4953.古代史で次の時代を紐解く



ある映像ストーリーを作るために、久しぶりに古代史を読んでいる
が、大きく考古学が進化していて、歴史的な事象を裏付けられ始め
たようである。もちろん、映像ストーリー自体は、ほとんど見えて
いるが、その背景が知りたくて、古代史全体を理解しておきたいと
思い読んでいる。

この考古学の中で特に大きいのが、巻向の遺跡の発掘である。この
遺跡で、吉備の国が大きな力を得ていたことが分かり、吉備の古墳
の前方後方墳が前方後円墳に発展したのではないかという仮説が出
てきた。吉備の土器が一番多いことがそれを証明しているという。

この遺跡は、三輪王朝の都であり、崇神天皇が神武天皇を始祖とす
る葛城王朝から王権を譲渡されて、完成した連合国家であることが
分かっている。少なくとも邪馬台国の位置づけではないようである。

この場所と同じ場所に邪馬台国があったのか、それとも違う場所か
で九州説も生き残っているようである。しかし、邪馬台国と大和王
権の時代差は百年もないので、おそらく、同じ場所という案が有力
なのだそうだ。寺沢薫氏の日本の歴史02「王権の誕生」ではそう
述べている。

そして、吉備と出雲は、山を挟んで戦争が絶えない地域であり、出
雲は大和朝廷に抵抗したのであろう。そのため、国譲りが発生して
しまう。連合国家に参加していれば、地方政権として保護されたの
であるのに、日本海沿いを占める大きな国であったことが禍した。

村井康彦氏の説によると、出雲が最初の葛城王朝を作り、その後、
崇神天皇が吉備と組んで葛城王朝を倒し、その王である物部氏を神
官トップにしたという。葛城王朝のトップ層であった中臣氏も神官
であるが、領地が関東の鹿島であり、その後、中臣鎌足で政権に復
活したことになる。藤原氏として平安時代を作ることになる。

北九州のイト国は志賀島の安曇氏が王であり、弥生時代初期に大き
な力を持っていたのに、その隣の宗像氏が大和朝廷との関係を深め
て、新羅と結んだ磐井氏に安曇氏が味方して、磐井の乱で負けて、
全国に安曇氏が分散したようだ。その一部が近江にも来て、安曇川
(アド川)沿いに住んだようである。

この2つの海神がいることが中国東北からの渡来人と中国江南から
きた渡来人の2つの系列を感じさせることになる。物部氏と安曇氏
が関係あるよう気がする。ということは日本海ルートと瀬戸内海ル
ートの2つが関係したようである。

この2つの渡来人を一緒にして朝鮮からの渡来人としているが、朝
鮮は、どちらの渡来人も通り道でしかない。この2つの民族の違い
は騎馬民族と農耕民族の違いである。

平安時代になると、農耕文化的な平安な社会になるが、その前は、
この2つの民族の興亡史でもあると見ている。

秦氏のルートを見ても、最初、北九州にいたが、そこで定着できず
に宇佐まで南に下がり、八幡神社を作り、そこで寺と神社の神仏混
合をして、それが認められて、京都の領地を与えられるし、技術が
あるので近江にも一部が入植している。この秦氏は新羅から来たが
その前は中央アジアから来たというので、元々は騎馬民族である。

寺、仏教は百済からの物であり、神社は伽耶、新羅から来たことが
分かっている。神道は道教の神道派の宗教であり、江南と関係して
いる。新羅、伽耶の古代の神社が近江に多いし、火の祭りも多い。
それが春日大社の火の祭りになっている。その春日大社は鹿島神宮
から神を持ってきた。鹿島神宮は中臣氏の氏神である。

ということで、日本古代史を見ると、いろいろな想像が浮かび、探
偵推理小説より、推理できて面白い。

日本人とは何かを、明確な形で提示できるようになりそうである。

その農耕民族が、次の時代を切り開くことになる。欧米諸国、中国
などは騎馬民族や狩猟民族であり、基本的に農耕民族から食料を奪
う側の人たちが支配階層であり、その非支配階層に農耕民族が下等
民族として存在する。

しかし、そのような時代は、長続きしない。現在は地下資源を奪い
豊かになったが、それも尽きようとしている。また、他の農耕民族
から食料を奪うこともできない。この先の時代は、農耕で資源を生
み出すことが必要になる。

その時代を産めるミームを持つのは、先進国では日本しかない。

日月神示でも、大きな苦難を経験し、行く道をなくした時、日本が
次の時代の経済体系を生むと述べている。どうもその時代が、そろ
そろ、来たような感じである。

この時代を日本人の皆で考えることが必要なのであろうと思う。
そうして、世界に提案できる経済体系を作ることである。


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