4979.下山の時代の経営学



下山の時代の経営学
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
みなさま、
鈴木孝夫先生の「下山の思想」を、僕なりにパラフレーズしてみました。

下山の時代の経営学             得丸公明(思想道場 鷹揚の会)

1.時代は破局を迎えている
 ローマクラブが『成長の限界』を唱え、おそらくその限界はすでに通り 過ぎ
てしまっているのに、いまだに経済は成長しなければならない、会社は黒字でな
ければならない、投資は利潤を生み出さなければならない という固定観念が人
間(すべての経済活動に関わる人間、とくに経営者や資本家、ジャーナリスト も
含む)の行動規範(思想)となっ ているから、世界はより深刻な自然破壊、より多
くの人々の貧困、より大きな破局にジリジリと向かっている。

 その責任は思想家にある。いまが下山の時代であることを人々にきちん と認
識させ、これまでの行動のあり方を改める必要があることを、骨身にしみて実感
させる必要があるのに、まだそれが行われていないのだ。

 以下は、言語学者鈴木孝夫が唱えた『下山の思想』という言葉を、具体 的な
行動規範・行動様式に結びつけるための、考察である。一人でも多くの方が、時
間をかけて、時間をおいて、何度も何度も読み返すことに よって、自らの行動
を指揮する思想として取り込むことで、いまおきている破局をできるだけ小さな
ものとし、これから何世紀かかけて、人類 が新しい文明を構築するための準備
できるようにと心より願う。

2.経済学にはパラダイムを変える力はない
 人類の歴史を振り返って、経済成長という言葉が使われた時代は、近代 以降
のことであり、それまでは経済学という学問が存在していなかったから、経済学
者も経済新聞も存在していなかった。

人類史7万年の、最終段階に登場した経済学者や経済ジャーナリズムは、お金が
お金を生み出さなければならないという資本あるい は資本家の要請にもとづい
てうまれたといえる。だから、経済学者や経済新聞は、いまも経済成長、株価上
昇、市場占有率上昇といったことに ついてだけ、大きな声で発言し、大きな活
字で印刷する。最近のジャーナリズムはとくにその傾向がつよく、戦時中の「大
本営発表」を思い出 す。

経済学や経済ジャーナリズムは、そもそも資本家の要請 によって生まれ、資本
家の顔色だけみているから、けっして文明論的な視点ではものごとを考えない。
半期あるいは四半期ごとの決算こそがす べてであり、そこで黒字か赤字か、ひ
と株あたりの配当がいくらかが最重要なのだ。

だから、21世紀に人類が迎えている大破局のことを、彼らも現場をみるときにう
すうすと感づいているのに、それは見て見ぬふりをし て口を閉ざし、利潤が生
まれる最前線のことだけを熱く語る。

例外は、利子の専門家である水野和夫さんで、『資本主 義という謎』などの最
近の著作のなかで、もう資本主義の時代は終わったと明言しておられる。水野さ
んの貴重な報告に耳を傾けて、資本主義 の終焉の時代をどのように過ごすこと
が必要かという問いかけが、経済人から提起されてもよいと思うが、経済人は
「成長・黒字・利潤・配 当」の呪いにかかってしまっているために、水野さん
の言葉を素直に受け入れることができない。

経済人として活躍している人に、もう経済の時代は終 わったと伝えても、そう
簡単には思考回路をつくり直すことはできない。思考回路をつくり直すとは、脳
内に新たな概念をうみ出して、その新 たに獲得した概念を使って「ああでもな
い、こうでもない」、「ああかな、こうかな」と繰り返し思考を重ねることに
よって、脳への言葉や数 字の入力が、自動的に今までとは違った行動に結びつ
くようになることをいう。これは発想の転換という規模の作業ではなく、発想を
うみだす 脳内回路を新たなオペレーティング・システムで更新する作業である。

この作業を、資本の要請でうまれた経済学者に期待する ほうが無理、ないもの
ねだりというものだ。水野さんの報告や『下山の思想』を、同時代を生きる人間
の行動規範の次元に落とし込むのは、思 想家のはたすべき役目である。

3.経済成長とは収奪である
 下山の時代を理解するためには、経済成長とは何であったかということ を理
解する必要がある。

 たとえば、もし1ヘクタールの土地があり、そこからは家族5人が一年食べてい
くのにちょうど足りるだけの農産物を生産できるとしよう。家族の人数が増える
と、食料は不足するし、 食べるだけで精一杯だから、換金作物をつくる余裕も
なければ、外から食料を買ってくるお金もない。人数の増えた分は、姥捨て山で
口減らし するしかなかったのだ。

 この家族が経済成長するためには、自然のなかで生きている動物を捕獲 する
とか、植物やその花や実を取ってくるということが考えられる。自然からの収奪
である。自生している花や実は、植物から動物へのプレゼ ントであるが、あく
までもそれは受粉や種子運搬の対価としてである。本質的にそれは人口を増やし
たり、人間がぜいたくをするためのもので はない。

 およそすべての経済成長は収奪であったといえないだろうか。人類文明 の歴
史は、地下資源、海洋生物、野生生物、あるいは野生生物の居住環境、それらを
人間が只で奪って換金することが、富をうむという構図ば かりである。アフリ
カの奴隷貿易や、植民地化は、人間が他の人間を自然資源同様に扱うという暴挙
であったが、なんのことはない、いま日本 でおきている派遣労働者の永続化
や、社員の低賃金化も、同一線上にある。

4.成長の限界はすでに超えている 
 『成長の限界』とは、人口と消費の増加が、地球に残された自然を収奪 しつ
くし、地球を廃棄物と汚染物質だらけにする時期がくるという指摘だった。いま
地球人口は70億人だが、おそらく50億人となったときにその時は来ていた。1986
年あたりである。

 1980年代後半から世界中でおきた民営化や東西冷戦の終結も、資本主義が最後
の収奪のフロンティアを広げた行為だったと考え られる。国家資産を食いつぶ
した後は、いよいよ人間を奴隷化するしかなくなって、労働者の低賃金化がおき
ている。化学物質や放射性物質や 遺伝子組み換え食品をまきちらすことによる
疫病の蔓延も、医療ビジネスの前線拡大戦略の一貫であろう。

 経済成長を求め続けるかぎり、人間はますます低賃金であえぎ、ますま す不
健康で病気になってクスリ、検査と手術によって経済成長に貢献するようになる。

 経済成長そのものが誤った思想、自滅の思想であることを、認識する必 要が
ある。

5.ヒトとは母音を発声できるサルである
 シカゴ大学が行なった実験によると、チンパンジーに手話を教えると憎 まれ
口や嘘までつき、貨幣を教えると売春や強盗まで発生するという。(佐藤健太郎
著『炭素文明論』)

 いまの経済学は、サル以下である。平気で嘘をつき、金をよこせと騒ぎ たて
る。金さえ儲かれば何をやってもよいというモラルのなさがまかり通っている。

 じつは我々は、ヒトとサルの違いがどこにあるのかを知らない。人間と 動物
というカテゴリーが出来上がっているから、そのカテゴリーの境界について考え
ることを怠ってきたのだ。

ヒトという動物と、ヒト以外の動物の違いは何か、とい う問いに対する答えは
まだ見つかっていないのだ。


じつは、筆者は7年前に南アフリカにある最古の現生人類遺跡クラシーズ河口洞
窟を訪れて以来、この答えを求めて学習と思考を続けてき た。その結果、言語
の起源とメカニズムにこそその答えがあること、そして言語という複雑なメカニ
ズムが、母音を発声する声道の進化だけで うまれたことを確かめた。

母音によって、ヒトはアクセントをもつ音節を発声でき るようになり、音節の
順列組み合わせによって無限の単語を生み出せるようになった。また、音節はア
クセントがあるから、必ず相手の耳に届 くので、文法がうまれた。文法とは、
「単音節の付加または変化(活用)によって、単語の意味の接続関係や意味修飾を
指示し、いったん習得すると無意識に使いこなせる論理スイッチ」である。

脳の基本的なメカニズムや構造は、ヒトもヒト以外の動 物も変わらない。概念
の記憶は、脳室内の免疫ネットワークであり、脊髄反射として作用する。文法の
記憶は脊髄反射の運動ベクトル処理と同 じで、免疫細胞のもつ興奮・抑制信号
伝達系が使われている。だから、乳幼児はものの動きの変化に対して反応を示す
のに、文法を覚えると物 理的運動に対応する能力が著しく落ちるのだ。文法
は、ただしい脊髄反射を阻害するということを、自覚したほうがよい。

6.デカルト的近代主義の過ち
 ヒトは、一歳で喉頭が降下する。つまり肺の空気の出口が、食道の途中 に下
がる。そのために、蒟蒻ゼリーやお餅が喉につまって窒息したり、誤嚥によって
唾液が肺に入って肺炎になる。喉頭蓋を開け閉めして、空 気は肺に出し入れ
し、食べ物飲み物は胃袋に収める嚥下のメカニズムは、じつに複雑巧妙である。

ヒトの喉頭降下と嚥下のメカニズムは、母音の共鳴を生 み出すための、命懸け
の進化であった。だが、逆にいえば、犬でも猫でも、丁寧に概念や文法の意味を
教えれば、言語を聞いて理解できる。彼 らは言語を声にできないだけで、もし
ひらがなやカタカナを覚えたら、言語コミュニケーションすることも可能である
のだ。

言語が脳室内免疫細胞ネットワークであるなら、大脳に 言語中枢はないことに
なる。言語は中枢で処理されているのではなく、免疫細胞の分散ネットワークだ
と考えれば、さまざまな言語現象がうま く説明がつく。

こうして近代以降の文明を支配してきたデカルトの自然 観が、根本的に間違っ
ていたことが明らかになった。

 デカルトは、『方法序説』の第5章で、以下のように述べている。

「人間ならばどんなに愚かで頭がわるくても、狂人でさえもその例外でな く、
いろいろなことばを集めて配列し、それでひと続きの話を組み立てて自分の考え
を伝えることができるが、反対に他の動物には、どんなに 完全でどんなに生ま
れつき素質がよくても、同じことができるものはない。(略)このことは、動物た
ちの理性が人間よりも少ないということだけではなく、動物たちには理性が無い
ことを示している。と いうのも、話すことができるためには、ごくわずかの理
性しか必要ないことは明らかだからだ。(略)」

 これは詭弁である。文法は理性の証明にならない。文法を使うのに理性 は
まったく必要とされない。文法を話せるためには、母音を発声できて、その文法
的な音節付加・変化がもつ意味を体得すればよいだけだから である。

 その結果、ヒトにだけ精神や魂があるという説も、誤っていることにな る。

「動物たちには精神がなくて、自然が動物たちのうちで諸器官の配置にし た
がって動いているのだ。(略)動物の魂とわれわれの魂がどれほど異なっているか
を知ると、われわれの魂が身体にまったく依存しない本性であること、 した
がって身体とともに死すべきものではないことを証明する諸理由がずっとよく理
解される。(略)魂は不死である」

 むしろ我々が自分の魂だとか精神だとか思っているものが、じつはサル 以下
の幼稚で身勝手な欲望でしかないことが多いことを思い知る必要がある。ヒトは
動物であり、人間とは孔子や孟子が唱えた君子のことであ る。君子になるため
には、心身の鍛錬と精神の修養が必須である。

 地球環境問題がここまで深刻化した背景には、ヒトはあるがままで崇高 であ
ると勘違いしたデカルト的な人間観・自然観が大きく作用している。ヒトは、鍛
錬と修養によって人間となるべき運命をもつ動物なのであ る。

7.下山の時代の経営学: 堕ちていくときに人間であるために
 下山の時代に、どのような経営が求められるか。ヒトも他の動物と対等 な生
き物にすぎないという自覚をもち、これまで収奪してきたことを反省し、できる
だけ怪我をせず、脱落者を出さずに山道を下る配慮をする ことが大切である。

 反省し配慮するとどういう経営になるかというと、黒字を出してはいけ ない
ということだ。

黒字は悪である。資本がこれまで内部留保したものを自 然や社会に還元するこ
とが必要だ。

これ以上自然を破壊してはいけない。これ以上労働者か ら搾取してはいけない。

 資本という人間がつくりだした魔物を、実態のある交換の道具に引き戻 すこ
とが大切ではないか。

 そして、動物と一線を画した豊かさを、人間ならではの喜びを、求める のが
よいだろう。それは物理的な喜びではなく、論理的な喜び。言葉の力がうみだす
喜びであろう。

8.論理的喜びとは何か
 相共に百人一首を思ひだしカルタをつくる すべてかなひぬ 

 これは昭和20年にビルマで敗戦をむかえ、捕虜収容所で新年を迎えた軍医 森
田丈夫さんが詠んだ歌である。戦うためというより、殺さ れるために前線に送
られたインパール作戦で、運良く生き残って終戦を迎え収容所にいた若者たち
は、正月だからとカルタをつくった。おそら く包み紙かチラシを切ってその裏
に、鉛筆書きで読み札と取り札を書いたことだろう。百首全部思い出すのにどれ
だけの時間がかかったかわか らないが、最後に思い出したのは大友家持の「し
らさぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」で、森田さんが思い
出したとい う。しかし森田さんがその歌を思い出した喜びは、収容所中で共有
されたのではないだろうか。

 この喜びには1グラムの重さもなければ、1カ ロリーの栄養もない。だけどそ
の喜びは、我々に勇気や希望やその他もろもろの力を与えてくれる。

 人間は、物理的なものよりも、論理的なものにより大きな喜びを感じる 生き
物である。

 食料を奪い合って得られる物理的喜びよりも、分け合って少ない量を食 べて
得られる論理的喜びのほうが、生きる力に結びつく。

これからくる破局において、助け合い、分け合い、共に 悩み、共に苦しみ、共
に行動することが、人類を次なる文明にいざなうのではないか。

(2014/03/31)


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