5421.仏教集団の意味



本門仏立宗での法要が毎7日毎にあり、その都度実家に戻り、ご信
者さんたちと称名念仏としての「南無妙法蓮華経」と唱和している
し、お経の本を渡されて、そのお教を読んでいる。家にお坊さんと
信者の方が来て、お経も信者が唱えるので、信者だけでも法要が出
来そうな感じである。

お坊さんは、祈願言上や宗派の歴史的な僧侶の名前を述べているが
、その部分も簡単な練習で言えそうである。ということで、僧侶と
信者の差があまりない。お経の声明は僧侶の特権である真言宗など
の鎌倉以前の大乗仏教とは大きく違う。信者は聞いているだけで、
お経を読むということはしない。

丸で、本門仏立宗は、小乗仏教で全員が僧侶になるということと同
じような気がした。

摩訶止観で半座半行の称名念仏が、禅病もなく瞑想に入りやすいと
言われるが、その実践を信者が全員で行う環境にあるようだ。

いつも、朝30分から1時間、一人でお戒壇の前、ロウソクに火を
灯して、静かに座禅をしているが、それとは明らかに違う雰囲気を
感じる。
お寺にも呼ばれて、多くの人と「南無妙法蓮華経」を唱和したが、
気の入り方が1人の時とは格段に違うように感じる。

気の高まりが違い、1人では静かに自分と向き合うことができるが、
気が高まり、大きな像がお戒壇の中に立つような気がする。多くの
人達の気が集中して、大きな気力がお戒壇の一点に集まっているよ
うである。

その影響で自分の気が高まり、自分の内部の深い部分まで意識でき
るようだ。まだ開いていないチャクラに今度、気を集めて開けてみ
ようかと思う位、気のレベルが違う。

昔、子供の頃にも祖母と一緒に、お寺に行っていたが、そのような
気の集中を意識しなかった。意識できなかった。

そこにいる人の多くが瞑想に入り、気を高めるとその気が集中して
より大きな気力を持つことが、自分のセンサが発達して認識できる
ようになったみたいだ。

多くの人が、一箇所に集まり瞑想することは、意味があるというこ
とのようである。仏教集団が形成された理由は、気を高めて、より
高次の意識段階に行けるためのようである。

父が死んで、祖母が信仰していた宗派の集まりに出ざるを得ず、行
っているが、仏教集団の意義がわかるような気がする。

しかし、実践はわかったが、教理教学がわかりにくい。このため、
現在新しく人が入らない。昔から信仰していた家に生まれた人しか
、瞑想の気力がすごい力を持つことを知らないのである。



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