4991.斎場御嶽(せーふぁうたき)に行く



昨日は、沖縄の斎場御嶽に行った。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真
王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し
、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味であるという。

文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が
管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行わ
れた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であっ
たという。ここまでウィキペディア。

読谷村の宿から南城市の斎場御嶽までは2時間弱であった。

感じとしては、神社のような感じであり森の中を進み、岩に向かっ
た拝所で祈りを捧げる。最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョ
ウノハナ(京のはな)」という最も格の高い拝所があり、その拝所
で、祈りを捧げる沖縄の人たちがいた。祈りの中心にはおばさんが
座り、男性は隅である。今も、そこで祈りを捧げる人が居る神聖な
場所なのである。

この拝所には、神社の社がない。蝋燭を立てる炉もない。古代の日
本の風習を見る思いがする。縄文時代は、山や岩が神様であり、そ
れが、見える場所で祈りを捧げたことがわかっている。その風景が
、沖縄には残されているように感じる。

最奥部の三庫理では、アマミキヨが降臨したという神話の島久高島
が見える。森が豊かであり、その森と岩と神話の島が揃っているこ
とで、神聖な感じを生むようである。いろいろな装飾物を剥いで見
ると、最後に辿り着くものが根本であり、その根本が、この御嶽で
見えるような感じがした。

今の日本は、装飾した物が蔓延り、神聖さの根本を見失っているの
かもしれない。

これは近江湖北でも感じたことであるが、より根源的な面を沖縄で
感じている。自然の中で、神が近いことを感じる。

帰り、嘉手納基地が見える「道の駅かでな」で、沖縄のもう1つの
真実、2つの真逆な関係を見て、心が痛んだ。

しかし、嘉手納基地は広い。反対側が豆粒にしか見えない。滑走路
の向こうにある格納庫の戦闘機を見ようと、50倍の望遠で見たが
、あまりよく見えない。

そして、1日が早い。瞬く間に過ぎていく。


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