5604.現代という芸術アラカワ 道元の語句の前方誤り訂正



現代という芸術アラカワ 道元の語句の前方誤り訂正
From: tokumaru
皆さま

ご無沙汰しています。
大分で、道元と荒川について考えています。
いやはや、予想外というか想定外の発見があり、正直困っています。
現代という芸術アラカワに書きましたのでお届けします

現代という芸術アラカワ
道元の語句の前方誤り訂正
得丸久文

寺田透現代訳「道元和尚公録」(上下、筑摩書房)を読んで意外だっ
たのは、道元は只管打坐ということをほとんど口にしていない。こ
れには驚いた。

只管打坐して身心脱落せよということは数回言っているが、坐禅だ
けすればよい、ひたすら何も考えずに座れということはまったく言
っていない。むしろ「わが宗は禅宗にあらず」、「わが宗は唯語句
のみ」と、精密な言語的学習と思考を弟子たちに要求している。

只管打坐というのは、懐弉の「正法眼蔵随聞記」に登場する言葉だ。
弟子たちに語った上堂語とは別の言葉を本当に道元は語ったのだろ
うか。

じつはこの「正法眼蔵随聞記」は、いつ、誰が書いたのかもわかっ
ていない。おそらく懐弉だろうとか、懐弉の弟子だろうと言われて
いるが、書いた人の顔が見えない。信頼性が低い文書である。研究
者も、「随聞記には道元禅師の 真意を正確に伝えたものとは思えな
い箇所が認められる」と指摘する。随聞記中の公録や正法眼蔵と矛
盾する言葉は、どう考えればよいのか。

言語情報の前方誤り訂正というのは、すでに亡くなっていて確認を
取れない著者が実際にはどう語ったか、どう語りたかったかを確認
する通信路誤り訂正の作業をまず行い、続いて、著者の人物像を思
いうかべながら、その発言がどこまで妥当かを判断する情報源誤り
訂正の作業からなる。この二つの誤り訂正を徹底的にやると、言語
情報は生き生きとした生命力をもつようになり、我々の意識形成や
知能発展の役にたつようになる。

公録についても、同様な矛盾をもつ「道元禅師語録」というものが
存在する。これは道元の門人の寒厳義尹が公録を中国に持参したら
、天童如浄のものにおいて道元と同参だった無外義遠が、編纂し添
削して返してくれたものだというのだが、「わが宗は唯語句のみ」
が「わが宗は語句無し」に文字を変えられている。

鏡島元隆は、春秋社版の「永平公録」のなかでは、「唯語句」が正
しく、「語句無し」は受け入れられないと書いているのにもかかわ
らず、講談社学術文庫版の「道元禅師語録」のなかでは、「語句無
し」に何の注記もせずに、そのまま現代語訳している。これは正し
くない。どちらかが正しいのであり、誤りと認定されたところは訂
正されるべきだ。

そもそも道元が自分自身の言葉と矛盾することを語るということが
あるだろうか。私の知る道元なら寺の中でも外でも同じことを語る
だろう。むしろ、道元の弟子を僭称する輩が、道元が本当に語った
ことを隠ぺいするため、否定するためにねつ造したのが「随聞記」
であり「道元禅師語録」と考えるのが妥当と思われる。


以上


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