2601.インドとヒンズー教



現在のインドでは、仏教の影響は、ほとんど感じられませんが、見
聞きするものから宗教なり生き方の根本を問われているようです。
急激な経済成長で交通渋滞の激しい市街地や観光地へは、出かける
時間は少なかったのですが、北部のヒマチャル・プラデーシュ州と
、西部のマハーラーシュトラシュ州のダム工事の現場や東部のジャ
ールカンド州の研究都市ダンバードを訪れインドの人たちとの仕事
での会話を通じて感じたことを雑記します。
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遠来の客には聖水を出す風習があって毎回到着時に水がでる。生水
には要注意をしていたので好意を無視して紅茶のみいただく。
いずれも話好きでこちらが話すと十倍返ってきて受身となりがちと
なる。

さすが山村部では、日本人は珍しいようだが、会食中には日本のこ
とが話題となりアジアのリーダーと賞賛し、日露戦争勝利の話がで
る。戦後の経済復興も話題になる。研究都市ダンバードではDrが
沢山顔を出し、日本には興味があってもっと知りたいが言葉の障壁
があってどうしても英米からの情報ばかりになると語り日本に対す
る知識は表面的であった。理数系は相当強いようだ。

インドは、貧富の差、宗教、言語、部族などいろいろなものが混沌
としたカレーのルーや具のような混在した地である。10億を超える
人口は、産児制限政策をやめているので数年先には世界一になる。
道を歩くとき視界から人が消えることはなく常に猥雑さと喧騒に満
ちている。道路工事も人力で女子供が手伝っているとおもえば、空
港やホテルでみるビジネスエリートはみな携帯電話で話しながら走
り回っている。朝早くから遅くまで実に良く働く。中国のように将
棋をやったり太極拳をやったりして仙人のようにのんびりするもの
は見かけない。富豪も貧者もとにかく燃焼し尽くすまで働くようだ。

そのなかで牛だけが悠然と道を歩いている。乞食のように物乞いす
ることもなくどこの家へもはばかりなく首を突っ込んで餌を食べて
いる。誰も咎めない。豊穣をもたらすシバ神を乗せている神聖な動
物なので大事に扱われている。肉は食せないが牛乳はよく飲まれて
いる。この国で一番幸せなのは、牛であると思う。

インド人の80%を占めるヒンズー教は、多神教的に見える一面が
ある。シバ神、ヴィシュヌ神、カーリー神など多い。しかしそれら
の神々は一つ一つ独立したて存在するのではなくいわば宇宙そのも
のある唯一・至高の存在が個々の神格の形をとって現れたものと考
えられている。さらに進歩的なヒンズー教思想はその至高の存在が
ほかのどの宗教にも共通するものとみなし、「いくつもの川が流れ
こそ違っても、やがてひとつの大海に注ぐように、すべての宗教が
目指すゴールはひとつ」とする。
排他性はなく全てを飲み込む。

ヒンズー教は特定の開祖、聖典をもたず教団として組織されてもい
ないが、基本はこの至高の存在への信仰であり、また日常生活でも
カーストを守り、特有の儀礼・風習を続けることを法(ダルマ)に
している点で共通性をもっている。宇宙の根本原理・万物の本体で
あるブラフマン(梵)と自我の本質アートマン(我)との一致(梵
我一如)に達すること、すなわち輪廻から解脱することを理想とす
る。苦行、ヨーガ、バクティー(神への無条件に自らを委ねること
)などの方法でその境地を追求する。

ヒンズー教の教えのせいか、自己が真理である。仕事、会議を通じ
て自己主張の強さを感じる。会議をしていても黙っている人は一人
もいない。話が終わらないうちに、話し始め別の人が口をはさんで
もお構いなしである。勝手に携帯電話で話していてなかなか集中し
ない。これも個人こそ宇宙であって自分は全ての中心だとインド人
は信じているといわれる。纏まらないと心配するが会議は不思議に
目的を達して終わっている。

ヒンズー教の教えは、「業」と「輪廻」は、“現世が人生の全てで
はなく前生、現生、来生とつながったごく一部に過ぎない。現在の
自分は前生の業であり、来生の自分が決まるのは今の生き方による
”という。だから貧困や苦痛も「来世願望」にすりかえられる。

エレファンタ石窟地でのガイドが、神について面白い説明をしてい
た。3面の顔をもつシバ神像があった。神のことを英語でGODという
がこれは3つの面をあらわしている。GはGenerateすなわち創造。
OはOperation  DはDestroy破壊を表すものという。ここでの
Operationとは人生だろうか?

ヒンズーのいくつかの神のうちシバ神は、破壊と再生をつかさどる
神である。ナンディという牛にのっている。ヴィシュヌ神は温和と
慈愛の神である。ブッダもヒンズー神の一つでヴィシュヌ神の化身
とされているがカーストを否定した異端者とされている。

人生の苦悩を痛感し、解脱への道を求めて菩提樹の下で瞑想を続け
たブッダがついに覚ったこととは“人間がなぜ存在するのか、また
どのように生きればよいのかという疑問への答えなど、透き通った
水の中にあるもののようにはっきりとその人には見えたであろう覚
り”の内容は、四諦八正道としてまとめられ仏教がひろまり多くの
人の心の支えになったという。しかし、今のわが国での仏教は、
我々との関係は形式ばかりで教えの内容は乏しいと思う。

インドへ行かれた方同じことを感じませんでしたか?
小川


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