江戸時代の初期に、儒医の名古屋玄以が出て実証主義の中国古代の 医学(古方派)に戻り、宋時代以降に盛んになった五運六気、十二 支、三陰三陽などの空論中心の李朱医学から脱出するルネサンスが 起こったのである。 この実証主義の医学が江戸時代初期にできたので、蘭方医学が来た とき、実証主義的に見て、それの方が進んでいると見て、導入でき たのである。 山脇東洋が、1754年に刑死体の解剖して、シナ伝来の五臓六腑 説が実体と異なると指摘したことで、ますます蘭学が優位になる。 そして、1771年、杉田玄白、前野良沢が刑死体を解剖。「ターヘル ・アナトミア」を訳し「解体新書」を(1722年)に出版する。 華岡青洲も古方派であり、麻酔を漢方的に作るのである。1804年( 文化元年)10月13日、青洲45歳のときに通仙散による全身麻酔下で の外科手術を成功させたが、ウィリアム・モートンがエーテル麻酔 下手術の公開実験に成功したのが1846年だから、青洲の業績はそれ に先立つこと約40年の快挙なのである。 シーボルトが1823年8月、長崎に来て、ジェンナーの牛痘法を伝える。 大阪の緒方洪庵が、天然痘の種痘に成功して全国に広める。同じ緒 方洪庵が、適塾を作り、蘭学を広め、幕末明治の指導者になる福沢 諭吉、大鳥圭介、大村益次郎、高峰譲吉、橋本左内などを輩出する。 この同時代。清朝康帝は1720年に西洋解剖書を満州語へ翻訳してい るが、宮廷外持ち出し厳禁にしていたことで、西洋医学は中国では 広まらなかった。中国で西洋医学が導入されるのは、19世紀半ば の英人ホブソンが1851年「全体新論」をだした後である。 大きく日本に遅れることになった。 医学の歴史を見ると、ルネサンスが日本でもあったことを知るので ある。