやおや                 猿マシーン
   
どうもお久しぶりです。
目を通していたら、いくらか疑問がでてきました。
質問させていただきます。

S子さん投稿にあるこの部分です

「西欧型文明が量的世界にあり、この世界の本質(質的世界)から
はズレていることが挙げられる」

これは納得がいきません。
ギリシャ文明以後、間違いなく欧州には「哲学」が存在しています。
世界とは何か?
個人とは何か?
他人とは何か?
など、挙げればきりがありませんが、膨大な研究がなされています。
様々な「哲学者」が文字通り「命をかけて」考えてきました。
西欧型文明の根底には間違いなく哲学が存在しています。
よって、質的世界とやらには日本よりも「近い」文明といえます。

実は、量的世界とは日本のことではないだろうか、と思う次第です。
日本人は死から離れすぎています。
真剣に生きようと思うなら、真剣に死について考察する必要がある
はずなのに、それは「許されて」いません。

他者がどのような存在かは「自己」が判断しているにしか過ぎない
のだから、他者とはあくまで「自己世界」の中に存在しているだけ
「かもしれない」。
一方で「自己」とやらも「他者」が存在しない限り「認識できない
」はずのものなのに、人は余りにも「他者」を尊重せずに「生きて
」いる。
この矛盾しがちで複雑な問題を「死ぬ気で」考えた人物は、日本に
は「ごく僅か」しか存在しない。

このような状況では「日本的精神」とか「日本的風土」「神」だの
何だのの「思考停止ワード」にすがりがちな国になる。

残念なことに、幸福も太陽も死も、あまりにも眩しすぎるので、
人々はそれを直視できないのだ 
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情報化社会は「トリビアの泉」の如し       S子   

> ギリシャ文明以後、間違いなく欧州には「哲学」が存在しています。
> 世界とは何か?
> 個人とは何か?
> 他人とは何か?
> など、挙げればきりがありませんが、膨大な研究がなされています。
> 様々な「哲学者」が文字通り「命をかけて」考えてきました。
> 西欧型文明の根底には間違いなく哲学が存在しています。

こういうことをきっぱりと言える猿マシーンさんは、正直凄いと思
います。私にはこのような知識は微塵もありませんので。

ところで、猿マシーンさんはこのことを御自身が実際に肌でじかに
感じとられ、それを体得し、心の底より大きくこのことを納得され
ているのでしょうか。。。

私を含めて大半の人は、知識というもののほとんどを書物やインタ
ーネット等の情報のツールで得ていると思います。でも、その知識
が本物(真実)であるのかどうかという確証はそこのどこにもない
と私は思っています。そこにあるのは「〜そうであるらしい」、
「〜そのようだ」というこちら側の思い込みや推測の域でしかない
と私は考えています。

この世界を受容、理解してゆくのは頭(知識、頭脳知)ではなく、
実は心(情緒、情感)であり、それを実感、体得(身体知)して
はじめて自分の知恵となって、心の底から納得できるものになるの
でしょう。そして、この知恵こそが生きる力そのものだと言えるし
、そこに到達し得てこそ生の実感をはじめて感じとることができる
と思うのです。

また、この知恵を体得するには「時間」がかかります。知識のよう
に短時間で手に入れられるものではありません。それに知識という
ものはすぐに得られても、またすぐに忘れられてしまいます。それ
は、その知識を頭では理解することはできても、肉体という身体が
まだその知識を受容するほどにまで発展、熟成されていないからで
す。

身体で理解できてこそ(心であるところの情緒や情感を実感として
素直に身体が受容できてこそ、身体は宇宙でもある)、その人に
はじめて納得できる知恵が備わると私は考えます。

今現在の情報化社会は知識で溢れかえっていて、肝心の生きる知恵
というものを軽視させる傾向にありますし、それは明白でしょう。
知識重視(可視次元重視)の知恵軽視(不可視次元への無理解)が
生じます。しかし、いくら知識があってもそれが生きる力や知恵に
直結しているかとは言いがたいです。全てが全てみなそうだとは言
い切れませんが、私見では今日の情報化社会は「トリビアの泉」の
如く、無断なものが多いということです。

その無駄なものに時間をとられて、肝心の生きる知恵がおろそかに
なり、日常生活がいい加減なものになります。私はそれを憂慮して
います。実は毎日同じことを繰り返す日常生活(回転)こそが、生
きる基本であり、そこで実感するものしか唯一のものはないわけで
す。日常生活で実感できるものこそが唯一納得(身体で体得する)
できるものです。

そして、この日常生活を生き切ることこそが、自己の位置確認とし
て一番ズレの少ない座標でもあるでしょう。「僕らの世界」はずっ
とタイムラグの中にあって、みなズレています。ズレているから「
僕らの世界」は存在しているとも言えます。

少しでもズレの少ないところ(それがテリトリーのもつ意味だと思
う)で生きるのが、各個人のより良い方法論につながってゆくと私
は考えています。私が上っ面だけの虚飾の愛に満ち溢れていると言
ったのは、「トリビアの泉」の如くのような無駄知識とも言える今
日の情報化社会であり、米国の先制攻撃や資本主義における実体な
き経済に代表されるように、「待つ」ことのできない人為的な姿勢
のことを言っているのです。

だから現代人は愛の本質をもう既に見失っていますよ。「待つ」こ
とができるのはせいぜいカップ麺のできあがる三分間だけという悲
哀ですから。

大分話がズレてしまいましたが、所詮、私もタイムラグの中に生き
ている人間ですから、私がここで述べたことは信用しないことです。
日常生活で実感できることこそが、この世界の唯一ですし、そこに
自己を生かし切ることから世界は開いてくるのだと思っています。
                        以上です。
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ロゴスと実相、根底を探る知          虚風老

実は、先に紹介した佐伯啓思氏の本について、読んで、感想を述べ
て欲しいと思って、頭にあったのは、F氏と猿マシーン氏のお二人
であったんじゃ。

この本は、「倫理としてのナショナリズム」という表題がついとる
が、<グローバリズムとアイデンティ>という意味合いが強く、
それがもたらす、社会的影響及びこれからの未来状況への影響と言
える論説じゃとおもう。
まあ、ワシが断片的に思っておったことが、ちょうど整理されとる
のでお題として、提示してみたんじゃがね。願わくば、読んで感想
してくださると、ワシの思考を深めてくださるので助かるんじゃが
の。

ところで、確かに日本人は「論理」で物事を処理するのではなく、
「情感」で処理する傾向があるとおもえる。
逆に西洋の思考の哲学−神学大系の底にはロゴス信奉があり、それ
が西洋思考=ギリシア(ギリシャ哲学)−ヘブライ(ユダヤ・キリ
スト教)思考を結びつける結節点になっておる。(といううより、
聖書を作る時に、「ロゴス」の観念が導入されたというべきかもし
れないが。。。)

西洋哲学で言語論が重要な役割を果たさざる得ないのも、認識とい
うものと実相との関連においてそれをどう捉えるかにあるんじゃろ
う。(唯名論・実体論の論争)

論理というのは大切じゃと思うが、論理の限界は、ゲーデルの不確
実性の原理を持ち出すまでもなく、注意しておくべきじゃろう。
論理は一極性を招き易いとおもえる。
しかしワシは、「一つの実体とそれを現わす相互依存・補完の二つ
の相」−そしてそれがもたらす多様と複雑性の世界という方がすっ
きり説明できそうな気がするんじゃがね。論理による矛盾が、克服
できないかも説明できるしの。
(上記の説明が「老子」由来であることはゆうまでもない)

次にこの考え方で社会構造と政策を捉えるとどうなるか話してみる。

                  虚風老


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