5671.縄文人のDNAから古い人種であることがわかる



縄文人の核DNAを調べると、周辺の人種とは明らかに違い、周辺の人
種より古い人種であり、その縄文人と中国南部から来た弥生人の混
血が、現代の日本人となっていることが分かり始めている。

縄文人は「東アジア」「東南アジア」の分岐よりも前にすでに分岐
が始まっていたという。縄文人は、より古い時代に日本にやってき
て独自の文化を作った可能性がある。

縄文人のDNAはアジアのどこにも見つからないもので全く新しい場所
から発生している可能性があり、ユーラシア大陸のどこからやって
きたのかもわからず、調査も振り出しに戻ってしまったという。

考えられるのは2つで、
・非常に南北に広い日本列島にいろんな数多くのDNAが混血し全く新
しいDNAを作った可能性

・アフリカ大陸からまだ知られていない全く未知のDNAが縄文人とし
て存在した可能性:私はこちらであると思っている。
なぜなら、日本書紀・日月神示などの記述はそうなっているし、そ
れが、そろそろ明らかになると述べている。もう1つ、古い人種と
して、ユダヤ人も指摘されている。

縄文人の体質の特徴は以下のようになる
・シミになりやすい
・耳垢が湿っている
・くせ毛
・二重まぶた
・ウインクができる(ウインクするときに口が動かない)

今でも、縄文人の痕跡が各所にある理由は、日本人の中に縄文人の
血が色濃く残っているからである。霊的日本が作られている理由で
ある。しかし、現在、欧米や中国人的な考え方が跋扈して、余りに
もこの霊的な部分がなくなってきたことで、問題解決能力がなくな
っている。

日本人が持つ縄文人の霊的な力を使い、問題を解決することである。

さあ、どうなりますか?

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縄文時代を骨相学から語る〜どこからも縄文人は来なかった 
田野健 HP  
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=308364&h_d=1499&m_d=f553
2105年5月に刊行された片山一道氏の「骨が語る日本人の歴史」とい
う書籍を最近購入したが、この著書は歴史学といった先入観を排除
して発掘された人骨という事実情報だけを元に縄文ー弥生ー日本の
歴史を紐解いている。従来の教科書的歴史が扇動的で事実は別の処
にあるという論点を多分に提起しており、非常にユニークで説得力
のある著書だと評価できる。
 いくつかこの本に書かれている「事実」情報をるいネットにも紹介
していきたい。小見出しが非常に魅力的なのでそこと併せて紹介し
たい。
 非常に文学的な表現の中に氏が提起したい事実情報が散りばめられ
ているので注意して読んでほしい。
 【縄文人は日本人の基層をなす】
 縄文人の系譜と血脈、暮らしと文化、習俗と気質のようなもの、
などなど、彼らの生き方と死に様はのちの日本人とアイヌ人たちの
基層をなしたことだろう。大河の源流のようにして、のちの日本人
の歴史の中で脈々と流れてきたのは間違いない。
 彼らの人物像も生活像も独特ではあったが、どこからか特定の人々
が「縄文列島」にやって来たからそうなったわけではない。まだ陸
続きに近い状態だった旧石器時代に、東アジアの大陸方面から「吹
きだまり」のように集まってきた人々が混合融合し、豊穣な自然に
恵まれた「縄文列島」という舞台で、新しい革袋のなかで新しい酒
が醸成するようにして、新しい人々、つまりは縄文人が形成されて
いったのである。その意味で「どこからも縄文人は来なかった」「
縄文人は日本列島で生まれ育った」のである。そんな逆説的な言い
方も可能なのではあるまいか。
 地球の温暖化による「縄文海進」の結果、日本が列島化した縄文時
代には、まるで時間が停止したように、緩やかに静かに流れていっ
たに違いない。大陸世界とは、ほとんど没交渉だった。だからこそ
、異貌異形の縄文人なる人々が生まれることになり、独特の人間の
営みが育まれたのであろう。
 縄文人はことに恵まれた海産資源のたまものなのか、次第に漁労活
動に長けることになり、世界で最古の優秀な漁労民となった。だか
らこそ、世界に類をみないような貝塚生活が定着、派手な土器文化
が栄えたのではあるまいか。土器類は「第二の胃袋」としてあるい
は生活や文化、あるいは儀礼活動や交易活動などでの象徴的な存在
となり、縄文人の生活を彩った。
 もちろん、せいぜいのところが20万人ほどの人口規模でしかなかっ
たのだから、なにも漁労活動に特化する必要はなく、採集民、狩猟
民、園芸農耕民でもあり続けた。だがいかんなく生活の知恵を磨か
なければならない漁労活動に長じるにつれ、縄文人の「なんでも屋
稼業」は、よりいっそう磨きがかかったものになり、ユニークな装
いを帯びるようになったのではなかろうか。
 いずれにせよ、縄文時代とは、豊かな気候条件と生態条件に恵まれ
た時代。縄文人とは生活の知恵と知識を高度に磨いた日本列島なら
ではのユニーク人々。縄文文化とは、ことに土器文化や漁労文化な
どを見事に開花させた生活の総体。日本人の基層にあるメンタリテ
ィーや心象風景が息づいた時代なのだ。こうした時代を有していた
事を、もっと日本人は誇りにしてよいのではなかろうか。

著書「骨が語る日本人の歴史」の内容を紹介したい。(文章転載は
大量の文字数になるので、抜粋する事をお許し)
 【ありがたき哉、貝塚遺跡】
 日本列島の各地に散らばる貝塚遺跡はありがたい。縄文人の痕跡を
守護する。そもそも貝塚は当時の海岸線沿いに分布していたのだが
、今の海岸線からは奥まったところ、一段高い丘のような場所にあ
る。一般に縄文後期に気候が温暖化して海岸線が海進現象で後退し
たためである。
 貝塚は海砂に覆われる。そこに人為的に集めた貝殻が多く堆積し、
炭酸カルシウム分が優勢で土壌の酸性度が弱くなる。それによって
人骨、動物骨の保存状態が非常に良い。出土する人骨の数は膨大な
数(全国で1万人以上のオーダー)に上り、後のどの時代人にもま
して縄文人については多くの事をしることができる。人口は希薄だ
ったのに大量の亡骸が残っている。
 貝塚はゴミ捨て場のイメージとは程遠い。生活廃棄物が捨てられて
はいるが、集落の中心をなす生活空間であり、儀礼の場であり、死
者を葬る墓場でもあった。
 【縄文人の骨相、人相を探る】
 縄文時代の人々、縄文人とはいったいどんなタイプの人だったのか?
どんな顔立ちや体形を特徴としていたのだろうか。保存性の高い貝
塚で守られた事で、1万体に上る人骨から世界の石器時代人のなか
でもいちばん詳しく調べられている。そして、多くの特徴がある。
 まず骨格が全体に骨太で頑丈であり、ことに下肢の走行筋、租借筋
などの筋肉群の付着部がよく発達していた事は特筆に価する。中世
や江戸時代人とは容易に区別できる。大腿骨や上腕骨などの下肢や
上肢の骨はむしろ小さめでコンパクトだが、その重量感はなんとも
言えないほど頼もしい。頭骨はさながら鬼瓦のようである。
 頭顔骨も独特である。寸詰まりの大顔もさることながら、もっとも
特徴的なのが、きわめて大きくて強くカーブした前に突き出る鼻骨
。それとともに強くエラの部分が発達し、全体に厚く大きく頑丈な
下顎骨である。かなりの「鼻骨顔」であり、かなりの「あご骨顔」
である。
 なぜ縄文人の骨格はかくもユニークなのか。たしかなことは「氏」
の問題ではない。「育ち」の問題なのだ。なにも特別な系譜に連な
ることではなく、彼らの独特な生活活動と生活基盤、つまりは生活
の総体にこそ理由がある。
 【縄文人の身体ー顔型と体形】
 縄文人は鼻と顎が特徴的である。鼻筋の通る出鼻大鼻、エラの張る
受け口気味の下顎が2大ポイント。それに加えてとても寸の詰まっ
た彫の深い横顔、おもわずのぞきこみたくなるような顔である。眉
間が盛り上がり、目許がくぼむ奥目で鼻が高くそびえるから、とて
も顔の彫が深いのである。
 後頭部が「絶壁頭」を為す者はおらず、たいていは「才槌頭」額の
円くて広い「おでこ顔」は女性でも少なかった。ともかくユニーク
な顔立ちである。平均身長は成人男性で158cm、女性では147
cmほどしかない。身長が低いわりに腕や脚は長めの体形であった。
脚の長さの身長に比する率は52%、最近の日本人と変わらず、他
の時代と比べると大きい。肩幅は細目ながら、腰まわりは大きめだ
った。それにより下肢の筋肉が発達していたからかなり均整が取れ
、まるでクロスカントリーの選手のような体形だった。現代人に比
べたら、女性のほうも筋肉質、ことに下半身が頑丈だった。
なぜ縄文人の骨格はかくもユニークなのか。たしかなことは「氏」
の問題ではない。「育ち」の問題なのだ。なにも特別な系譜に連な
ることではなく、彼らの独特な生活活動と生活基盤、つまりは生活
の総体にこそ理由がある。
 この理由につながる話を紹介しておきたい。
 【縄文人のユニークな特徴】
 縄文人の身体パーツについてユニークさを物語る特徴を挙げるに、
外耳道骨腫という現象がある。これは耳の穴の回りにある鼓室板の
一部が瘤のように膨らむ現象である。「骨腫」とは書くが病気の類
ではない。良性の骨変化、骨の膨らみである。現代人でもサーフィ
ンやダイビングを盛んにする若者に多発する事がしられている。サ
ーファー耳とも言われている。
 素潜りをする海女さんにも高頻度で出現することが報告されている。
 耳に水がたまり、それが蒸発、外耳道が冷却刺激を受けて鼓室板が
完成する青年期に生じるのである。
 そんなものが縄文人の間で高い頻度でできていた。もちろん地域ご
とにあるいは遺跡の立地で異なるが、男性骨で20%、女性骨で12
%ほど、全体で17%の出現率を示した。これは驚くほどに高い値
である。
 ニュージーランドのポリネシア人でマリ族やペルー沿岸部の人たち
で世界一高い頻度で認められると報告されているが、おおむね縄文
人骨でのものと同じレベルである。
 縄文人がかくも外耳道骨腫が多発していたことは、縄文人が漁撈な
どの水界での生活活動に励んでいたことを、なによりも雄弁に物語
る。おそらくは素潜り漁、海藻類などの採集、波かぶりの小船での
釣り漁などが盛んだったのだろう。 
野口氏の著書「骨が語る日本人の歴史」には弥生人の事も克明に書
いてある。縄文人が地域差や時代差が極めて少ないのに対して弥生
人は地域差も時代さも激しい人種のミックスした総体を為すという
。所謂、縄文人は存在するがそれに対応する弥生人はいないのであ
る。
 引き続き本編から紹介したい。
 >前章で縄文時代の人々を語るときにたんに縄文人としたが、弥生
時代の人々については、いわゆる弥生時代人との意味合いで「弥生
人」としたい。もちろんわけがある。
 縄文人は1万年の長きにわたったにもかかわらず、だいたいのとこ
ろ、縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまりに大きな時期
差は認められない。しかるに弥生時代は700年程と短いが、その遺跡
で出る人骨はけっこう多様であり、地域差などの身体現象の問題を
詳細に論じるのが困難になる。実際に「弥生人」はさまざま。同時
代人なのに、さながら「盛り合わせ」のような人々だった。
 まるで「縄文人」そのものような「弥生人」や、「縄文人」に似た
「弥生人」。その一方で朝鮮半島を越えてきた人々かその係累につ
ながるような渡来系「弥生人」もいた。また、縄文系「弥生人」と
渡来系「弥生人」とがミックスしたような混血「弥生人」、次の古
墳時代の墳墓から抜け出てきたような「弥生人=新弥生人」もいた。
 弥生人は地域性がとても強くて、同じ地域でも前期、中期、後期で
時期差が無視できない。もしも北部九州や土井が浜遺跡の人骨では
なく、たとえば西北九州や神戸新方遺跡の弥生時代人骨をなどを復
顔材料に使えば「弥生人と縄文人の顔立ちは非常に違う」と信じる
方々の期待は裏切られてしまうだろう。一重マブタで平耳、薄い唇
に淡い皮膚色、直毛で粉耳といった「弥生人の顔」神話が生まれた
のは理由がある。
 実はある一部の地域を除くと弥生時代の遺跡で発見される人骨の数
は驚くほど少ない。日本のどの地域でも1990年代の頃までは、ほと
んど「弥生人」骨は見つかっていない。人口が希薄で遺跡が少なか
ったからではない。日本列島の特殊な土壌事情がゆえに、そして弥
生時代の遺跡の立地条件が故に、骨類が土に帰してしまい、人骨が
残らないのだ。
 ともかく縄文時代の貝塚遺跡と比べて、骨の残存状態が著しく悪い
。それが弥生時代の遺跡の特徴である。唯一の例外が北部九州地域
と土井ケ浜遺跡などがある地域である。これらの土地、対馬海峡と
朝鮮海峡にまたがる海峡地帯のあたりだけは、弥生時代人骨が例外
的に多く残存する。それに保存状態にもすぐれている。1950年代の
早い時期から研究者によって集中的に発掘、研究活動が進んだ為に
、尋常ならざる数の弥生時代人骨が発見され蓄積されている。
 実際、この地域で見つかる人骨は、たしかに縄文人骨との身体的特
徴の違いは目立ち、弥生時代人骨の「代表選手」「典型」のように
取り扱われ、この地域で見つかる人骨こそが「弥生人」骨となり、
縄文人と弥生人は大きく異なるという論法に繋がっていった。
 しかし、この地域は日本列島のごく一部でしかない。そして歴史的
に大陸の玄関になってきたところでもある。そういう地理的、歴史
的条件を考慮するなら、この地域の人骨を日本列島全体の弥生人の
骨の無作為標本と見なす事は躊躇せざるをえない。
 これら、北部九州地域の骨はこれまでに発掘された弥生時代人骨の
全体の80%を占有するのだ。
 おそらく倭人は、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥
生人」を基盤とした。そこに北部九州から日本海沿岸部に住み着い
た渡来系「弥生人」が重なった。続いてその当たりを中心に両者が
混血して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総
体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。そうだとすれば、
倭人あるいは「日本人」の内訳は一方で縄文人の流れを強く受け継
ぐ人々がいた。その対極に渡来人の系譜に繋がる人々がいた。やが
てそれらが混血した。つまり、縄文系か弥生系かの二分論で日本人
論を展開するのはいささか乱暴なのである。 



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