ゴーストップ事件と粟屋仙吉 大分合同新聞の今朝の一面コラム東西南北 From: tokumaru 皆さま、 今日は、粟屋仙吉の命日でもあります。合掌 得丸 (投稿した記事) 原爆で即死した広島市長粟屋仙吉のことが、東西南北で紹介されて いた。陸軍にもっとも嫌われた官僚としてあまり出世しなかった彼 は、大分県知事を務めたあと、昭和17年に農務省を退官し、世田谷 に住んでいた。粟屋を広島市長に請うたのは、広島市出身の大蔵官 僚賀屋興宣だった。 藤原章生著『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか―“最後の 弟子”森一久の被爆と原子力人生―』を読み、おそらく昭和18年に は広島に原爆が落ちることを陸軍は知っていて、粟屋を爆心地で殺 すために広島市長に担いだという気がした。元米陸軍情報将校が書 いた『原爆と秘密結社』によれば、長崎原爆投下は、日本のクリス チャンを絶滅させることが本当の目的であったというが、粟屋はク リスチャンであった。 大分合同新聞の東西南北2015.8.6 1933(昭和8)年、大阪・天神橋の交差点で、信号を無視して 横断しようとした陸軍兵士を巡査が制止したところ、「軍人は警官 の命令には従わない」と 反発され、派出所で格闘となった ▼騒ぎは陸軍、内務省にまで拡大。軍が「皇軍の威信に関わる」と 陳謝を要求。警察側は「正当な職務行為」と突っぱねた ▼当 時の大阪府警察部長は粟屋(あわや)仙吉。酒は飲まず、きち ょうめんで気骨があった。マスコミをにぎわせ、5カ月後に軍と警 察は和解。「ゴーストップ事 件」で、軍部が暴走し始め、太平洋戦 争に突っ込む前兆だった。抵抗した粟屋はその後、出世のスピード が鈍ったらしい▼粟屋は1937(昭和12)年、第 31代の大分 県知事となり、1年9カ月務めた。日中間が全面戦争に突入し、泥 沼化した時▼当時、別府には病院船が毎日のように傷病兵を運び込 んでいた。病 室が足りず、旅館を病舎に借り上げた。県庁職員も勤 労奉仕し、粟屋も土運びに汗を流した。県内各地で戦死者の遺族を 弔問 ▼この後、農林省に勤務。「朝野富 三氏著 ゴー・ストップ事件」 によると、念願の自宅も東京・世田谷に購入した。退官後、広島市 長に就任し、初の単身赴任 ▼東京から妻が2歳の初孫を連れ て、市長公舎に来ていた1945 年8月6日、原爆が投下された。複数の遺体の位置から、初孫を膝 に抱き、久しぶりの一家だんらんを楽しんでいたらしい。今 日は広 島原爆の日。粟屋の命日でもある。51歳だった。