皆様、 デジタル言語学はついに完成した、と思います。 2014年7月4日 午前1時37分 デ ジタル言語学の完成 得丸公明(自然思想家) 一昨日火曜日の夜から今まで丸二日かけて、8月12日の思考と言語研究会に提 出する予稿を英語で書いていた。締切より22日 もはやく初稿を書き上げ、それ がデジタル言語学の完成となると思ったら、ちょっと気分が高まってきて、この ままお風呂に入って寝るという 気分ではないので、考えを整理してみることに する。 今回は、デジタル言語学のこれまでの発展という大まかなタイトルで申し込ん だのだけど、結果的にはだいたいそんな感じになった。 言語は複雑システムである。複雑システムは、学際的広がり・深まりをもち、 目にみえない量子力学現象によって動かされている。 複雑システムを解析するためには、参照モデルと厳密な定義がツールとなる。 スペンサーの言葉「反射は本能である」から、パブロフの条件反射とティン バーゲンの生得解発機構(本能)が同じことに気付くところから解析 は始ま る。そして、イェルネが「免疫細胞は二分法と二元論をもつ」といったことを、 ティンバーゲンの鳥の危険信号と魚の求愛活動という動 物観察にもとづいて理 解し、その二つの論理によって脊髄反射が行われていることを確かめる。さら に、フランス語のランガージュ・アルティ キュレと、日本語の文節が、同じ 「概念+文法」という構造によって、話し手から聞き手に、概念と文法を一次元 的に送るデータフォーマット となっていることを確かめる。 文節の「概念+文法」構造が脳で処理されるとき、それは二元論的に処理され る。概念は音韻波形の包絡面を抗原としてもつ分子が脳幹網様体に 構築され、 脳脊髄液中のBリンパ球が抗体を形成し、大脳皮質ではマイクログリア細胞に抗 原を埋め込んで五官の記憶を保存する。この抗原 抗体反応が意識を形成している。 目玉は、なぜわれわれは文法を無意識に使えるのかという問いであり、答えは 脊髄聴覚神経核による音源方向探 知機能をつかって文法処理を行っていて、そ の結果が概念のパターン認識と統合されるというところにある。 われわれが何か物音を聞くときは、無意識に方向や高さや速度について特定し ているけれど、人の話し声(自分が習熟した言語での)に ついては、片耳でしか 聞いていない。それは両耳による方向探知機能を、文法処理に転用しているから ではないかという仮説である。 文法の自動処理メカニズムが特定されると、これでなぜ無意識に文法処理を行 えるのかについて、一応説明がつ き、その結果、われわれの脳内には、言語中 枢や言語獲得装置と呼ばれるものは存在しないという結論が導かれる。 心もない。感情も記憶の良し・悪しと刺激の来る・去るの2x2行列で論理的に 生まれる。ヒトの進化は、6万6千年前に南アフリカでおきた喉頭降下だけで、母 音のアクセントによって音節を獲得したことだけで、すべての言 語現象が説明 可能である。 この結論が出たとき、荒川修作、ピアジェ、イェルネ、フォン・ノイマン、レ ヴィ=ストロース、道元といった 先哲たちのことが思い浮かび、彼らに報告し たならきっとこの成果を喜んでくれるだろうと実感した。道元がいう「人情を捨 ツべき」修行を積 み重ねて、ようやくデジタル言語の全貌がみえた。 言葉だけが、音節だけが、ヒトとヒト以外の動物を分け隔てているのであり、 ほかにヒトを人間たらしめるもの はない。 だ からヒトは言葉を正確に用いて、一生懸命勉強し続けなくてはならない。孔 子の「名を正せ」というのは、量子力学や情報理論においても重要 である。そ してはじめて、ヒトは人間へと成長できるのだ。結論はシンプルであるが、厳し く熱心に学習すればよいだけなので、希望はあると いうことになる。 ============================== 極楽寺の百日紅 From: Tokumaru 昨日 は合気道仲間と鎌倉で、鶴岡八幡宮、大仏、テレビドラマの舞台となった 極楽寺近辺、ならびに近代文学館を散策してきました。雨にもかかわら ず、鎌 倉を訪れる人の多さと、やらずぶったくりのシロウト料理でカレーやラーメンが 一杯千円以上だったりする観光地型ビジネスには驚きました が、楽しい一日を 過ごしました。 極楽寺の庭におおきな百日紅があり、花を咲かせたらすごいだろうなと思ったと き、保田與重郎の「夢さめてうつつの花のすさましさ何に流しし泪 なりけむ」 が思い浮かびました。 解釈改憲により、自国防衛以外の目的で派兵が可能になるというときにも、右と 左で議論は噛み合わない、イデオロ ギー対立が続いたまま。平和憲法を守れと いう聞き飽きた言葉が、ことさらむなしく感じられます。 解釈改憲は、自衛隊が合憲か違憲かと同じように、アメリカが押し付けた平和憲 法だからアメリカの都合でそれと矛盾する政策を押し付けることは 可能であ る、と考えるしかないのではないかと、あらためて感じています。おそらく右も 左も、占領支配にともなう、偽りの平和を享受してよしと してきた点では同じ であり、その責任を、そろそろ考えなくてはならない。 うつつの花もそろそろ終わりに近づいていて、山河も豊かな自然の姿を失って、 これからいったいどうやって生きていけばよいのだろうかと、静か に、深く、 考えることが必要な気がする。