5130.誤りも伝播する井筒俊彦



誤りも伝播する井筒俊彦  生誕100  年シンポジウム 11  月8日
皆様、

慶應大学出版会にも、ねんのために、分節概念の誤りについて書き
送ってみました。
無視される可能性が高いですが、、、、
せっかくの名著「ことばと文化」に残る一点の誤りが、気になって
しかたないのです。

慶應大学出版会 御中

非常に興味深い企画をありがとうございます。

井筒俊彦の「分節」概念は、「ものに名前を与える」という作用に
対して与えられた名前です。鈴木孝夫先生の「ことばと文化」のな
かでも、そのような記述に出会いました。

しかし、「ものに名前を与える」のは、本来「概念」化ではないか
と思います。

「文節」という概念は、「概念語と文法語」をひとつながりにして
言葉を紡ぐことに向けられた橋本進吉の用語です。「分節」もそう
理解するのが正しいのではないかと思うのです。

というのは、この橋本進吉文法の「文節」と、フランス語の「分節=
ランガージュ・アルティキュレ」が実は同じではないかと思うから
です。

なぜなら、フランス語のランガージュ・アルティキュレは、常に冠
詞をつけて表現することを指しているからです。
タブルtableではなく、ラタブルla table, レタブルles tablesとい
うのが分節の意味なのです。

つまり分節・文節とは、概念語と文法語をひとつずつ結合させて意
味の最少単位をつくりだす技といえます。それが日本語では「概念
1+文法1」「概念2+文法2」「概念3+文法3」として「月日
は」「百代の」「過客にして」と紡ぎます。
フランス語では、概念と文法の順番が逆になって
 [la porte][est ferme'][devant Jacques]というふうに紡ぎます。

この音韻構造によって、ヒトは概念と文法を同時に処理しつつ意味
を紡いでいくことができるのです。ヒトの言葉の意味のメカニズム
を理解するにあたって非常に重要な概念です。

井筒俊彦の「言語学概論」の講義録によれば、井筒も最初は「文節
」という言葉を使って、授業を行っていたようです。

鈴木先生は、井筒俊彦に誤った分節概念を教え込まれたために、「
ことばと文化」に一点だけ誤りを書いたままになっています。
私はそれが惜しくて惜しくて、とても残念に思ってきました。

しかし、鈴木先生に何度申し上げても、「井筒先生に習ったことだ
から」と言われるばかり。亡くなられた松原秀一先生も鈴木孝夫研
究会の会誌で、井筒さんにそう習ったと書いておられます。

万一、井筒さんが間違っていたらどうしたらよいのですか。

誤りも伝播する井筒俊彦という問題、考えてみる価値ありではない
かと思いますが、いかがでしょうか。

そのような試みはなかなかもてません。慶応OBの方々が誤った「分
節」概念の呪縛から逃れるよいチャンスではないかと思うのです。

得丸
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得丸さん

最近毎朝、公園で中国体操をしており、その後太極拳の一種である
易筋経という気功を近所に住んでいる中国女性(日本人と結婚して
いる中年女性でカタコトの日本語)から見よう見まねのジェスチャ
ーで習っています。合気道を英語で外人に教えるのとは逆のパター
ンで動作から中国語を理解しようとするのですが、毎日同じ事を繰
り返すことで結構分かってくるものだと思いました。おなじ漢字文
化ですが、中国語にはピッタリと日本語の単語一言では表現できな
いことばもあるようです。(1対1の対応関係ではない)
さて、貴メールの文節(文節)について井筒・鈴木論文に誤りと指
摘されているところが良く分からないので調べてみました。手元に
ある資料を抜書きしてみましたが、結論は「分節」の使い方として
は誤りはないと思います。井筒先生の本は内容が極めて哲学的です
ね。

1.橋本新吉
「言語はすべての一定の音に一定の意味が結合して成り立つもので
あって音が言語の外形をなし、意味がその内容を指しているのであ
る。かような言語の外形を成す音は、どんなになっているかを考え
てみるに、個々の単語のような、意味を有する言語単位は、その音
の形は種々さまざまであって、これによって、一つ一つ違った意味
を有する種々の単語を区別して示しているのであるが、その音の姿
をそれ自身として観察してみると、一定の音の単位から成り立って
いるのであって、かような音の単位が、ある場合にはただ一つで、
ある場合にはいくつか組み合わされて、意味を有する個々の言語単
位の種々様々な外形を形作っているのである。」(「国語音韻の変
遷」橋本新吉より)

・    文節とは日本語において、自立(名詞、動詞など)に接語が
つながった発音上の短いてある。接語はないこともある。文節の切
れ目は終助詞んp「ね」を挟みうるかどうかで判断できることが知
られていて、文節間には係りうけ(シュウショク)の関係が定義さ
れる。

 例1「あの・人は・私の・甥です。」
 例2「太郎は・荷物を・しっかり・抱えた。」
 
2.井筒俊彦
・    「分節」とは、切り分け、分割、区画付けを意味する。区画
機能を行使するものは、ことばの意味、つまり「分節する」とは言
語意味的事態である。われわれの実存意識の深層をトボスとして、
そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜在す
る意味カルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成
されてきた意味の集積)の現象化志向性(=すなわち自己実現、自
己顕現的志向性)に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的
な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が
走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の言語的符
丁(=名前)を負って現出すること、それが「分節」である。我々
が経験世界(=いわゆる現実)で出遭う事物事象、そしてそれを眺
める我々自身も、全てはこのようにして生起した有意味的存在単位
にすぎない。存在現出のこの根源的事態を、わたしは「意味分節・
即・存在分節という命題の形に要約する。
(「意識の形而上学」井筒俊彦 P29)

3.鈴木孝夫
「ことばが、私たちの世界認識の手がかりであり、唯一の窓口であ
るならばことばの構造やしくみが違えば認識される対象も当然ある
程度変化せざるを得ない。なぜならば、

ことばは、私たちが素材としての世界を整理して把握する時に、ど
の部分、どの性質に認識の焦点を置くべきかを決定するしかけに他
ならないからである。」(「ことばと文化」鈴木孝夫 P31)

「ことばというものは、混沌とした、連続的で切れ目のない素材の
世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕方で、
虚構の文節をあたえ、そして分節する働きをもっている。言語とは
絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区分され
た、ものやことの集合であるかのような姿の下に、人間に提示して
見せる虚構性を本質的にもっているのである。」(同上P34) 
************* 文をどのように切り取るかは、それぞ
れのことばによって異なるものである。フランス語では冠詞をつけ
て分節するのが有意義であろうし、日本語は助詞をつけて分節する
のが有意義であろう。音韻の区切りかたは、ことばによって異なり
、分節(文節)が「概念+文法」をつくるが、名詞の単語が概念を
生むことには間違いはない。井筒、鈴木、橋本の論に食い違いはな
いと思う。

外国人が日本語を学習するのにもっとも苦手なところは、助詞の使
い方であろうと思う。「てにおは」の修正は日本人であっても校正
される。接語としてそれぞれの意味をもつものではなく文として完
成させたとき見直し「右を見て」から「右に見て」と誤りを修正し
たりするからやっかいである。外国人は面倒だから「右見て」と省
略することが多い。

ドイツ語やフランス語などには名詞に男性名詞、女性名詞、中性名
詞があってそれぞれにつく冠詞がDER、DES, DENと異なる。(フラ
ンス語ではLE, LA,LES。)

 このような名詞に違いのない日本人にとって性のある名詞を使い
分けるのはひどくやっかいである。しかし、おそらく子どもの頃か
ら母語としている人は、冠詞と一緒に覚え、タブルtableではなく
、ラタブルla
table, レタブルles tablesというのが分節で概念が生まれ意味と一
緒におぼえているのだろうと推察する。日本人の子どもが外国人よ
りもうまく「私は・椅子に・座る。」と分節で覚え話せるようにな
るのも同じであろう。日本人の苦手な冠詞、英語においての不定冠
詞と定冠詞の使い方もNATIVEは大人になって受験勉強で覚えるよう
なことはしておらず子どもの頃から使い分けているのだと思う。

文節は「概念+文法」を生むが単語も概念を生むという論には異論
はない。どの箇所を誤りといているのか不明です。 

最近読んだ本のなかでヒトのことばの要件として「象徴性」「構成
性」「統合性」「超越性」をあげていて鳥や「動物のことば」とよ
ばれるコミュニケーション体系とは異なる指摘があった。その中で
「超越性」という要件があげられていた。ある種のツバメが、敵が
不在なのに警戒声を発し、ライバルを駆逐してエサを食べていたと
いう報告がある。小鳥やクジラの歌は複数の音の組み合わせからな
っている。これらの要素は学習によって獲得され文法的な要素配列
規則がある。しかしそれぞれの要素が特定の意味に対応しているわ
けではなく、組み合わせが変わることで意味が変わることもない。
「統合性」はあるが、その他の性質は持っていない。小鳥やクジラ
の歌は求愛のためのコミュニケーション行動でありことばではない。
 「超越性」の 例としてヒトには「色のない緑が猛烈に眠る。」と
いう文ができる。

言語というシステムが示す対応物は時空間の対応物を超越している。
言語により空間的時間的な制約を飛び越えることができる。この文
自体は正しい文法に基づいているが、日常生活の事象とは対応をも
たない。にもかかわらずこの文を与えられると何らかのイメージを
想起してしまう。シュールレアリズム感覚の詩ができあがる。概念
の形成は文節のみからではなく、できあがった文そのものからも形
成される(試行錯誤して)のではないかと思います。

 小川
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小川さん、

非常に難解な分節・文節論議に、かかわっていただきありがとうご
ざいます。

私が言いたいのは、井筒・鈴木先生が「意味的分節」という形で「
分節」概念を立てること自体が誤っている。

なぜならば、井筒・鈴木先生が「分節」という言葉で言い表したい
のは「概念」として表現するのが適当であるからです。

そして、井筒・鈴木先生のように、「(意味的)分節」という言葉を
使うことで、フランス語の「ランガージュ・アルティキュレ(これは
分節と訳されます)」が橋本進吉文法の「文節」と同じであることが
見えなくなるからです。

このあたり非常に入り組んでいて、何が正しくて、何が誤っている
のかを判断するのは、単に「意味が通る」かどうかではなく、異な
る言語間で同じ現象が同じ言葉できちんと言い表されているのかと
いうことを、考える必要があります。

学際統合と似た、言語体系間の用語統一が求められているのです。

得丸





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