4926.「海上の道」を2回使ったのか?



13日の会話で、広葉樹シラカシの流れ着いたところに、縄文人が
御嶽(うたき)とともに流れ着いたのでないかと、ある人のアイデ
アが気になって仕方がない。

シラカシの分布を見ると、九州の佐世保、唐津などや四国の高知な
どや中国の出雲、近畿の熊野など最古の神社が多い気になる地域が
網羅されている。

柳田国男の「海上の道」が思い浮かぶ。今までは、この道を縄文人
が渡ってきたと思っていた。縄文時代日本人を構成したのはオース
トロネシア語族祖形であり、台湾の高砂族なども同じである。彼ら
は、ミクロネシアの島を渡るのであるが、その時ヤシの実を食料と
して携帯した。

しかし、ヤシは温帯では育ちにくいので、団栗をヤシの代わりにし
て、食料として携帯したということに気がついた。シラカシはその
実が団栗になる。

縄文人は、この団栗を晒して渋みをとり、食べていた。そして、団
栗は大量にできる。それを保存するのも簡単である。このため、沖
縄を経由したことも確実だ。

もう1つ、出雲をどう捉えるかが問題が出てきている。日本のジャ
ポニカ米は朝鮮のジャポニカ米のDNAとは違うということが判明して
いる。

このため、呉人が朝鮮経由という今までの推測を修正しないといけ
ないことになっている。また、現在の福井県敦賀から滋賀県北部に
かけて、新羅・伽耶の名残を残した神社の名や、地域の風習などが
ある。

呉人が再度、沖縄からの「海上の道」を通ってきて、出雲に渡り四
隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出した可能性もある。

前方後円墳は朝鮮にもあり、伽耶または百済の文化である。新羅は
円墳である。それとは違う四隅突出型墳丘墓は、朝鮮経由の民族で
はないことが確実である。それも大和朝廷ができる前の弥生期であ
る。しかし、高句麗も四隅突出型墳丘墓である。このため、高句麗
の可能性があるが。

神道は、道教の神道派の宗教であり、これは呉人が日本にもたらし
たのであると見る。

呉が滅亡したのは、220年までで、それより前、米作地帯は複数回、
北方民族に侵略されて、その都度、米作民が日本に逃げてきている。

この逃げ道は2つあり、朝鮮経由と台湾経由で海上の道経由である
が、ジャポニカ米のDNA問題から、再度考え直すことが必要になって
いる。

しかし、3世紀、倭国大乱で、出雲は大和に負けることになる。


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