5442.現状の世界観から出発した議論を



集団自衛権の法案が通るまでは、静観していたが、これで確実にな
り、そろそろ、世界の状況を見た日本のあり方を考えることが必要
になっている。

世界の状況を質問されて、黙示録の時代であり、ヨハネの黙示録の
七つの封印があり、五つ目の封印を解いた所まで進んでいると思う
と答えた。第一の封印は正義としてブッシュ父大統領であり、第二
の封印は、ブッシュ子大統領であり、第三の封印は天秤を持ってい
る商人であり、これはリーマンショックであり、第四の封印はイス
ラム国で、無制限に人を殺している。第五の封印が今である。と答
えた。

今後、第六の封印は天変地異が起こり、第七の封印は核戦争であり
、この第五の封印が解かれた状態であり、今後、ティッピングポイ
ントを超えて、もしかしたら、現時点でこのポイントを超えている
可能性があるが、第六の封印が解かれ、海進が進み、5mぐらい高
くなり、関東平野の半分が海に沈み、富士山などの火山の爆発や地
震が頻発することになる。

そして、その後、核戦争になるというのが、ヨハネの黙示録が言っ
ていることである。日月神示も同様な方向である。

もう1つ、現在を歴史の場面に置き換えて見ると、よく見えること
がある。明治維新に現在の状態を置き換えて見ると、米国幕府が中
露の薩長連合と対決していて、イラクに攻め込んだが負けてしまっ
た、その限界を見せつけた。このイラク戦争を第1次でIS戦争を第
2次長州征伐と見ると、米国幕府の限界を見ることができる。

日本はその場面では、会津藩を演じようとしている。薩長が活躍す
る京都の守護をすることになっている。アジア=京都と見ると見え
る。

しかし、歴史の思考では、その時点でどうすれば幕府が勝てたかと
いうことを考えることが必要である。それは武器の刷新であり、朝
廷工作も同時に必要であった。

世界世論の把握と革新的な武器の更新を進めることである。それと
幕府と会津藩が共同的な軍隊制度を確立するべきであったのだ。

状況をこう捉えると、日米が行わなければならないことは明白であ
る。軍政改革と武器の革新、世界世論の構築である。集団的自衛権
というのは、軍政改革であり、民主党岡田党首のような憲法に違反
するから反対では、今後の苦難な道を進むことができない。

しかし、その面では民主党の長島議員の議論がまともである。憲法
の解釈には、今までも無理があり、その無理さ加減を少し足しても
憲法違反とは言えない。

しかし、自衛隊が行える範囲は、自衛のためという範囲があり、集
団自衛権を無制限には拡大できない。この制限を規定するべきであ
るという。これには賛成である。

そして、これ以上の自衛権を拡大することは、日本の平和主義から
できないので、憲法改正はできなくなったというのも、わかるよう
に思う。

あくまでも、平和の確立のために、日本は世界に貢献することであ
る。

日月神示は、日本人が神道的な考えを持って世界に出て行き、世界
の問題を解決すれば、核戦争も起きない可能性があると言っている。

これに賭けるしかないと思っている。神道的な感覚の中には、瞑想
の力も含まれているように感じているので、瞑想についての考察が
多くなっている。

という意味では、北一輝などの活躍した戦前の時期と同じような状
態になってきたようにも感じている。あの時代と違うのは、無理は
せずに勝てる戦略を組むことである。精神主義には陥らないことだ。

さあ、どうなっていくのか?


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衆院での安保法制論議の総括
長島昭久2015年07月17日 12:21
【結論】
またしても安全保障関連法案の国会審議が情緒論に埋め尽くされて
しまった。参院での審議では、ぜひこの点を克服してもらいたい。
以下、若干長くなりますが、衆院での審議を終えた現時点での私の
所感を皆さんと共有させていただきたい。
【主要論点】
(1)法案の土台となった昨年7月の閣議決定は憲法違反か?
(2)閣議決定で行われた政府解釈の変更は立憲主義を否定するも
   のか?
この二つの問いを巡って議論の7-8割が費やされてしまった。私は、
いずれの問いに対しても懐疑的だ。つまり、昨年の閣議決定が一見
明白に違憲とも言えないし、政府解釈を変更することが立憲主義に
反するとも思えない。理由は後述する。
(3)現実の安全保障環境に照らして、法案は妥当なものか?
本来はこの点を徹底的に精査するのが国会審議の要諦である。しか
し、この議論は110時間に及ぶ特別委員会での議論の2-3割に過ぎな
かった。民主党が対案を出せなかったことや、維新の党の対案が出
て来るのが1ヶ月遅かったことが、この最も肝心な議論を深めること
ができなかった最大の問題だ。
なお、私は、この点で、政府提出法案は、曖昧な点も多く、領域警
備など肝心な法制が欠落しており、答弁も甚だ不安定で説得力に欠
け、遂に国民の理解を得ることができなかったと考えている。ここ
は、参議院審議の段階で、野党がしっかりした対案を最初から提出
し政府案との並行審議に持ち込んで、委員会での議論を深めるとと
もに、政府案の修正や補充や一部撤回を迫り、現実の安保環境に相
応しいより良い法制を整備するべく真剣に取り組む必要がある。
【対案】
民主党は、「近くは現実的に、遠くは抑制的に、人道支援は積極的
に」という理念の下、以下のような対案を準備している。
●領域警備法案
●現行の周辺事態法における「周辺」概念を残し、周辺有事に際し
「非戦闘地域」での活動を前提に我が国領海や公海上での後方支援
活動を拡大し、当該活動の支援対象は、米軍および米軍と共に活動
している他国軍隊とする改正案
●予め条約および協定を締結している外国軍隊(当面は、安保条約
の米国およびACSA協定を結んでいる豪州)と共同行動している場合
に互いに装備を防護するため、「武器等防護」を規定する自衛隊法
95条の改正案
●PKO協力法に基づく活動の拡大と駆けつけ警護を可能にする改正案
●他国の海外での戦闘への後方支援は恒久法ではなく、そのつど情
勢や必要性、自衛隊の能力や装備などを勘案して特別措置法で対応
すべき…以上。
憲法9条2項と自衛権、自衛手段、自衛の方法
さて、冒頭の憲法に関わる根本問題に答えるためには、憲法9条の規
範内容を理解しなければならない。憲法9条には「自衛権」という文
言はない。しかし、砂川事件最高裁判決が示したように「我が国が
、自国の平和と安全とを維持しその存立を全うするために必要な自
衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であって
、憲法は何らこれを禁止するものではない」。ゆえに、自衛のため
の手段としての自衛隊は合憲とされてきた。
しかし、憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない
」という規定から、(警察予備隊や保安隊当時ならいざ知らず)な
ぜ5兆円規模の予算を費やし営々と築かれてきた世界屈指の兵力を誇
る自衛隊が「合憲」なのか説明するのは、至難の技だろう。したが
って、自衛隊創設時から憲法学者の大半は自衛隊違憲論を唱えたの
だ。(奇妙なことに、その憲法学者の大半が現在では、当時よりさ
らに強大化した自衛隊の存在を合憲としている。)
自衛隊は合憲で、限定的な集団的自衛権は違憲は、ご都合主義では
ないか?
これに対して、内閣法制局は、現実の国際情勢に鑑み、我が国を防
衛する必要最小限度の実力を有するに止まる自衛隊は(どんなに巨
大化しても、周辺の安保環境に釣り合う限り)憲法9条2項にいう「
戦力」には当たらないから合憲だと解釈してきたのだ。このアクロ
バティックな解釈を維持することが、いま盛んに持て囃される「立
憲主義」だというのである。なんともご都合主義ではないか。いや
、ご都合主義が悪いと言っているのではない。現実の要請に応えて
規範の範囲内で解釈を施していくのが憲法というものなのだ。法的
安定性とともに現実的妥当性が重視されるのは、憲法条文と現実の
乖離から憲法を空洞化させないためのギリギリの努力とも言える。
そして、今回の解釈変更である。「国の存立が脅かされ、国民の生
命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場
合に」限り、個別的自衛権に加えて限定的な集団的自衛権を行使し
ようとするものだ。そうしなければ、安全保障環境の悪化や軍事技
術の急速な進歩に対応できず、我が国の平和と安全が守れないとい
うのがその理由だ。
この解釈変更と、憲法9条2項の下で世界有数の精強性を誇る自衛隊
が容認されることと、どちらが論理的に無理がない(あるいは無理
が大きい)だろうか?いずれも現実の外部環境に釣り合うように憲
法を解釈した結果なのだが、私には後者の方が論理的飛躍の度合い
は大きいと感じられる。後者は自衛の「手段」に関わる問題、前者
はその手段を用いてどのように国家国民を守るかという「方法」に
関わる問題だ。我が国の平和と安全を守るうという観点から個別的
自衛権と限定的な集団的自衛権との間の差異はそれほど大きいとも
思えない私には、後者は認めておいて、前者を憲法違反と断ずる「
立憲主義」はいかにもご都合主義に感じられてならないのだ。もち
ろん、双方の問題をスッキリさせるため、憲法改正するのが王道だ。

それでも武力行使には明確な「歯止め」が必要
現実的に考えて残された問題は、自衛権行使をめぐる「歯止め」だ
ろう。国力を顧みることなく無謀に戦線を拡大し、70年前に悲惨な
敗戦を経験した我が国であればこそ、この歯止めの議論はきわめて
重要だ。
ところで、皮肉なことに、後者の自衛手段については法的歯止めは
ない。防衛費をGDP比1%未満に抑えることも、大陸間弾道弾や原子力
空母を保有しないことも、すべて政策的な制約に過ぎない。だとす
れば、個別的自衛権に加えて限定的に行使する集団的自衛権の範囲
も政策的に決めればいいような気もするが、ここは政府として40年
来「行使できず」と繰り返し言明してきた手前、これを緩和するに
あたって何らかの法的歯止めがある方がベターだろう。それが、新
三要件というわけだが、「新三要件に合致すれば、ホルムズ海峡ま
で出張って行って武力行使も出来る(戦時の機雷掃海は国際法上は
武力行使)」と言われると、「歯止めにも何もなっていない!」と
批判せざるを得ない。

政府案に有効な歯止めをかける維新の党「独自案」
その意味で、維新の党が提出した独自案は検討に値する。それによ
ると、我が国に対する直接の武力攻撃が発生するに至らない場合で
あっても、「条約に基づき我が国周辺の地域において我が国の防衛
のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し、これ
により我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が
あると認められるに至った事態」においてのみ自衛権が行使され得
るというもの。自衛権行使の契機を「条約」「周辺」「我が国防衛
のために活動している外国の軍隊」と二重三重に歯止めをかけてい
る点は評価できる。
ただし、未だ我が国に直接の武力攻撃が発生していない段階で我が
国が武力行使するわけで、これを集団的自衛権でないと強弁するか
らおかしなことになるのであって、「集団的自衛権の行使を限定的
に容認するが、政府案より明確な歯止めが効いており、これならホ
ルムズ海峡での武力行使など我が国に直接の戦火が及ばないような
場合には容認されない」と説明すれば、国民の多くが納得してくれ
るのではないかと思う。その点で、政府案は、集団的自衛権を行使
する地理的範囲も無限定で地球の裏側でも武力行使を許し、支援相
手国も条約上の同盟国のみならず世界中の国々がその対象となる(
法理上は北朝鮮もパートナーたり得る!)など、全く歯止めが効い
ていない。これでは、国民も容易には納得しまい。
審議を通じて余りにもお粗末だった政府答弁
その他、活動が拡大するのに派遣される自衛官のリスクは増大しな
いと強弁したり、存立危機事態を認定する契機が他国に対する武力
攻撃の発生か発生する明白な危険があればいいのかをめぐって不安
定な答弁が繰り返されたり、後方支援恒久法やPKO法改正を議論する
前提となるイラク人道復興支援活動の防衛省の報告書が黒塗りで国
会に提出されるなど、政府の説明や姿勢に不誠実、不明確な点が随
所に見られたことも審議の混乱に拍車をかけてしまった。
以上、衆院での審議を総括させてもらった。いずれにせよ、少なく
とも上記の論点を克服できるような実りある審議を参議院では期待
したい。与党も野党も「60日ルール」に胡座をかいて参議院の自殺
につながるような審議拒否は断じて許されない。参院の同僚議員の
皆さんの「良識の府」としての矜持に期待したい。
衆議院議員 長島昭久
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「安保法案」成立で永遠に不可能になるかもしれない憲法9条改正
古谷経衡2015年07月20日 08:09
・「持っているが使えない」の異様さを梃子として
所謂「安保法案」が16日、衆議院を通過、参院に送られた。これに
より同法案の成立は確実となった。国会の内外で喧々諤々の論争が
巻き起こる中、私はこの採決の様子を万感迫る思いで見つめていた
。安保法案の成立によって、日本の防衛力は着実に増強の方向にす
すむだろう。2014年の集団的自衛権の憲法解釈変更と合わせて、私
は一定程度、この安保法案の通過を評価する立場にある。

しかし一方で、これで憲法(9条)の改正は相当、遠ざかるだろう。
いやもう永遠に無理かもしれない。そのような思いから、私は安保
法案の通過を複雑な心境で見つめていた。

「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有するが、その行使は許さ
れない」との政府見解が出された鈴木善幸内閣の1981年以来、約30
年に亘って続いてきたこの解釈は既に述べたとおり2014年に変更さ
れた。しかし、この「持っているが使えない」という集団的自衛権
に関する珍妙な解釈は、この間、憲法改正を目指す保守派(以下改
憲派)にとって、「憲法9条改正の理由」として必ず引き合いに出さ
れるロジックであった。

「集団的自衛権は、国連憲章に書いてあるように、国家が生来持つ
自然権である」という自然権説を改憲派は必ず引用し、「だのに、
日本がそれを行使できないというのは、異常である」と現行憲法の
「特殊性・異常性」を指摘し、「異常だからこそ、憲法9条を改正す
るべきなのだ」と長年主張してきた。

『日本人のための集団的自衛権』(新潮新書)の中で石破茂は、JR
の座席指定券の例を出し、鈴木内閣以来の集団的自衛権解釈の「矛
盾」を以下のように形容する。

あなたがJRの指定券を持って、指定された席に座っていたとします
。その席に座るのは当然指定券を買ったあなたの権利であり、その
権利の行使として実際そこに座っています。そこへ突然誰かがやっ
てきて、「ここに座っているのはたしかに君の権利だが、しかし座
ることは出来ないのだ。私に席を譲りなさい」と言われたとしたら
、いったい何がなんだか分からなくなりはしないでしょうか。
出典:『日本人のための集団的自衛権』(新潮新書 石破茂著 P.71)
確かに、こう言われれば明確な理論展開だ。権利の保有は行使と普
通イコールと考えられるのだから、「持っているのに使えません」
というのは、常識的な皮膚感覚の中では、異様な解釈のように思え
る。この「異様性」を強調して、「だからこそ、(異様な)憲法9条
を改正するべき」という改憲派の主張には、この間、一定の説得力
があったように私には思える。

・盛り下がる改憲機運の理由
図は、日経リサーチ社による、直近10余年における憲法改正に関す
る世論調査(各4月)の推移を筆者がまとめたものである(数値は全
てパーセント)。これを見ても分かる通り、調査開始年の2004年(
小泉内閣)時代、赤字で示した「改憲」と青字で示した「護憲」は
、約2倍の開きがあって改憲派が相当優勢であった。実際には、調査
方法や媒体にもよるが、概ね改憲を志向する世論は、1990年を過ぎ
てから一貫して護憲を上回るようになっている。

これは所謂、金だけを拠出してクウェートによる感謝状に日本の名
前が載らなかった「湾岸戦争ショック」を始めとして、冷戦後の国
際情勢の変化に際して世論が敏感に反応したことと、既に述べたよ
うに改憲派が現行憲法を「異様」なものであると訴え、現行憲法の
ままでは集団的自衛権の行使が不能であり、よって国際社会から日
本が孤立化することを盛んに喧伝した効果が含まれていよう。

繰り返すように、先にあげた石破の「指定席の話」に代表されるロ
ジックには、相応の説得力があったので、このような改憲の傾向は
ゼロ年代にあっても、上下はあるものの2014年の第二次安倍政権下
でも強いものがあった。日経の調査によれば、最も改憲機運が高い
のが2013年4月の調査であり、「尖閣諸島沖漁船衝突事件」(2010年
)等に代表される「中国脅威論」などが影響していると思われる。

しかしこのような「改憲優勢」の機運は、図を見てもわかるように
2015年の4月の最新調査で、僅差だがここ10数年で初めて護憲が改憲
を上回った。他に各社世論調査の最新動向によると、「憲法改正不
要48%、必要43%」(朝日新聞5月1日報)、「憲法改正賛成42%、
反対41%」(読売新聞3月15日報)など、ここ十数年の「改憲優勢」
の世論が、初めて逆転するか拮抗するかの情勢となっていることが
明らかである。

つまりこの世論の動きは、「現行憲法が異様であるから、日本国憲
法を改正するべきだ」という従来改憲派が繰り返して来た改憲のた
めのロジックが、昨今の集団的自衛権の解釈変更と、安保法案の成
立により「解消された」と評価されているということだ。よりわか
りやすく言えば、「現行憲法下で集団的自衛権が行使できるという
ことになれば、わざわざ憲法を改正するまでもないのではないか」
という、これまた普通の感覚で改憲派のロジックが弱体化してしま
った結果なのである。

・「最良の時代」であり、「最悪の時代」でもある
これまで護憲派は、主に「現行憲法を変える必要はない。なぜなら
、解釈改憲でこれまでも通用してきたからだ」と改憲派を牽制して
きた。それに対して改憲派は、「解釈改憲では限界がある。例えば
集団的自衛権があるではないか」と、反論してきた。今回、安保法
案が成立したことで改憲派は集団的自衛権を担保とした改憲ロジッ
クを事実上、封印されたことになる。憲法を変えないまま、集団的
自衛権の解釈を変更し安保法制が成立したとなれば、「何のために
憲法を変えるのか」という疑問に抗しきれない。

先に引用した石破は、「現行憲法下で集団的自衛権の解釈変更は可
能だ(2014年2月)」と明言し、「集団的自衛権の行使の根拠は憲法
ではなく、政策判断にすぎない」として、(集団的自衛権の行使を
)憲法にその根拠を求めてしまったこと自体が誤りではなかったの
でしょうか。憲法9条のどこを読んでも、「集団的自衛権は行使でき
ない」という理論的根拠を見出すことは出来ません。そもそも解釈
が間違っている、いない、という論争ではなく、これは政策判断で
あったのだとすれば、何も憲法を改正しなくても行使は可能となる
はずだ、と私は考えています。

としている。確かに、石破の指摘通り政策判断にすぎないとなれば
憲法改正の必要性はない。しかし、長年改憲派が依拠してきた憲法
改正の重要な根拠は、「持っているのに行使できない」という政府
の憲法解釈を日本国憲法の異様性に結びつけることで成り立ってお
り、その部分が達成された(解消された)となると、いみじくも石
破の指摘の通り「何も憲法を改正しなくとも…」という結論に達し
、改憲機運は弱まるのは自然だ。

改憲派は憲法9条によって日本が手足を縛られ、冷戦後の国際環境下
では日米同盟にヒビが入り、日本の存立をも危うくなることを盛ん
に喧伝して憲法改正を訴えてきた。今回の安保法制の通過(成立)
によって、改憲派が唱えていた最大の理論的支柱が失われ、憲法改
正の国民的機運は急速に衰えているのは既に示したとおりである。
むろん、政府は集団的自衛権の解釈変更と安保法制の成立をもって
しても、「憲法9条の縛り」があることを強調しているが、その理屈
は相対的に弱まってしまうのは必然だ。

「戦後レジームからの脱却」を掲げ、その最大の争点を岸総理から
の「憲法改正(自主憲法制定)」として捉えてきた安倍総理と改憲
派にとって、今回の安保法制は実質的な意味では憲法改正に近いも
のであるが、名目的には却って、憲法改正が著しく遠ざかったこと
を意味する。

安倍総理は就任翌年、「96条の改正」(改憲要件緩和)を目指した
が肝心の改憲派・保守層からも批判にさらされ、参議院選挙の争点
とすることを断念した。思えばこの時に既に、安部総理は、名目上
の憲法改正を断念していたのかもしれない。
「憲法9条改正」は、自民党にとって、保守派にとって、最大の悲願
であり目標であった。それは現在も変わっていないものの、実質を
取って名目を捨てた(ように思える)安倍政権は、「中国の脅威が
増す中で、やむを得ない現実主義」と形容されるのか、はたまた「
永遠に憲法改正の可能性を摘んでしまった」と形容されるのかは、
後世の歴史家の評価に委ねられるだろう。
しかし私流に、現在という時代を観測すれば、それはディケンズの
『二都物語』の言葉を借りて次のように評するよりほかない。
「それは(保守派にとって)最良の時代であり、また最悪の時代で
あり…」


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