5185.井筒俊彦はドンガバチョのような天才かもしれない



法螺吹きの井筒俊彦は、もしかしたら、ドンガバチョのような天才かもしれない
From: Kumon Kimiaki TOKUMARU
皆様、

井筒俊彦生誕100年記念トークセッション 「伝播する井筒俊彦」に参加して
きました。

井筒全集の編集委員である鈴木孝夫先生もいらしていて、関係者席(といって
も、けっこう広かったので、S席扱いという程度でしたが。一般参加者が A席
という感じ)に座っておられました。

僕は、高校生のときに、鈴木孝夫著『ことばと文化』(岩波新書)を読んで感動
し、大学生のときに、井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』(岩波新 書、黄
版)を買って、さっぱり読む気がわかず、積読にしていたことを思い出しました。

このお二人が、何年も起居を共にした師弟関係にあったことを知ったのは、今か
ら10年前ですが。当時も、そのような記述はまったくありませんでし た。

しかし、井筒俊彦は、青版ではなく黄版でしたし、ことばではなく「言葉」と
「コトバ」という表記にこだわったのは、破門された弟子に岩波新書の先をこ
されたことを恨んでいたからでしょうか。

この『ことばと文化』は、弟子が師に送った決別の書ということですが、師とは
まったく異なる明快、すっきりした言葉づかいには、今も感動します。

「意味」とは、「ある言葉に付随して生まれた経験の記憶」であり、「記号」と
は、ティンバーゲンの実験・観察を参考にして、「脊髄反射を生みだす 視覚・
聴覚刺激」というわけですから、意味論・記号論がゴニョゴニョと意味不明なこ
とを言い続けているなかで、もっとも端的で鋭い定義に到達した のが鈴木孝夫
先生であったということになります。

しかし、もしかしたら、それは井筒俊彦が、大きな声で法螺話をするから、それ
をバネとして生まれたものかもしれない、と今日、思いました。


タカの会で何度か取り上げましたが、名著『ことばと文化』のなかで、ひとつだ
け間違っているのは、「分節」を「ものに名前を与えること」としたところです。

鈴木先生や今年お亡くなりになられた松原先生は、「それは井筒先生が教えてく
ださったことだから」とおっしゃって、意に介しませんが、世界中で、 「分
節」を「ものに名前を与える」という意味で使っているのは、井筒俊彦と三田系
の弟子しかいません。

抽象概念の間違いは、正しようがないのでしょうか。

しかし、しかしながら、井筒俊彦の誤った概念のおかげで、『ことばと文化』に
ひとつだけ異物が混入していることがわかり、それをきっかけに「文 節」、
「分節」、「ランガージュ・アルティキュレ」、「アーティキュレイテッド・ラ
ングエッジ」といった概念を調べて、チョムスキーの犯罪的な翻 訳に気づき、
フランス語の分節がじつは文節と同じように「文法+概念」の最少意味単位であ
ることに気づいたのです。

日本語の「文節」と、フランス語の「ランガージュ・アルティキュレ(分節)」
が、ともに「ひとつの概念+ひとつの文法」という定型であることに気 づかせ
てくれた井筒俊彦って、ドンガバチョ(NHKの子供向け番組「ひょっこりひょうた
ん島」の村長)のようにすごいのかもしれないと思いまし た。

分節概念の誤りをどうするかという問題よりも、分節と文節がじつは同じである
ことの方が重要ですから。

鈴木先生の名著『ことばと文化』も、きっと、井筒俊彦抜きでは生まれなかった
わけで、デジタル言語学も、言語学界のドンガバチョの存在がなかった ら、文
法の処理メカニズムを解明できなかっただろうと思った次第です。


井筒俊彦、生誕百年に乾杯!

得丸



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