4971.縄文時代は日本の基礎か?



縄文時代は1万年と長い。その長い時代で自然の摂理に対する利用
技術や理論が発展したようである。この発展した視点を現在化でき
ないかと、縄文時代と弥生時代の生活がどう変化したか、しなかっ
たかを調査している。

自然の気や水の流れの入口に稲荷神社を作り、鉛が取れるところに
は、丹入神社ができたように、自然資源のあるところにマークとし
て神社を置いたようである。

特に秦氏は日本に2万人もの技術者を連れてきたので、秦氏の系列
には、機織りから木地師、鉱山技術者までいる。この人たちが全国
を調査したことで、マークとしての神社を置いていったのだとも言
われている。

秦氏が日本全国にバラバラに散らばったので、太秦になる秦河勝の
館が連絡先の名簿を管理していたようだ。中国の氏を管理している
方法とよく似た仕組みが中世まであったようだ。中国は今でも氏を
管理して、戸籍や系図を作っているが、それと同じことをしていた
ようだ。

日本で、なぜその氏管理がなくなったのかというと、地元有力者と
の婚姻を重ねたことで、氏管理ができなくなったようである。秦氏
も地元縄文人との婚姻を重ねたようである。このため、中世に管理
できなくなる。

この全国にバラバラにいるメリットは何かというと、航海では、風
待ち、潮待ちなど数ヶ月も行った場所に留まることになり、その時
に、泊まる場所や港の良い場所を確保するためにも、一族を置いて
おくことがされた。

縄文時代にも、すでに流通ルートがあり、市が全国で開かれていて
、黒曜石、漆器などが流通していた。土器は煮物の鍋として使い、
漆器は食器として使ったのである。また、かんざしや、くしなど日
常用品がある。漆器が古い。しかし竹は縄文時代初期にはない。竹
が使われるのは、弥生時代からであり、これは江南からの渡来民が
持ってきたようだ。

市の仕組みは中世まで同じである。市の関係者は神聖な人とされた
のは、神社で市が行われたと、網野さんは言うが、その原型がすで
に縄文時代にあったような気がする。

また、縄文時代の三内丸山などの大型建造物は、その建造物を立て
るスペシャリストがいて、その人たちは37センチを基本にした指
し物で建設しているという。

伊勢神宮の建物も、縄文時代にその基礎があるのではないかと言わ
れている。真の御柱と同じ構造の柱が弥生時代中期にはできている。

というように、弥生時代を調べていると、縄文時代との違いが明確
化して、そのため、日本人の基礎は弥生ではなく縄文時代であろう
と見ていている。

今後も、日本人を知るために、縄文時代と弥生時代を調査していく。
そこから、自然の摂理の利用方法を蘇がえらすことを期待して。




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