2606.本覚とは、生命記憶であった



本覚とは、生命記憶であった
続いて、天台教義編ですが、これは「本覚とは生命記憶であった」というものです。
これまた荒唐無稽なようにも取られかねないキワモノですが、お付き合いください。

***** 天台本覚とは生命記憶であった *****     得丸久文

 はじめに : どこに論点があるか
 現在容易に読むことのできる天台本覚思想に関する研究としては、岩波・日本
思想体系「天台本覚論」、およびそれに所収されている「天台本覚思想解説」
(田村芳朗)、袴谷憲昭著「本覚思想批判」のほかに、大久保良峻著「天台教学と
本覚思想」、浅井円道編・著「本覚思想の源流と展開」、またジャックリーン・
ストーンによる” Original Enlightenment and the Transformation of
Medieval Japanese Buddhism”がある。

 田村がひとことでまとめるように、「天台本覚思想にたいしては、現代の学者
のほとんどが堕落退廃の思想とみなしている。」(p541)
 実際に、上記の著作の中で、本覚思想を積極的に肯定するものはいない。袴谷
のように積極的に批判するのが主流である。

 源信作といわれている(ものの偽作の疑いのある)『真如観』には、「タトヒ破
戒無慙ナリトモ懈怠ヲダニセズバ、帯ヲセズ、臥ナガラモ、只須臾ノ間モ我身真
如ナリト思ハン計ヲ極メテ安ク憑シキ事ヤハアル」とあるほか、率直に「悪業煩
悩往生極楽ノ障ト思事ナカレ」や、「サレバ煩悩モ即菩提ナリ、生死モ則チ法身
ナリ、悪業モ則チ解脱ナリ」とある。

これらの文言が、堕落だ、退廃的だという批判を招いているのであろう。実際に
その時代の僧侶たちの生活態度が乱れていたという記録もあるだろう。高名な著
者の名を偽った可能性の高い文書を根拠としているところも、冷たい反応を招い
ていると思われる。

 ただ私は、上記の表現だけをもって、天台本覚の思想を堕落だと批判するの
は、必ずしも当たらないと考える。それらを破戒の勧めと受け取る必要はない。
むしろ、ひとりひとりの人間がすべて真如であり、仏性を獲得しているのだか
ら、多少の悪業や破戒は気にしなくてもよいといった意味合いにとるべきではな
かろうか。戒を守ることが本来であることは当然のこととして、多少の破戒は障
害にならないという重み付けがあると受け取る。

 一方で、田村は「ひるがえって哲理面を見るならば、天台本覚思想は、東西古
今の諸思想の中で最も究極的なものであるといっても過言ではない。それゆえに
こそ、日本中世の仏教界のみならず、修験道から神道、さらに文学界まで大きな
影響を与え、また摂取されたのである。」ともいっている。

研究論文だけ読むかぎり、この天台本覚の積極的魅力について、多分野に与えた
影響力について、十分な検討が行われているとはいえない。

 多くの研究は、『大乗起信論』にある「本覚」という単語からどのように発展
したかについて、中国の本覚概念と日本の本覚概念の比較、あるいは「本覚」と
いう単語を道元や日蓮らがどこでどのように使ったかといった文献学的な検討に
終始している。「本覚」とはそもそも何のことなのかという肝心要な思想の究明
や定義化は試みられていない。

 以下では、本覚思想とは何か、また、その一部を構成すると私が位置づけする
「空」の思想とは何かについて、簡単に論及する。

1 本覚思想の本質的部分が不明
(1) 法華経の中心概念である仏性
 まず、本覚思想は、法華経の中心思想である誰でもが仏になれるとする一乗の
教えに沿っている。「一切衆生身中ニ仏性アリ」(『真如観』)とし、「真如トハ
仏性ノ異名ナリ」とするから、本覚とは仏性であるということになる。

(2) 山川草木も成仏するとき仏性とは何か
 ところが、仏性を、釈尊のように悟ることとか、解脱することと捉えるとき、
「山川草木悉皆成仏」や「山川草木悉有仏性」、「諸法実相」、あるいは「だか
ら草木瓦礫山河大地大海虚空が全て真如であるならば仏でないものはない」
(「天台本覚論」、P134)といった言葉をどう理解すればよいのか途方にくれるこ
とになる。草も木も、修行しないばかりか、お経ひとつ唱えるわけではない。
 心なき草木も法をとくなれば
花もさとりをさぞひらくらん
 この和歌に歌われていることは真実であるのか。そもそも「本ヨリ覚ル」と
は、いったいなんのことをいっているのか。

さらにいえば、悟りとは、仏法とは何か。煩悩即菩提、生死即涅槃、悪業則解脱
をどのように理解すればよいのか、困ってしまう。
 すべての論者は、この問題と取り組むことを避けている。だが、この核心部分
を論ずることなく本覚思想を論ずる意味はない。

2 自然が法であり、文明が逸脱である
 紙数の関係で思考過程や詳しい説明は省略するが、遺伝子解析の結果、地球上
のすべての現人類が、南アフリカ出身であることが確認された。
ヒトとは、南アフリカの洞窟生活によって毛皮がなくなり、自然の中で生活する
ことができなくなったサルである。「人間が住めるように自然を改変すること」
が文明(civilization)という言葉に一般的に込められている意味である。ヒトも
含めた文明は、残念なことに、自然の反対概念として、ときとして自然と敵対す
る関係をもつ概念として、存在している。

 また、洞窟生活の中で対面性交を行うことによって発語機能を獲得し、南アフ
リカに落ちた巨大隕石の影響による磁場異常によってか、意識上に概念機能を獲
得したヒトは、言語の使用を始めた。これは文明や文化の発展に大きく寄与した
が、一方で死後の世界や将来に対する不安を生み、人類を苦しめることになった。
 
 私は、思想としての仏教が真理を獲得した最大の要因は、自然の中の遊行や瞑
想であると思っている。ネパールや日本という聖地が与えた影響もあるだろう。
遺伝子解析や地質解析をしなくても、釈尊や最澄や道元らは、自然に落ちこぼれ
た人類文明の地球的な意味を直観していたのではないだろうか。これが仏教の悟
りではないかと思う。

 ヒトの卵子は受精すると、メスの子宮の中で細胞分裂して、五億年の生命進化
の歴史を三百日の間に繰り返す。いわゆるヘッケルの法則、「個体発生は系統発
生を繰り返す」である。

そう考えると、人間は生まれたときには、生命の記憶を宿しているといえる。こ
れが本覚である。
残念なことに、生まれた後は、不自然な文明環境の中で、どんどん生命の記憶を
失って、欲望と杞憂と愚考など不自然な頭の使い方と、食べすぎで運動不足の不
自然な体の使い方に染まってしまう。

頭も体も文明の汚染から自由にしなさい、野生の動植物のように生きなさい。こ
れが仏教の悟りではないか。
 こう考えると、山川草木はあるがままで悉皆成仏できるのに、人間だけが修行
し戒を守らないと成仏できないということの理由が明らかになる。

3 空は本覚の一部をなす時間概念
(1) 空は一瞬
 二月の修行の際の教学の時間に、今井長新住職より空についてご説明いただいた。
空は「実体がない」ということの意味は、今目の前にある鋳物の風呂釜も、百年
前は鉄鉱山に鉄鉱石として埋もれていたかもしれず、また、百年後には溶かしな
おされて別の存在、たとえば鉄道線路や自動車の車体になっているかもしれな
い、ということだという。

空は、有無を論ずる存在概念ではなく、時間の変数に伴って後戻り不能に変化す
る時間概念だということになる。
それこそがまさに、アンベードカルが「ブッダとそのダンマ」の中で説いている
ことだ。
「人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容易く
ない。
『これはいかにして可能か?総てが一時的であるが故に可能なのだ』とブッダは
いう。これが後に“空観”と呼ばれる理論を生み出したのである。仏教の“空”はニ
ヒリズムを意味してはいない。それは現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味し
ているにすぎない。

総てのものが存在しうるのはこの“空”故であることを解するものは極めて少な
い。それなくして世界には何ものも存在しえないのである。一切のものの可能性
が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なのだ。
“空”は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。」
“空”は、時間概念であり、数学的に表現するならば「空」とは「Δt (時間の最
小変化量)」ということができる。

人間は一般に短い時間を過大に評価し、長い時間を過小評価する傾向があるとい
う。中間には過小評価も過大評価もされない、正しく判断される時間の長さがあ
る。これは無記時間と呼ばれて、心理的時間の基本単位と考えている人もいる。
測定法や実験条件によって値は変動するが、無記時間は0.5秒近辺にあるという
結果が多く得られている。

この0.5秒の無記時間が空であるといえる。百億年の宇宙の歴史も、四十五億年
の地球の歴史も、二千年の国家の歴史も、百年足らずの我々の人生も、すべてこ
の0.5秒( 空)の積み重ねでしかないということを、肝に銘ずる必要がある。

(2) 縁起は目の前にある現象
 さて、この宇宙、世界で起きている現象の中で、我々が関与できるものは、我
々の目の前にたち現れるごくわずかな現象でしかない。それを縁起という。
 目の前に現れるひとつひとつの縁起に、それぞれどのように関わるかが、我々
がこの世界と関与することのできる唯一の方法である。

 持ち時間は0.5秒。その中で状況を認識し、正しく判断し、正しく自分の体を
動かして行動する。野生動物なら誰でもやっていることだが、とっさのときに正
しく判断し、タイムリーに行動できる人間はどれだけいるだろうか。
 たとえば、あなたが交番に詰めている警官で、保護していた自殺志願者が線路
に飛び出したとき、あなたはどのように振舞うことができるだろうか。あるい
は、あなたの乗っている自転車が、別の自転車にぶつけられたために、目の前に
いる乳母車にぶつかりそうになったとき、あなたは乳母車の中の赤ちゃんが怪我
をしないように避けることができるだろうか。

 0.5秒を笑うなかれ。たかが一瞬、されど一瞬である。ときとして、その一瞬
が生死を分けることがあるのだ。
 空という一瞬の中で、精一杯の情況認識と判断と行動をとること。それが空と
縁起の教えではないだろうか。
 野生動物ならば、そんなこと本能の一部になっているという点で、空と縁起も
本覚の一部を構成する。

野生動物であったら、あえて訓練する必要もない。だが、文明生活の中で本来の
覚りも身体の動かし方も忘れてしまっている人間がそれをできるようになるため
には、日々の修行と持戒が必要になるのである。
(終わり)
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Re: 本覚とは、生命記憶であった
From: 河村     

得丸 久文様

ご無沙汰しております。

長い疎遠の後、突然、音信に踏み切りましたのは、得丸様が仏教の
勉強をされていることに接し、それが終わりに近づいたことを知り、一言添えて
みたくなり、沈黙を破る誘惑に駆られたからです。勝手な介入をお許しください。

先ず、いろいろな人の「空」の解釈に興味を持ちました。皆違っているような気が
しました。「空」は、この世の中のものは、概念はあっても、実体が特定できない
ことを意味しています。たとえば、「長良川」と言う川があります。しかし、この
言葉で、何が特定できるでしょうか。ある人は、鵜飼が行なわれている長良川を思
い浮かべるでしょう。ある人は、恋人とその岸辺を歩いた長良川を思い出すで
しょう。

長良川は、その源流から、海に注ぐまで続いています。しかし、長良川と言うも
のを、
これが長良川といって示すことが出来るでしょうか。仮に示すことが出来たとし
ても、
それは、長良川のほんの一部に過ぎません。とても、長良川を示しきったことにはな
りません。「得丸久文」と言う人間がいます。ある人はこの名前を聞くと、商社マン
だったときの得丸さんを思い浮かべることが出来るでしょう。ある人は、鷹揚の会で
発言している得丸さんを思い浮かべるでしょう。ある人は、母親のお乳を飲んでいる
得丸さんを思い出すことが出来るでしょう。ある人は、縁起でもありませんが、遺影
となっている得丸さんを思い浮かべるでしょう。ですから、「得丸久文」という、
存在が強固であるはずの人物であっても、これが、「得丸久文」と言うものを、示し
きることが出来ません。これが「空」です。「色即是空、空即是色」と言う言葉も、
「実体のあるものは、実は、実体の特定できないものであり、実体の特定できないも
のは、実は、実体のあるものなのである」と言う意味になり、「色」即ち、実体
のある
と見えるものに執着することは愚かであり、また、実体を特定できないもの「空」
に相当する概念に執着することも愚かであることを説いています。

次に、「縁起」ですが、この世に存在するもの、何一つとして、単独では存在し
得ない
ことを意味しています。時間的に見ても、空間的に見ても、どの存在も、単独では、
存在しえていません。親が存在するから、自分が存在し、自分が存在するからこそ、
自分の子供が存在するという時間的な連続性。地球に海があるから陸があり、陸が
あるから海があるという空間的な連続性。概念的にも、トップがあるからラストが
存在する、ラストがあるからトップが存在するなど、すべてが、存在と存在の関係
性の中にあることを意味しています。

最後に、「本覚思想」です。最澄が説いた本覚思想は、彼の焦りから生まれた思想で
あると言えます。当時の宗教的な論争の中で、天台の優位性を強引に主張するため、
このような焦った思想が生まれてしまったと言えるのではないかと思われます。
すべて
の存在が、仏性を持っている、それは、正しいでしょう。しかし、その存在が、何故
このように悩み、苦しみながら、悟りを求めて努力をしているのでしょうか。そ
れは、
やはり、悟っていないからだと思います。すべての存在が生まれながらにして、既に
悟っていたなら、人間が悟りを求めることもないでしょう。最澄の思想には、こ
の実体
を捨象してしまった矛盾があります。それは、彼の焦りが、このような矛盾を犯
させて
しまったと言えるのではないかと思います。

人間と山川草木を区別して、山川草木は、修行をしなくても、成仏していると説
くこと
の中には、矛盾があります。同じこの世の自然の中に生息する存在ですから、人間も
山川草木と同じ自然の存在であるはずであり、人間が思考することも、自然が仕
組んだ
営みであると考える必要があります。それが文明と言う不自然なものを生み出す。
そして人間の意志によって、素晴らしい文明も、どうしようもない文明も作り出
すこと
が出来る。それも、自然が仕組んだ大きな営みである、と考えなければ、人間だけを
特別視することになってしまいます。この辺に、得丸さんの矛盾もあるような気
がいたします。

以上、突然、お便りすることとなり、失礼いたしました。遂、出すぎたことを書
いてしまった
感じもいたします。お許しください。

今後も宜しくお願いいたします。

河村


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