2616.「空」= signifiant  ととるとどうなるか



 河村さん、ご意見ありがとうございました。お返事が遅くなり申
し訳ありません。

 ジャン?ボードリヤールが亡くなったのに、昨日渋谷のブック・フ
ァーストには、とくに特集もなにもありませんでした。
 なんとなくさびしい気分がしました。記号論は、言語認識にとっ
て、実に大切なことをいっているのに。

 さて、河村さんのご意見では、空を「この世の中のものは、概念
はあっても、実体が特定できないことを意味しています」と扱って
おられますが、この場合、河村さんが「概念」というものは、記号
論における「意味されるもの(signifié)」を持たない、記号
論における「意味するもの(significant)」のみとして受け止めれば
よいのでしょうか。
(「概念」とは、意味するものと意味されるもののセットだと、理
解することも可能ですので、念のため、確認させてください。)
この場合、色即是空、空即是色は、どのような意味になるのでしょ
う。どのような意味をもつ教えとなるのでしょう。

「縁起」は、「時間的な連続性」あるいは「空間的な連続性」であ
ると語られています。たしかにそれも縁起のひとつの表れでしょう。
では、我々の目の前にある「ひとつの状況」(私はこれを縁起であ
るといいました)に対して、働きかけて、状況を変えるということ
については、どうお考えでしょうか。
ものごとは、すべて、時間的にも、空間的にも、連続しています。
しかしながら、すべてがすべての縁起が人間の判断抜きで、自動的
に決まっていくものでもありますまい。私は、縁起の中で、ごく一
部の、我々に関係のある、我々の目の前にあるものについては、自
己をうまく投入することによって、状況を、動向を、変えることが
できると考えます。
その可能性をより強調するために、「縁起」は、「空」という時間
の中で、自分たちの目の前にある、そして自分たちに関係性をもつ
(relevant)関数であると定義したのです。

 最後に「本覚」についてですが、山川草木はみな自然のままであ
るのに、人間だけが自然を改変した環境の中で生まれ育つ。そのこ
とにより、本覚から遠ざかる、だから修行が必要であるという考え
に、矛盾はないと思います。
 文明を、積極的なものと捉えがちであったことが間違いで、文明
は自然の中で生き残ることのできない人類が作り上げたアダプター
なのです。これが異常拡大したのが、現代ということができるでし
ょう。

 ご質問やご意見がありましたら、どうぞまたお寄せください。

得丸久文
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Re: 「空」= signifiant  ととるとどうなるか
From: 河村

得丸さん、晩くなりました。

インド旅行を終わられた後で、貴重な経験をされてこられたに違い
ない、とうらやましく思います。私のほうは、定年を過ぎているに
もかかわらず、仕事に追われ、経済的にも余裕がなく、専ら忙しい
日々を生きて行くだに大変であると言う感覚です。

従いまして、ジャン・ボードリヤール、何する人ぞ。そんな人の特
集を組むことなど、何が価値あることよ。庶民からかけ離れた哲学
を幾ら駆使しても、それは、学者の間では、話題性があることかも
しれませんが、庶民の幸福には役立たないし、庶民の目覚めにも、
なんら寄与いたしません。

大体、論理で汲み上げた理論など、一過性の論戦に役立つだけで、
この世界の真実を物語ることはありません。なかなか理解すること
の難しい、抽象的なものが、一体価値あるものでしょうか。理論の
以前に、現実は存在します。それは、圧倒的な現実であり、その中
で私たちは、嘆き悲しみ、苦しみ悶え、救いを求めざるを得ない状
況に置かれています。

宗教は、そういう現実の中から生まれ、そういう現実から人々がい
かに立ち直り、強く生きていけるように出来るか、そういう課題を
持って生まれてきているはずです。仏教においても、それは変わら
ないはずです。仏陀がインドに生まれ、教えを広めていた時、空と
いう言葉があったでしょうか。縁起と言う言葉があったでしょうか。
本覚という言葉があったでしょうか。

皆、後の人たちが、仏陀の悟りの内容が何であったかを求めて、思
索を通して作り上げてきたものに他なりません。そういうものは、
全て、私たちが思索を停止したら、なくなってしまうものです。
ある意味では、それは、目覚めてみれば、枯れ尾花であったという
類の、幻想的な幽霊のようなものです。

時代を風靡した思想も、その類のものに違いありません。恐ろしい
のは、幽霊のような思想によって、人々は動き、死活を賭けた壮絶
な戦いに挑み、生死を決してきた現実があることです。このような
幽霊のような思想から目覚めたとき、目の前にある枯れ尾花に当た
るものは、このように現実に存在している自分自身です。

それは、思想などとは、無関係な自分です。この厳しい現実を生き
ていかなければならない、自分しか存在しません。幻想的な夢を見
させていた思想は、全て「空」です。従って、「空」は、幽霊を意
味すると考えてもいいと思います。記号論、それも幽霊であり、空
です。思考をやめてしまったら、存在しません。その意味で、概念
は、幽霊であり、思考をやめてしまったら、存在しません。

思考を止めたとき存在するもの、自分を含めたこの世の物質的な存
在全て、つまり「色」は、固定的な実体がなく、「空」である、と
いうのが、「色即是空」ですが、それをそのまま解釈すると、「物
質的な存在は、つまり、概念」であるということになります。もっ
と言えば、「物質的な存在は、つまり、思考から生まれた存在」で
あると言うことになり、全ての存在が、思考つまり「心」により生
じたものである、ということになります。

仏教が、唯心論であるといわれる所以です。幻想から目覚めたとき
に存在を認めることができる、物質的な存在ですら、心が生み出し
た存在である、ということになります。これが、「空即是色」とな
り、つまり、空(心)が、色(物質的存在)を生み出す、という意
味になります。

ここから先は、信仰の世界になります。心つまり、心の最高地点に
ある「神の意志」が、物質世界を含めた全宇宙を作り出しているの
であり、神が思考をやめれば、全宇宙は、忽ち存在しなくなる。宗
教を持つか持たないかの分かれ目は、これを信じるか信じないかに
掛かってきます。

仏教では、創造神のことに直接触れることはありませんが、心の創
造性ということを、このようなお経などで、説いている限り、自ず
と宇宙創造神の存在を想定せざるを得なくなります。

議論をするつもりは、全くありませんが、「縁起」についても、ご
質問が出されていますので、私が考えていますことを、お伝えいた
します。「縁起」は、宇宙というひとつのものを、宇宙を構成する
個別の存在に分析して、その存在のあり方を考えたとき、個別の存
在間の関係を「縁起」という概念で捉えることが出来る、というこ
とのように思います。

個別の存在は、分析の仕方により、無限のあり方があり、それこそ
、概念の洪水のようになるでしょう。しかし、最も基本的な存在と
存在の関係は、1対1の関係で、男と女というひとつの関係のように、
陰陽の関係であるといえます。陽は、与える側、陰は、受ける側と
考えれば分かりやすいと思います。

男女関係を肉体的に考察すれば、精子を与える側と、精子を受ける
側ということが出来ます。また精神的な陰陽ということをいえば、
例えば、師弟の関係のように、思想、学説などが、先生から弟子に
授受されます。人間に限って考えても、人間の行動・思考を通じて
、物質や概念の陰陽間の流れが生じます。

これが、全宇宙を考えた場合、単純な1対1の存在間の関係どころが
、無限の関係の中でのダイナミックな動きとなります。また、ひと
つの存在が、陰になったり陽になったりして、他の存在と無限のか
かわりを持っていることも、想像されて来ると思います。

人間の分析力だけでは、宇宙のこのような無限のダイナミックな有
様を、把握しきることは出来ないでしょう。翻って、1対1の陰陽の
関係に戻って考えた場合、物質的な精子の種子は、男から女に流れ
、受け止めた女の中で、新しい存在を生み出して行きます。

同じように、師弟間の思想の流れは、弟子の中に受け止められた後
、弟子の中で育てられ、新しいものを生み出していくのが、一般で
す。従って、ここにおいて、弟子が師から受け取った種子をどのよ
うに育て、どのような新しい思想を生み出していくかは、当然弟子
の意志がそこに加わります。これを普遍して考えますと、大宇宙は
、陰陽の基本的な関係が縦横無尽に作り出す、無限にダイナミック
に変貌していく世界であるといえます。
従いまして、「縁起」は、この縦横無尽な宇宙に、メスを入れて、
陰陽の基本的な関係で再考しなおしたときの世界観といえるのでは
ないかと思います。

さて、最後に「本覚」ですが、「山川草木はみな自然のままである
のに、人間だけが自然を改変した環境の中で生まれ育つ」と言われ
ていること、これは、人間がこれまでに作り出したものに対する絶
望感から生まれた考え方のように思われます。「人間だけが自然を
改変した環境の中で育つ」といわれていること、これは、私は、考
え方が狭いのではないかと思います。「人間が自然を改変した環境
」も、大きな立場から見れば、自然の世界です。人間だけが自然を
離れて自然以外のものを作る、という考え方は、人間を、山川草木
より上に見た偏見ではないかと思います。

人間が文明を作り出すのも、自然が仕組んだ営みであり、人間がど
うこう言えるものではないかと思います。文明は、人間が作り出し
た自然です。山川草木の自然が、時には、猛威を振るい、大災害を
もたらすように、文明も、大災害をもたらすことがあります。従っ
て、自然と文明は、同列のものです。

得丸さんが、自然を、文明より持ち上げておられるのは、文明の害
毒に食傷をきたされた結果であり、反動的な反応に過ぎないと思い
ます。文明も、大宇宙が作り出した自然であり、大宇宙を彩り飾る
華に違いありません。それが、時には、毒花であったりするわけで
す。

宗教は、現に悩み苦しんでいる人々を救い、幸福をもたらさんため
に生じたものと考えられますから、不幸、悩み苦しみの原因を、無
明にあると判断し、この無明を解決するために、つまり本覚を得る
ために、修行ということが必要となるのでしょう。これが、仏教の
根本に思われます。

本覚は、山川草木の自然だけを自然と考える狭い見方ではなく、文
明という自然も取り入れて、毒花を咲かせないように、修行をして
いく中に得られるものであると考える必要があります。そして悟り
は、幸福を得るための正しい方法論に目覚めることでもあります。

1対1の陰陽の関係を基本単位とする縁起の中で、与える存在、受け
る存在、陰から陽に流れる種子、これらの三つの要素が、良好なも
のであれば、毒花は育たず、人類に幸福をもたらす、美しい花が咲
くに違いありません。しかし、そのような幸福も、この世の自然の
法則、生まれ、育ち、成熟し、やがて滅び消えていき、また新たに
生まれるという生々流転の掟は逃れることが出来ません。

この生々流転の世界も、神が、この世を存在させる意志を止めてし
まえば、忽ち全てが消えてしまう儚い存在であることも、事実なの
です。それが、空です。

最後に、仏教の根本思想であるといわれる三法印について、触れさ
せていただきます。
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静
「この世のものは、常に変化していて、何一つとして、一定不変の
ものはありません。この世のものは、何一つとして永遠不変の実体
を持っているものはないので、従って、永遠に自分の所有となるも
のは、何一つありません。このことを悟ったら、心の静まった安ら
ぎの境地に入ることが出来ます」

「縁起」は、ある意味で、この「諸行無常」を引き起こす原点にな
っているのではないかと思います。「空」は、この「諸法無我」の
根本原理となっていると思われます。「本覚」の結果が、「涅槃寂
静」ともいえます。

以上、解答になっているかどうか分かりませんが、私が考えていま
す、仏教について述べさせていただきました。

仏教につきましては、以前、私の書いた作品「真の人間」を読んで
いただきましたことがあります。あの時の皆様の反応には、正直言
いまして、私はがっかりしました。ああ、全く理解されていない。
書き方が、やはり、稚拙だから、理解されなかったのに違いない、
と思い諦めました。著者が、自分の作品の解釈をするのは、避ける
べきことだと思いますが、あの作品で、訴えたかったことが、何点
かあります。
1. ゲーテのテーマにした永遠の女性の意味の解釈
2. 男の悟りに介在する女性の存在の意義
3. 仏教の説く執着の実態と、それから脱するための方法
4. 真の人間の世界で示したかった涅槃(浄土系の宗教で言う浄土
   )の実体験
5. 失恋から脱出した先の目覚めの心境

以上のようなことを、あの作品で、表現したく思っていました。
もし時間が許されるなら、上記のようなことを、念頭において、再
読していただきたい気持ちは持っております。

河村 純雄


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