5388.「ケニア雑感」



「ケニア雑感」   小川

1.私は父の葬儀の喪が明けないうちにケニア・ナイロビに出張してしまった。出発前家
族はずいぶん心配した。新聞や TV などのマスコミ情報では、アフリカは危険な地域という
イメージが強い。チュニジアの春以降、エジプトルクソール銃撃テロ、アルジェリアの日
揮人質殺害、イスラム国過激派による外国人観光地を狙ったテロなど外務省の渡航安全情
報ではアフリカは渡航自粛の国が多い。ケニアも外国人銃撃テロの危険、エボラ熱の恐怖、
強盗・スリ・殺人の多い注意勧告の国である。

70 歳近くの高齢者がなぜこんな危険な国に足を踏み入れる必要があるのか。同じ月の前
半に 95 歳になる父が急遽入院し、3 日後には葬儀があり喪主として非日常の日々がつづい
た。49日の喪が未だ明けていない時期に、現役を退いている自分がなぜ飛行機で 18 時間
もかけた異国の地に行かねばならないのか。病院から葬儀会場を選び親戚への連絡、通夜、
告別式、火葬、初七日と法事がつづきこのところ生死に関する恐怖感が薄れている。イス
ラムの神であろうが仏陀であろうが構わない。死の恐怖におののいて宗教がある。良い生
を全うするために宗教を学ぶのではないかと考えながら出立した。

2.昨年来同年の学生時代の友人が脳出血や脳腫瘍の手術で半身不随の病床に倒れ同級生
の15%ほどは他界している。自分の周りには循環器系の病気持ちが多い。循環器系の持
病を抱えている自分はいつまで自らの力で動くことができるのだろうか不安の意識が強く
なっている。渡航の危険よりも見知らぬ地への旅の好奇心の方が強くなっていた。一昨年
得丸さんと出かけた南アフリカ旅行でアフリカは、少し身近に感じる国になった。人類の
起源のあるアフリカ、野生の王国は「下山の人生」を歩むものには魅力的な地であった。

3.今回のアフリカ出張は、イギリスの大手開発コンサルタント会社からの依頼で環境プ
ロジェクトの補強メンバーとして現地参加した。日本の外務省がケニアに医療廃棄物セン
ターを供与することになり、外務省の代行機関としてコンサルタントを選定する業務をイ
ギリスのコンサル会社が請けた仕事である。同社はアフリカに強く最近日本法人を設立し
この分野を積極的に展開したいらしい。Kick-off-Meeting が来週あるのですぐに出かけて
欲しいと 3 日前に要請されて派遣契約も準備もないまま航空券を提供され出かけることと
なった。

この仕事もリスキーなところがある。エボラ熱やエイズなどの感染症の多いアフリカの医
療廃棄物の取り扱いはかなり怖い。実際の廃棄物処理業務は我々が選定するコンサルタン
ト会社、廃棄物回収業者や焼却処理設備業者が実施するので現場に立ち入ることは少ない
がゼロではない。ダーティな仕事である。環境プロジェクトは時流に乗った美しい仕事に
みえるが実態はかなりダーティなビジネスである。

石油化学プラントなど生産設備のエンジニアリングに従事してきた自分からみると環境処
理設備は技術的には低級なものが多い。先進国ではローテクであるが後進国にはハイテク
な設備である。また環境処理設備は生産設備のようには富を生まない設備でもある。人体
で言うと生産設備が動脈系とすれば環境設備は静脈系のものである。廃棄物処理、下水処
理、大気汚染処理などは不要物を処理する腎臓のような役割の施設である。持続的成長の
ための環境整備なのである。

出発前に横浜の検疫所で予防注射を受けた。感染症の専門医師にケニアの病気について
注意事項を尋ねた。“黄熱病予防注射は必ずとも必要ではない。今から注射としても抗体が
できるのに 10 日かかる。1 週間の旅程なら帰ってきた頃免疫抗体ができるので注射しても
意味がない。お年を考慮すると予防注射をうって病気になるリスクもある。むしろ A 型肝
炎の方が役に立つ。”といわれ予防注射は肝炎のみにした。私は 30 年前にナイジェリアに
行く予定があって黄熱病予防注射をしていた。有効期間が 10 年なのだがまだ抗体が残って
いる可能性がある。エボラ熱の危険性についてたずねた。

“西アフリカ 3 カ国、ギニア、シェエラレオーネ、リベリア以外は大丈夫。空気感染する
ことはない。エイズ菌と同じである。握手しても大丈夫。粘膜や血液からの感染で細胞に
入ると可能性はあるが普通の生活での感染はない。飛行機に患者と 400 人の乗客が乗った
が、まったく感染者はいなかった事例も報告されている。エイズと同様注意は必要だがマ
スコミが騒ぎすぎのところがある。
終息しつつあり、罹っても直っている。”医師の説明を受けてすこし休心した。

4.出張はコンサル会社のベテラン女性部長がプロジェクトディレクターとなり民間建設
会社出身のプロジェクトマネージャーとともに 3 人で行動した。カタール・ドーハ経由 18
時間のフライト後、出発日の翌日現地時間 12 時にナイロビ空港に到着した。雨季に入った
ケニアの空は曇り空でキリマンジャロは見えなかった。滑走路近くの原野にキリンとシマ
ウマが見えアフリカらしい。

空港からホテルへの道 10 分ほどは高速道路で中心国と変わらない。運転方向はイギリス
と同じで左側を走る。ドライバーの英語も流暢で英国植民地の影響が強く現れている国の
ようだ。高速道路から横道の市内にはいると悪路がつづく。舗装は壊れている。ドライバ
ーは中国の作った道路はすぐだめになるとこぼす。日本がつくった道路は水はけも良く陥
没もないと褒める。ケニアでは日本の中古車を多くつかっている。トヨタ、ニッサン・ホ
ンダの中古車が実に沢山みえる。でこぼこ道が続き市内への道は車も多く渋滞で時間がか
かる。いきなりトラブルが発生した。渋滞にイラついたドライバーがケータイ電話をかけ
たため警官がストップさせた。罰金を徴収する。罰金額は1万ケニア・シリング(約 1.2 万
円)である。給料の少ないケニア人ドライバーには相当の負担である。ケニアは一人当た
り GDP900 ドルの後進国である。タクシー会社からもらう給料の数ヶ月分に違いない。

ドライバーが車から降りて警官と握手してから何か話している。罰金額をネゴしているよう
だ。同行した K さんに“200 シリング(約 2500 円)払ってくれという。“ 長時間のフラ
イトのあとのいきなりのトラブルに疲れ面倒で黙って渡す。興奮したせいか後のドライバ
ーの運転が荒くなっている。”ケニアの警官は賄賂が多い“とこぼしながら運転している。

乗客こそいい迷惑である。ケニア人は実に目が良いようだ。老人性白内障に悩む自分の目
には見える由もない遠距離が見えるのだ。この国の警官は、ネズミ捕りするように僅かな
ドライバーのミスをみつけて賄賂を得る習慣があるようだ。

5.ケニアの地勢と概況について延べる。
・地理と気候:
ナイロビは東アフリカを代表する最も繁栄している都市でタウンには近代的なビルが林
立し昼間はビジネスマンであふれている。緑が多く西部の郊外にはしゃれた庭を持つ欧風
建築の高級住宅街が広がっている。しかし、北部のダウンタウンはスラムやバラックが並
び治安は非常に悪い。ナイロビの名は、マサイ語の「エンカレ・ナイロビ」(冷たい水)と
いわれるほどアフリカにしては水がきれいで豊富な町である。ケニアは赤道直下に位置し
ており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が 26℃の熱帯性気候である。しか
し、国土の大部分は、標高 1100m - 1800m の高原となっているため年間平均気温が 19℃の
乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11 月から 3 月にかけては北東モンスーン、5 月
から 9 月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標
高 5199m)。ナイロビはパピルスが茂る沼地に位置しているが海抜 1700mの高地にあり軽
井沢のようなさわやかな気候である。

丁度雨季にはいり全日雨かと思ったが、午前中は青空が多く、午後は一日 2 回 6 時間お
きに激しいにわか雨と雷雨があった。夜中に激しい雷雨があり屋根に音を立てて降ってい
て道は濡れていたが毎日晴れの爽やかな朝を迎えることができた。

・ ケニアの歴史:
紀元前 2000 年頃、北アフリカから来たクシ語族が、現在ケニアの位置する東アフリカの一
部に住み着いた。アラビア半島に近いことから、紀元 1 世紀までにケニアの海岸にアラブ
商人たちが頻繁に訪れ、アラブ人とペルシャ人の植民地を作りナイロック系とバントゥー
系の人々がこの地域に入り、内陸に定着した。バンツー語系、ナイル語系の民族がケニア
の地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した。バントゥー語とアラ
ビア語が融合し、発達したスワヒリ語は、様々な人々の間の交易のための共通語としてス
ワヒリ文明が発展した。1498 年のバスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進
出し海岸地域のアラブ人の支配力が抑圧され、モンバサの港は極東に向かうポルトガル船
のための重要な補給地となった。1600 年代になるとポルトガルが撤退し、オマーンのイ
マムによるイスラム支配に道を譲った。18 世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで
及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になった。その後 19 世紀には、英国が進出した。

 ケニアの植民地の歴史は、1885 年のベルリン会議に遡る。会議の結果、東アフリカはヨ
ーロッパの列強各国の勢力により、分割され英国政府は 1895 年に東アフリカ保護領を確立
し、肥沃な高地を白人移住者たちに開放した。ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進
出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888 年には沿岸部が帝国イギリス東アフリ
カ会社 (IBEA) により統治されるようになった。1895 年にイギリス領東アフリカが成立。

1895 年‐1901 年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896
年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国に根拠地を移
した。1902 年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部
に広がった。1903 年に鉄道はウガンダまで延びた。1920 年には直轄のケニア植民地となる。

移住者は参政権を与えられていたが、アフリカ人とアジア人は 1944 年まで直接の政治参
加を禁じられていた。多くのインド人がケニアに連れてこられケニア・ウガンダ鉄道線の
建設に従事し、その後定住して、インド商人が多くの親族を呼び寄せた。

1942 年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が、英国の支配からの自由を
求めて秘密裏に結束しマウマウ運動が始まり、ケニアは独立国への長く険しい道を歩んだ。

1953 年、ジョモ・ケニヤッタはマウマウを指揮したとして起訴され、7 年間の投獄を宣言
された。デダン・キマチは 1956 年にマウマウ暴動での役割によって独立運動の指導者の一
人として逮捕され、植民地主義者たちによって絞首刑に処せられる。ケニアは、1952 年 10
月から 1959 年 12 月まで緊急事態下に置かれ、マウマウの反乱がさらに暴動化し、何千人
ものケニア人が投獄された。この時期、アフリカ人の政治過程への参加が急速に拡大し、
1954 年には三つの人種(ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代
表を送ることを許された。

1957 年、アフリカ人にとって最初となる議会への直接選挙が行なわれ、選ばれた者たち
はジョモ・ケニヤッタの解放に向けて、民衆運動を扇動し、ケニヤッタは 1962 年に解放さ
れ、1963 年 12 月 12 日にケニアは遂に独立を果たす。ジョモ・ケニヤッタは初代首相に就
任、翌年、ケニアは共和国になり、ケニヤッタが初代大統領となり同年ケニアは英連邦に
加盟した。その後、ケニヤッタによる一党国家への道が続いたが、他民族の野党やケニア・
アフリカ民族同盟 (KANU) が組織された。モイ政権、ムワイ・キバキ大統領のあと200
7年以降、政権争いの混迷が続きケニア危機となり国連のアナンによる調停により和解の
合意がなされて、連立政権が成立した。政治的混乱は一応収拾され現在のウフル・ケニヤ
ッタ政権にいたっている。

・ケニアの経済:
ケニアの主要産業は農業であり、GDP の約 30%を占めている、農業部門はケニアの輸出総
額の 65%を占め雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たし人口の約 8 割の人々が
農業によって生計を立てている。ケニアの特産物は紅茶、コーヒー、園芸作物である。特
にコーヒー豆はヨーロッパでは第 1 級の品質として評価が高い。自然条件(起伏にとんだ
国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成によって欧州
連合(EU)向け花卉は、最大の供給源となっている。

・ケニアの民族・宗教・言語:ケニアにはキクユ族、ルオ族、カンバ族、マサイ族など 42
の民族が存在していると言われる。ナイロビ周辺ではキクユ族が 5 分の1を占める。ケニ
アの国語はスワヒリ語、公用語はスワヒリ語および英語と定められている。ケニアには英
語やスワヒリ語の他に 60 以上の言語が存在しており、大きく分けてニジェール・コンゴ語
族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語が
ある。

宗教はキリスト教(プロテスタント)40%、カトリック 30%、イスラム教6%、その他
伝統宗教 23%である。アフリカ独自のキリスト教一派も存在している。
ケニアの言語は、スワヒリ語であるが、ほとんどのところは英語で通じる。スワヒリ語
の発音のポイントは、後ろから 2 番目の母音を強く発音することだそうだ。たとえば、日
本語で「問題ない」の「ハクナマタタ」でいうと、後ろから 2 番目の「タ」を一番大きく
発音するということだそうだ。“JAMBO(ジャンボ):こんにちは”と“ASANTE SANA
(アサンテサーナ):どうもありがとう”の 2 つは何とか覚えた。

・「少年ケニア」:日本人には山川惣治作の絵物語「少年ケニア」が懐かしい。アフリカの
ケニアを舞台に、孤児になった日本人少年が仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物た
ちと冒険をする物語である。1941 年 12 月日本が真珠湾を攻撃し米英と交戦状態にはいり、
日本の商社マンとして英国植民地のケニアに駐在していた村上大介と 10 歳になる息子のワ
タルは捕まるのをおそれ自動車で奥地へと逃れたストーリーでラジオドラマや映画になっ
た物語である。グローバル化が進み少年のころ別世界と思っていた地にも足を踏み入れる
ことができた。

6.「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイヤモンド著)という本がある。人類の歴史文化の
展開が銃と病原菌と鉄によって変革を受けて原始人類の営みが栽培化や家畜化が行われ大
陸内や大陸間で伝播と拡散が起き人口の分布が環境要因的にできてきたという人類史の研
究著作である。鉄器で武装した白人が石器をつかう狩猟民を追い払い、アフリカの民同士
でも狩猟民コイサン族は農耕民であるバンツー族から疫病をうつされ激減してしまった。

侵略した農耕民であるバンツー族はマラリアに対する抵抗力を遺伝的にもっていたがコイ
サン族は持っていなかったためである。東西移動が容易で発達したユーラシア大陸とは異
なりアフリカ大陸は南北に長い陸塊であるため作物や家畜の拡散が妨げられ伝染病による
全滅もあった。南北に移動すると横切る地域ごとに気候、降雨量、日照時間、作物や家畜
の病気が非常に異なる。エジプトで主要作物となった大麦や小麦はほかの地域へは伝播し
なかった。赤道アフリカのツエツエバエは野生動物は抵抗力をもっていたがバンツー族が
サヘル地域で手に入れた牛は南下して全滅してしまった。植物の栽培化や動物の家畜化に
よる食糧生産の歴史が特徴的にあらわれている大陸である。

食料の生産が究極の原因となって、人々は高密度の人口を支えられるようになった。細菌
に対する免疫を発達させさまざまな発明や技術革新、政治機構をつくりだしたのは動植物
の飼育や栽培である。「歴史は民族によって異なる経路をたどったが、それは居住環境の差
異によるものであって、民族間の生物学的な差異によるものではない。」ここには現代にも
繋がる「持てる者」と「持たざるもの」との大いなる差異と格差がある。スペイン人の持
ってきた「銃・病原菌・鉄」によって南アメリカ大陸は征服されたが、アフリカはその後
の大航海時代のユーラシア大陸からやってきた人々によって大きく変わった。

この本の最終章に「アフリカはいかにして黒人の世界になったか」がある。元来アフリカ
大陸は黒人ばかりではなかった。黒人が先住民であり白人はあとからやってきた侵入者で
アフリカの歴史は植民地主義と奴隷貿易によって彩られているという先入観を持つことが
多いが、数千年前までブラックアフリカに広く分布していたのは、黒人とはまったく異な
る人種であったという。多種多様で世界の主要な 6 つの人種のうち 5 つの人種が暮らして
いた。その内の 3 つはアフリカ大陸固有の人種で、世界の言語のうち 4 分の1がアフリカ
大陸にしか分布していないものである。アフリカは南北 2 つの温帯にまたがる唯一の大陸
であり世界でもっとも乾燥した砂漠や最大規模の熱帯雨林や、赤道地帯最高峰の山々があ
る。人類はアフリカ大陸でもっとも長く暮らしており、約 700 万年前に人類の祖先が誕生
し現生人類の祖先であるホモ・サピエンスが現れたのもアフリカである。多彩な先史時代
は多くの人種が長期間にわたって相互に影響しあっていた。

西暦 1000 年ごろアフリカには黒人、白人、アフリカピグミー族、コイサン族、アジア人と
呼ばれる 5 つの人種がいた。黒人はかつてアフリカ大陸以外の土地には住んでいなかった。

サハラ砂漠周辺地帯やサハラ以南の地域に住んでいた。ズールー族、ソマリ族、イボ族と
分類することもある。アフリカ大陸の白人はエジプト、リビア、モロッコのサハラ砂漠以
北や北アフリカに住んでいた。エジプト人やベルベル人と分類することもある。これら白
人や黒人の多くは農耕や牧畜を営んで暮らしていた。一方ピグミー族やコイサン族は狩猟
採取民であり作物や家畜を持っていない。ピグミー族は黒人のように皮膚の色が濃く、髪
もちりぢりによじれているが体型は黒人よりもはりかに小柄である。皮膚の色も赤褐色か
ら黒褐色に及んだ濃色である。顔や体が毛深く額や目、歯の部分が比較的出っ張っている。

中央アフリカの熱帯雨林に広く分散し小さな集団を形成し狩猟採取生活をおこない近隣地
域で農耕を営んでいる黒人と交易を行いながら暮らしている。コイサン族はかつてブッシ
ュマンと呼ばれアフリカ南部に広く分布し、小規模な集団の狩猟採取民のコイ族と比較的
大きい集団で牧畜を営んだサン族に分かれている。黒人とかなり異なる外観で皮膚の色は
黄褐色で髪はきつく縮れている。コイサン族はヨーロッパからの植民者たちに殺されたり、
住んでいた土地から追い払われたり、病気をうつされたりして人口が激減してしまった。
現在は農業に不適なナンビアのカラハリ砂漠で暮らしているだけである。アフリカのアジ
ア人はインド洋をわたってマダガスカル島に入植した熱帯東南アジアの要素をもちインド
ネシア人と同じオーストロネシア語族を話す民族である。

アフリカの言語は1500におよびその関係は複雑極まりない。人種と言語の対応がら文
化の伝播と歴史を研究する比較言語学の一分野に言語年代学という学問がある。言語の変
化が計算可能な割合で起こるという仮定に基づいて農産物の伝来や栽培化の時期を推定す
る学問でアフリカの言語を 5 つの言語ファミリーに分類した。アフリカ各地で話されてい
る言語の間で、同じ農産物を指す単語の形を比較することによってそれぞれの祖語が分か
るのである。サハラはいまよりも湿潤な地域で湖沼も豊富で猟の獲物になる動物もたくさ
ん生息していた。牛を飼い土器もつくり羊や山羊を飼い始めトウモロコシ類やトウジンビ
エの栽培化に着手したようだ。ナイル・サハラ地域ではトウモロコシ類やヒエ類を栽培し
ていた人がナイルーサハラ諸語の祖語を話していた。エチオピアでも食糧生産がなされコ
ーヒー、テフなどの土着種を栽培していた人びとがアフロ・アジア語の祖語にあたる言語
を話し肥沃三日月帯の農作物を北アフリカにもたらしたという。

西アフリカの湿潤な土地で土着種のヤムイモ、アブラヤシ、コーラナッツなどを栽培して
いた人びとはニジェール・コンゴ語の祖語に当たる言語を話していた。西アフリカの東部
に位置するカメルーンとナイジェリアで生まれ赤道アフリカ一帯に拡散したバンツー祖語
は500もの言語分岐があるが、独自の言語をもたない狩猟民のピグミー族と独特のクリ
ック音(舌打ち音)のあるコイサン諸語のコイサン族の居住地は、黒人の農耕民バンツー
族に取り囲まれてバンツー語族の地となってしまった。熱帯アジアからマダガスカルにき
てバナナ、アジアヤムイモを栽培していた人びとはオーストロネシア語の祖語にあたる言
葉を話していたという。

西洋文明は近東を発祥地としギリシャ・ローマ時代を通して目覚しい発展を見せ世界の3
大宗教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教を誕生させた。この三つの宗教はアラム
語、ヘブライ語、アラビア語というセム語グループに属している。しかしセム語族はアフ
ロ・アジア語ファミリーの1つに過ぎない。セム語族以外の222の言語が見られるのは
アフリカ大陸のみであり、セム語族に属する諸語がアフリカに19あるがその12の分布
がエチオピアのみに分布している。アフロ・アジア語がアフリカ大陸を起源としそのうち
の1つの語族だけがアフリカ大陸から近東へと拡散していったという。そして西洋文明の
精神的支えである新・旧約聖書やコーランを表した人びとの言語はアフリカ大陸で誕生し
た可能性が強いようだ。西洋からのアフリカ大陸の侵略、略奪、植民地化と解放の歴史に
加え現代のイスラム過激派のテロや宗教運動の混乱は長いアフリカの人類史のなかの1ペ
ージに過ぎないのではないかと思う。ここには別世界の大いなる時間と空間がある。

7.現代にもとる。不思議なのは中国、インド、東南アジアからの日本への観光客のみな
らず貧しいはずの海外途上国の現地の人たちの多くがケータイ電話を持っていることであ
る。しかもスマホである。毎月 1 万円近くの料金を請求される日本の年金生活者にはガラ
系ケータイしか持つことができないのになぜ多くの人がケータイ電話をもっているのか疑
問に思っていた。ドライバーに聞いてわかったのだが電話機と料金体系がシンプルで安い。

ケニアの場合電話機は約 2000 円、料金はプリペイドの SIM カードを入れて使用分のみ払
い必要なら TOP-UP する仕組みである。最低 1000 円のカードから使えるようになってい
る。つまり 3000 円ほどあれば使いえるのだ。それに比べ日本のケータイ電話は、高い機種
を買わされ 2 年間更新できないしくみである。日本のケータイ電話料金体系は海外と比べ
高すぎるのではないかと思う。近所の老人が店員に勧められてスマホを買ったが使い方が
良く分からないまま毎月 1 万円近く使用料金を払っているという。寡占体制で選択肢のな
い日本の消費者は国際的にひどく高い料金を払わされているに違いないがあまり苦情を言
うことはない。

ともあれ、日本以上にケータイながらドライブの取締りが厳しいのはこの国の警察の利権
らしい。賄賂の横行も多いようだ。治安が悪いことの現れか何処を走っても検問や警官や
銃を持ったセキュリティー、ガードマンを多く見かける。ホテルやショッピングセンター、
大学に行くにも毎回車のトランクを開けてチェックされる。

 もうひとつ、駐在する大使館員からきいたこの国の人のキャラクターを紹介する。朝夕
のみならず市内へ出入りする道路の渋滞が酷いがその理由は、特に給料日の渋滞が酷くな
るというものだ。通常 30 分でいけるところが 3 時間かかることがある。この国に人は見栄
っ張りなところがあって車は中古車が安く買えて購入するが、動かすガソリン代がない。

給料日になると嬉しくなって見せびらかすために車を運転するので混雑するらしい。宵越
しの金はもたない主義のようだ。また日本の中古車がそのまま運転されている。マイクロ
バスなどxxx保育園とかxxx健康ランドという広告をつけたまま町を走っている。タ
クシーも日本の塗装カラーそのままで乗っているところが滑稽である。ナビも日本語の地
図がそのままになっておりいろいろ日本人に聞くらしい。

7. 同行した PM の K 氏が仕事熱心で、夕方宿舎到着後すぐに事務所に行こうという。徒
歩 15 分の場所にある。時間の節約とコストダウンかもしれないが見知らぬ土地の徒歩は最
も危ない。車はドライバーの現地情報が入るしボディガードにもなる。前回はホテルと事
務所を毎日往復したのでタクシー代と時間がかかった。道路渋滞も多いので事務所へ徒歩
でいける場所をネットで探したので今回は近所にしたという。宿はこぢんまりとした B&B
のようなところで長期滞在にはリスキーであると感じた。一応門があってセキュリティー
もいてそれなりにいるが、部屋の修理やらいろんな人が出入りしている。外国人が滞在し
ているという情報を誰かが悪い仲間に知らせるかもしれない。徒歩が怖い。雨の日もある。

事務所からの返り道を夕方 3 人で歩いた。特に雰囲気は悪くなかったが数日の短期滞在な
らともかく長期に外国人が一人で滞在していることが分かれば狙われるかもしれない。夜
の一人歩きは特に危険である。一日目はホテル内のレストランで夕食をとることにした。
エレファントという名前のケニア産ビールが美味かった。

8.2 日目は、Y 女史と 2 人でナイロビ市郊外にある JOMO Kenyatta University を訪問
した。大学は安全な場所ではない。日本でも報じられたが今月の始めソマリア国境近くケ
ニア北東地域の町ガリッサにある大学がテロの銃撃テロにあったが本校の姉妹校であった。
ジョモ・ケニャッタは独立の英雄の名前である。姉妹校のガリッサ大学及び学生寮を武装
集団が襲撃し,学生を人質にして立て籠もり148人が死亡,104人が負傷し実行犯4
人は全員死亡している。ソマリアのイスラム過激派組織アル・シャバーブ(AS)が犯行
声明を発出し,キリスト教徒を標的とした旨表明している事件である。

ケニアは、東アフリカ地域経済の中心として発展し、サファリや海岸などの観光資源に
多くの観光客を集める一方、国内での貧富の格差拡大による都市部スラムへの人口流入、
異なる部族間の土地や資源を巡る対立、ソマリアなど不安定な近隣諸国からの難民や違法
武器・物資の流入などを背景に、各地で様々な凶悪犯罪や暴力事件が多発している。独立
以来資本主義体制を堅持し、東アフリカではもっとも経済の発達した国となったが、政情
不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱えている。隣国ソマリアは、
貧しくイスラム過激派組織「アル・シャバーブ(AS)」が武装活動を行っており、その活
動範囲は国境を越え、ケニアを含めた近隣諸国に及んでいる。ケニア軍がAS掃討のため
ソマリアに侵攻して以来、ナイロビにおいてもAS関係者の関与が指摘されるテロ・襲撃
事件が多発している。

同大学の一部である Pan African University の工学部に対し実験教育機材を日本の
ODA 資金で機材供与契約しており受け入れ側の設備工事の進捗状況をチェックするための
訪問であった。学校の構内は庭が整備されており静かで広いキャンパスがありまた教授室
も広い。日本のマスプロ私立大学よりもはるかにゆったりとした環境の教育施設である。

インドネシアや中東などの大学も尋ねたことがあるがいずれも大学の居住環境はすばらし
く整っている。日本の資金が外国で日本人よりもはるかに立派な施設で教育が受けられる
ことに矛盾を感じた。ODA ビジネスは政府間外交の一部として政治的に進められているの
だ。供与機材が設置される建屋の工事はひどく稚拙である。クレーンなどの重機は使わず
すべて人力で進められている。コンクリート鉄骨も細く枝を取っただけの雑木の足場が組
まれている。ヘルメットなど誰も持っていない。搬入道路もぬかるみの悪路のまま工事が
進められていた。面会した教授は背広をきた紳士で物静かに語る知的雰囲気の先生であっ
た。我々を工事現場まで案内してくれたが実際の現場に足を向けることなどほとんど縁の
ない大学教授のようだ。この国の貧富の差の激しさとともに教育レベルの格差の大きさも
感じた。大学からの帰途は、往路とは別の道を宿舎まで戻った。前日問題をおこしたドラ
イバーはやめて昔から同事務所の馴染みのベテランドライバーに変えてもらった。気を利
かせて大統領官邸前を通ってくれた。緑の多い地域で並木道の両側に高級邸宅が続き各国
の大使館が並んでいる。ジャンガラヤの赤紫が美しい。中央に警備の厳しい立派な門があ
って大統領官邸があった。この付近は通行時間制限があり写真禁止になっているので車内
からでも撮らないでほしいと注意された。

遅い昼食を事務所近くの Westgate ショッピングセンター内の中華料理店でとった。この
ショッピングセンターは外国人やケニヤ人富裕層が利用する高級ショッピング・モールで
あるが一昨年秋に武装集団 AS により襲撃され外国人を含めた 67 人が死亡、175 人が負傷
している。入場には空港同様の厳しいチェックがあった。食事のほうは最近中国人が多い
せいかでできた点心や酢豚などの庶民的中華料理で美味かった。事務所から宿舎までは近
いので 3 人で歩いて帰ってみた。人通りのすくない住宅地のデコボコ路だった。複数なら
ともかく一人の夜道は危険だと主張したのは自分だけで旅慣れた 2 人からは浮いた意見だ
った。

9.3 日目は、在ケニア日本大使館を訪問した。2 人の若い一等書記官から翌日のプレゼン
テーション資料について事前にコメントを受けた。大使館の警備は厳重で入場するまで 10
分以上かかった。犬が車にのってきた。爆弾感知の訓練犬のようだ。大使館内は日本の高
級事務所と変わらない。庭が見える豪華な応接室で打ち合わせた。

昼食は、K 氏がすすめるアルゼンチン・レストランに入った。何ということはないアルゼ
ンチンとは関係ない肉の BBQ ブッフェレストランである。ケニアは肉料理が自慢料理であ
る。サラダのあと次から次へ大串にさした肉をテーブルまで運んでくる。チキン、ポーク
リブ、ビーフ、マトン、エビまでは普通であったが、ダチョウ、七面鳥、ワニの肉が出て
きた。味付けは BBQ ソースで悪くなかったが量が多い。焼き鳥のハツ、ミノ、カワのホル
モン肉を食べているような食感だった。ケニアの衛生は飲料水はミネラルウオータが必要
であるが、乾燥地のせいか食事の清潔度はインド程汚れていないようだった。しかし生物
は要注意である。スパーリング・ウオーターを飲む。

事務所にもどると K 氏が明日のプレゼン資料の準備で遅くまで熱心に仕事をつづける。
女史は別の客に会いに行くというので一人徒歩で宿舎まで戻ることにした。歩いて 10 分ほ
ど PC を入れた重いカバンを持って帰った。夕方であったがまだ明るかったのでデコボコ道
を注意しながら歩いた。大きな男が後ろから歩いていたので気持ちは良くなかったが特に
何もなかった。

宿舎に帰り休息しようとすると隣の部屋を改造している。ハンマーの音がうるさくてと
ても部屋にいられない。TV も壊れている。シャワーをしようとすると熱い湯が出ない。ボ
ーイを呼んでクレームする。少し待てといろいろ修理している。昨夜も同じことがおきて
30 分ほど修理を待った。昨夜はなんとかお湯が出たが、今日は直らないとギブアップして
きた。仕方がないので、宿舎内の野外レストランでコーラを飲んで休憩した。臨席では近
所のケニア人高級マダムたちが談笑していた。

夜2人がバラバラに宿舎に戻ってきて食事に誘うが外に行く気はしないので、ホテル内
のレストランで軽食をとることにした。ミートソース風スパゲティを食した。アルデンテ
ではなかったが味は悪くない。ケニア人は英国植民地で英国流の教育を受けているが料理
についてはイギリス人よりも上手なようだ。

10.4日目は今回の目的であるケニア政府とのミーティングである。環境省は中央省庁
街にあって入場には厳重なチェックと受けてビルに入った。近代的庁舎ビル内は日本の庁
舎のように背広とネクタイの公務員が勤務している。迎えに来た係官と共にエレベータに
同乗して 17 階の会議室に入る。Board Room らしい革張りの椅子が並ぶ大会議室である。

程なくして環境省の M 局長が部下数名をつれて入ってきた。会議開始後も後続が入り日本
人 3 名に対してケニア側の参加者は 15 人であった。M 局長が流暢な英語で議長役をつとめ
る。日本の ODA 援助に対する謝礼挨拶とメンバー紹介がありプロジェクトのキック・オ
フ・ミーティングが続いた。M 局長は年の半分以上が外国出張という多忙なエリートであ
る。アメリカではケニアの血が入っているオバマ大統領にも面会しているキーマンであっ
た。話ぶりは温和であるが褐色の笑顔の中の眼光は鋭い。映画俳優のようないい顔をして
いる。議事進行は、民主的でスタッフからの質問を多く求め各部書からのいろいろな意見
を調整しながらすすめられ手際がよい。最後にまとめが行われ会議の成果が表明された。
プレスが写真撮影する。今日の会議は地元の新聞にも掲載されたようだ。

会議後、官庁車で施設の設置候補場所まで案内してくれた。市内庁舎から約 1 時間の郊
外のガタガタ道を走って到着した。送電線以外何もない荒れ地がサイト候補のようである。
向こうの方にナイロビ川があって本プロジェクトで橋をかければ搬入の近道ができると説
明する。下水処理場も近くにある環境省の保有の敷地らしい。大使館員によるとナイロビ
川は固形廃棄物の投棄が酷く汚染された川になっているとの由。都市ゴミ・固形ゴミの不
法投棄や道路事情の悪い国である荒れ地の中に設置される医療廃棄物設備の完成後の姿を
想像した。

夕食は、M 局長と秘書の 2 人、大使館書記官を日本料理屋に招待して 10 人で居酒屋風料
理を食した。M 局長は食事でも雄弁で日本に滞在したときの生魚の刺身や生卵にびっくり
したエピソード話など会話が絶えない。リラックスした笑いの絶えない 2 時間ほどの懇親
会となった。明るいケニア人の印象を受けた。

11.5日目最終日は帰国である。宿舎をチェックアウト後、空港への途中にあるサファ
リ・パークを観光して帰ることにした。ワニ、アフリカ象、キリンなどそれぞれのミュー
ジアムがあった。動物園を大きくしたようなアミューズメント・パークでイギリスからの
団体観光客と一緒になった。イギリス人は家族連れバス旅行のようだ。18 時間かけて日本
からやってきた我々と違って旧英領植民地を旅するイギリス人には国内旅行と変わらない
ように見える。みやげ物売り場も英国内の SHOP と似ている。Wild Life Trust のメンバー
マークもあった。しかし動物は動物園ではなくサファリの自然で見るべきである。サバン
ナの中を格子つきのパジェロ車で走るツアーがあるらしい。自然を愛し野生動物の保護に
つとめるケニアの環境省(Ministry of Environment, Water and Natural Resources)の人
たちと面談できたのは意義深いことであった。一方、今回の日本の ODA 医療廃棄物処理プ
ロジェクトに従事することの困難と危険を予想しながらドーハ経由 18 時間の帰国の途につ
いた。

以上



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