2605.最澄は比叡山だった



最澄は比叡山だった
From: Kumon Tokumaru

この一年、仏教の勉強をしてきましたが、いよいよ最後のレポート、
天台教祖伝と天台宗の教義についてのレポートが仕上がりました。

 教祖伝は「最澄は比叡山だった」、ヒエーッという内容ですが、
お付き合いください。


***** 最澄は比叡山だった ***** 得丸久文

 日本の仏教が宗派仏教化し、各宗の中がさらに各派に分裂しているときに、天
台宗は本山が比叡山ひとつしかないという凝集性をもつ。この凝集性の秘密は、
伝教大師最澄が比叡山として今も生きつづけているからではないか。
 比叡山こそが天台宗の象徴であり、最澄というお方も、もしかすると比叡山が
人格化してこの世に現れたのではないかとも思うので、課題である宗祖伝のテー
マを比叡山としたい。

1 比叡山について
 景山春樹著「比叡山」(角川新書、1966年)によれば、比叡山はおよそ250万年
前に日本列島でおこった地殻変動によって、東側の近江盆地、西側の京都盆地が
陥没して土塁状に取り残された地塁山地である。
陥没しなかった部分が、自然の風化作用によってえぐりとられ、五つの峰といく
つかの尾根を頂点とする山肌の褶曲が生まれた。地理学者はこれを地殻の輪廻と
よぶが、大地も悠久壮大な時限の中で生成変化している。
夏は太平洋から吹きつけるモンスーンによって、冬は大陸からの冷たい季節風が
日本海の海水を蒸発させて運んでくるために、比叡山は四季を通じて雨量が多
い。そのため全山がうっそうとした樹林につつまれていて、それが霊山としての
高い品格や、聖山としての神秘性をあたえてきた。
「湿気がひどくて寒冷な山房に籠居し、清貧にあまんじつつ、法華経の論議に精
だすことを心がけるべし」という最澄の垂訓「論湿寒貧」は、比叡山という環境
抜きには語れない。
 比叡山の名が最初に出てくる文献は『古事記』であり、「大山咋神、またの名
は山末の大主神、この神は近つ淡海国の日枝の山にます」と、日吉社の神体山を
名ざして、そこにはじまった古代信仰のすがたを記している。
 奈良時代に編集された『懐風藻』に「近江はこれ帝の里、稗叡はまことに神山
なり。山は静かにして俗塵寂まり、谷は閑かにして真理を専らとす。ああ穆たる
我が先考、独り悟って芳縁を闡く。宝殿、空に臨んで構へ、梵鐘風に入って伝
ふ。(略)」という五言律詩が掲載されていることから、すでに奈良時代には修験
行者がはいりこんで、修行のための草庵を営んでいたことがわかる。

2 最澄と比叡山
(1) 受戒まで
 最澄の父は三津首百枝とよび、非常におだやかな教養のある人で、土地の人か
らも敬愛され、その一族もたいへん仏教信仰に厚く、教養の高い人たちであっ
た。父は、「礼仏誦経」を日常とし、のちには私宅を寺として精進勤行につとめた。
 子供のいなかった百枝夫妻が、数日間比叡山日吉社のあたりに草庵をたて、よ
い男の子に恵まれることを祈ったところ、夫人の夢のなかに『好相の児』を感
じ、やがて広野(最澄の幼名)を生んだとされる。神護景雲元年(766)8月18日のこ
とであった。
 夫婦の祈願や母の夢が実話かどうか確かめようもないが、最澄が比叡山のすぐ
近くで生まれたことは間違いない。
 最澄は七才で手習いを受け、十二才で近江国分寺にいた行表の門に入って修学
の途に入るが、受戒こそ南都東大寺戒壇ですませているものの、僧帳への登載は
近江国分寺であり、入唐求法の期間を除くと、生涯を通じて比叡山の近くを離れ
ることはなかった。実は私は『比叡山』を読むまで、受戒が東大寺だったから、
修行も奈良で行ったと誤解をしていた。

(2) 入山
 最澄の受戒は延暦四年(785)4月6日であるが、比叡山への入山はおなじ年の7月
17日であった。
 最澄は何を考えて、せっかく受戒を受けて、近江国分寺の僧帳に登録された身
分を捨てて入山したのだろうか。私は、何も考えることなく、ただただ自然に山
に戻っていったのではないかと想像する。比叡山の人格化として生まれた最澄に
とって、修行が終われば、山と再び一体化するのが当然のこととして意識されて
いたのではなかろうか。(この年に近江国分寺が火事で焼けたという記録がある
ので、その影響もあるのかもしれないが)
 入山にあたって最澄は、まず、父百枝が最澄をさずかったときに建立した、坂
本の日吉社神宮禅院に詣でる。それから大宮川の渓流沿いに登り、途中の落合か
ら一支流を左にとって山上の虚空蔵尾という場所に達し、草庵を建てた。
比叡山寺、日本天台教学は、このとき始まり、後に最澄が表した「山家学生式」
にいうところの天下国家のために大乗菩薩僧を養成する機関へと発展するのである。

(3) 最澄没後の発展
 比叡山がもつ霊力は、最澄没後の日本天台の発展の基盤および原動力となって
いる。
円仁門下の相応(831-918)が、奈良時代以来の伝統的な修験道をとりいれて整備
大成し、一種独特の山岳遊巡の法としてあみだした回峰修験は、今日もなお実践
されている。
また、一乗、理即、諸法実相、山川草木悉皆成仏・山川草木悉有仏性、そして煩
悩即菩提、生死即涅槃といった絶対的な現状肯定の思想であり、地球上のすべて
の生命を時空を超えてひとつとして認識する、大乗仏教の究極といえる天台本覚
思想も、比叡山のもつ霊力を抜きにしては考えられないものである。

おわりに:
 比叡山のもとで生まれ、比叡山内で一生を終えた最澄は、比叡山そのものとし
て、今も生き続けているのではないか。それが天台教団の凝集力の秘密ではなか
ろうか。
 最澄はまだ生きておられる。
だとすれば、「仏の戒によって酒を飲むなかれ、たとえ薬用であっても」という
言葉は、遺言というより、生身の師の教えである。この言葉をあらためて自分に
言い聞かせることにして、本稿を終える。
                終わり
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いのちの営み 田畑の営み
From: MY 
静岡新聞より 2007/1/29 夕刊
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自然農・栽培の手引き
「いのちの営み 田畑の営み」 鏡山悦子 著 
               川口由一 指導監修
ページ数 213 2000円 
電・ファクシミリ 092・325・0745
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 通信社情報かと思われますので、全国的にすでに既知?!
著者による野菜他のイラストが良いです。



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