5405.父の死を記録する



90歳の父が亡くなり、通夜と葬式をした。父は肺炎を起こして、
病院に緊急入院したが、少しよくなり、病院から退院して欲しいと
言われ、退院した後の療養型病院と介護施設を紹介されて、介護施
設を選択した。

他の療養型病院は、状態が良くなった時に介護施設等への移転が必
要ですと言われたので、長く居れる介護施設の方が良いと思ったこ
とによる。

いかし、緊急入院した大学病院の先生からは、誤嚥肺炎であると告
げられただけで、父の全体的な状態を聞けなかった。このため、家
族は、そのうち元気になると見たのである。

しかし、4月中旬、介護施設に入り、そこの施設長から現状の状態
ではここに来ても1ケ月程度しかご寿命がないと最初に言われて、
ビックリした。

しかし、父は元気そうであり、我々がお見舞いに行くと、「早く家
に帰りたい。なぜ、家に戻さないのか?」と問われるが、父の腰は
立たずに、介護なしには行動もできない状態で、かつ誤嚥の可能性
があるので、流動食しか食べられないので、この状態では家に戻せ
ないと思った。

父は「うなぎ、寿司が食べたい。ここでは流動食で、木を煮たもの
しか食べさせてもらえない。美味しくない。」というので、週に一
回は私と母が行き、弟にも週一回、妹にも週一回づつ行ってもらい
、その時にチョコレート、ヨーグルト、プリン、うなぎ、ボーロな
どを持って行って、父に食べてもらった。

施設の看護婦さんに、お土産で持ってきても良い食べ物を聞いたら
、その5つが指定された。私は、父の見舞いの後に看護婦さんに状
態を聞き行っていた。

父の状態を最初は、治る方向であると見たが、診察した結果は、痴
呆症も出ているし、誤嚥の状態も良くないし、特に心臓の状態が普
通に比べて、10倍も悪い。意識があるのが不思議な状態ですよと
言われた。また、見舞いの時に記録を見ると、最後の頃は、食事の
量が毎回3口程度しかない。

このため、死ぬ3週間前に、思い出作りに家に2時間程度戻した。
しかし、父は家に戻れたと勘違いして、介護施設に帰ったあと興奮
して怒っていたと、看護婦さんに後日、言われた。その後、電話が
家に掛かり、父は早く家に戻りたいと懇願してくるし、ほとんどは
無言電話である。見舞いの時に介護士に聞くと電話したあと、寝て
しまうという。

6月6日8時に、施設から電話があり、呼吸がおかしいので、酸素
マスクをしました。と連絡があり、母と妹を緊急に施設に行っても
らった。私も10時に施設についたが、父に「蒲田の家にはいつ行
くのか?」と聞かれた。父は青山で生まれ、育ったのは蒲田であり
、その夢を見ていたと思った。

6月7日12時、食事をしていた時に施設から電話があり、呼吸が
おかしいので、来てください。という。母と妹、弟に電話し、私も
駆けつけた。弟が午前にお見舞したが、その時に普通に話していた
という。私が着いたのは15時であったが、父は息をかすかにして
いた。私は、父に向かい「後は私が見るから心配しないで、行って
くさい。」と話したら、その後、30分後に息をしなくなった。

施設の人が心電図を持ってきて計り、心臓が動いていませんと言っ
た。施設長が来て、今日、医者に連絡しているが来れないので、明
日、10時に来てほしいと言われた。葬儀社とお寺の世話役に連絡
して、段取りをしてもらった。

母と帰り、やっと父の苦しそうな姿を見なくてよくなり、二人共に
ほっとした気分と父が死んで悲しい気分と、複雑な気持ちでバスに
乗った。

父を見ていて、徐々に枯れる「老衰」も大変な死に方なのだと思い
、母に「今までは、私も老衰で死ぬことが理想と思っていたが、脳
溢血や心臓発作などで、バタッと死ぬほうが良いかもしれないな」
と話した。

叔母が心臓発作で皆に気づかれずに死んで、次の日の予定時間に来
ないので、知人が家に行って発見したというが、この死に方が理想
かも知れないと思った。

お通夜、葬式、初七日と忙しく、悲しんでいる場合ではなく、計画
し実施して、やっと、今日、時間ができたので、父の死を記録して
おこうと筆を取った。

父宏明は、大正13年12月20日に生まれて、電電公社に勤めて
、永年勤続で勲章を貰い、天皇陛下にお会いしたことを誇りにして
、私もに勲章をもらえるように働きなさいといっていた。しかし、
私はそれができずに、父から期待はずれと言われていた。私は、「
まだまだわからない」というが、その目処があるわけではない。




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