5320.仏教には段階がある



昨日、ある仏教教団の信者と初心者と私が話した。私が修行中に、
無心になることが重要であると言ったら、初心者は、それならぐっ
すり寝るほうが無になれるよと。

私は、無の先にやるべきことがあるので、全ての脳を休ませてはい
けない。自分には認識できないことを、自分がもつ感覚が感じてい
るために、言語や論理を司どる脳を休めせて、その裏にある感覚の
刺激を感じたいから、瞑想をするのであると話した。

しかし、初心者は、座禅すると、直ぐに背中が痛くなり、足が痛く
なる。辛いという。それは最初にはそのような状態になる。そこを
我慢すると、だんだんなくなる。もちろん、姿勢が重要であり、姿
勢を長期にしても疲れない姿勢にすることが重要なのである。

そして、次に来るのが妄想であり、この妄想を止めるには、3つの
方法がある。1つが、内観(体の中に意識を向ける)、2つにお題
目を唱えること、3つが、そのまま妄想を見つづける。そのうち、
妄想も尽きる。只管打坐である。

その次に、自分の感覚を見る。内観、自分が持つセンサと言っても
よい。お題目を唱えると、この境域に行けない。教団の信者は、無
の境地だけではいけないのかという。無の境地になったら、お題目
を止めたほうが良いと言った。

自分に認識されていない感覚は、非常に刺激が小さいので、その小
さな刺激を感じるためには、余計な感覚が無い方が良い。このため
、自分に欲があっても見えなくなる。欲を持つこともいけないこと
になる。この非常に小さな刺激を認識することが自分の仏性を体現
させることなのであると、教団の信者には言った。

刺激を認識するとは、言語化することでもある。

しかし、教団の信者は、そこまで行くには長い時間が必要なのでし
ょうねと質問があり、私は、そのとおりであり、普通はできないの
で、僧侶が代表して、訓練して、その境地になって、皆を助けるこ
とが必要なのである。そのため、お布施をして、生活の糧を信者が
寄付しているのである。

しかし、このことを今の日本の僧侶は、認識していないことで、仏
教は近々、なくなる危機になっているのである。末法の世になって
いる。

教団の信者は、どうすれば良いのかと聞くので、仏教を脳科学で説
明して、若者にわかるように仏教の商品を説明することが必要であ
ると話した。

そして、仏教は、脳科学で証明できるところまで来たようである。



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