4805.禊修行と脊髄反射(その2)



禊修行と脊髄反射(その2)
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

昨年3月に「禊修行と脊髄反射」という一文を書いています。

これは早稲田大学合気道会の女子学生が一九会初学修行に
参加し、私も三泊四日ご一緒して修行したときに、思い
ついたことです。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L4/240319.htm

それから一年半たって、今あらためて思うのは、言語は
脊髄反射であるということだ。

ヒトの言葉は、脊髄の、脳幹網様体に刺激として入って
きて、それが脳脊髄液中のBリンパ球のもつB細胞受容体(BCR)
やBリンパ球が生み出した免疫グロブリンの抗原結合領域(Fab)
にある言語刺激受容体(言葉の周波数と振幅の波形を雄(オス)
とする雌(メス)型の受容体によって認識されるのだ。

文法は言葉の刺激に一音節付加された、あるいは変化(活用)
した音節の変調として認識される。

大事なことは、言語記憶は生得記憶ではないので、新たな
言葉を覚えるということは、新たな言葉の受容体を形成し
なくてはならないということである。

1.リンパ球の特性として、そのためには、何日間かかかる。
2.必要性を体が感じないと、新たな受容体は生まれない。
3.受容体が生まれても、それが正しい意味をともなって
 作用するためには、脳内で思考を積み重ねる必要がある。

1と2は、学ぶということであり、3は思うということである。
論語に「思いて学ばざれば暗し、学びて思わざれば危うし」
(得丸修正済)とあるのは、このことである。孔子は言葉を
正しく獲得し、正しく使うことを、非常に大事にされた。


3・11から二年半が経過して、日本列島では被曝食品が
市場に出回っている。

ヤフーのリアルタイムというツィート検索を実行すると、
今、多くの人が、「心臓 痛い」、「鼻血 止まらない」
といったつぶやきを発していることがわかる。

それが被曝食品を食べることによる内部被曝によるかもしれ
ないということを、彼らは疑うこともできない。なぜなら
「内部被曝」、「放射能」という言葉の獲得と意味の正規化
が行なわれていないからだ。

そして、極端な例では、そのまま亡くなられて、他者に
危機を伝えることもできない。

禊修行では、言葉を使わないことが重要である。

言葉を使わず、今、身近で起きていること、知人や友人や親戚
の病気や体調不良などと、ひとつひとつ丁寧につきあって、
現在の危機を体感してそれを言語化することが求められている。

得丸
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文法のツケ

  幼児は、ちょっと目が会って視線をそらしたりするだけ、いない
いないバーするだけで、キャッキャッと笑う。
 ところが、幼稚園の年中か年長になると、そんなことでは笑わな
くなる。

 なぜこのようなことが起きるのか。じつは文法を使うことによっ
て、動きに対する能力が落ちたというのが私の説である。動物は、
危険信号である記号のパターン認識を行ってから、その記号が近づ
いてくるか遠ざかっているかの二元論的ベクトル解析を行って、避
難信号を発し、避難行動をとる。
 ヒトの言語は、概念のパターン認識を行って、その概念の波形に
付着している文法がどのようなベクトルであるかという判断を無意
識に行っている。そのため、文法を使うようになったヒトは、危険
信号が近づいてきてもボォーッとしたままでいるのだ。ときどき小
学生が集団登校している列に車が突っ込んで何人も怪我をしたとい
うニュースがあるが、このためだ。
 しかし、もともと運動ベクトルを処理する能力をもっていたのだ
から、その能力を取り戻すことはできる。言葉を使わない滝行や禊
などの荒修行をもくもくとやる、武道の稽古をもくもくとやる。
そうすれば、脊髄の細胞が、言葉以外の運動ベクトルにも対応でき
るようになる。
  荒川修作の天命反転は、新しい人間をつくりだすための装置であ
るが、その装置の中で生活すると、運動ベクトルへの感受性が磨か
れるのだ。
得丸
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感情・思考・意志をめぐって  ペトロ岐部の評価をめぐって
From: tokumaru
みなさま

じつは、今年4月から、文章教室「ことばのクロッキー」というのに
参加していて、はじめのうちはずいぶんと苦労して、短い文章を書
いていました。
毎週、お題が出て、それにそって、30分で400〜1000字の文章を書
くという文章教室です。

この三週間は、言葉を定義せよということで、「感情」、「思考」
、「意志」について論理的に表現しようとしています。
男女の会話や植物の気持ちを言葉にするよりも、こっちのほうが僕
には楽です。

デジタル言語学において、「感情」と「思考」はともにヒト以外の
動物でももっているもので、たまたまヒトは言語によってより分析
的な思考ができることが違うだけです。
一方で、意志というのは、ヒトにしかないもので、なぜならばそれ
は言語表現であると定義されているから。

実際に意志が弱いとか、意志が強いとか、固いとかは、人間にしか
使いません。
それというのは、言葉で目標を決めて、それに自分を近づけること
が意志の役割だと思うからです。


ペドロ岐部がやったこともそれではないでしょうか。

植民地をもたないキリスト教、どんなに暴力をふるわれてもけっし
てひるまないキリスト者、そういうものを彼は目指して、実際に自
分の目標通りに生きた。


彼こそが世界のキリスト者のお手本でしかるべきなのに、あまり取
り上げられてないのは、ヨーロッパ人の神父が多く転んでいるから
、そしてフィレイラに厳しい言葉を吐いたからでは。

つまり、ヨーロッパキリスト教は、ペドロ岐部を逆恨みしているか
、あるいは煙たいか。

どういう動物的な感情が邪魔をしているのではないかと思うのです。

いかがでしょう

得丸


http://croquis.hiden.jp/

1.	意志とは何か
 意志表示とは、たとえば参加するしない、食べたいか食べたくな
いかを、言葉ではっきりと表明すること、自らの未来の選択を言語
化して表現することといえる。

 孔子は15歳のとき学問で身を立てると志をたてた。志とは言葉の
目標、あるいは誓いといえる。「志」、「目標」、「誓い」も意志
である。この誓いは、なんでもよいというものではない。その人の
天命にできるだけ忠実な誓いであること、志学、而立、不惑、知命
、耳順、従心と人生が発展する誓いであることがのぞましい。

 誘惑や欲望に負ける人のことを「意志が弱い」というのは、自ら
の立てた言葉の目標、自らの誓いを安易に破ることをいう。「意志
が固い」人は、言葉に忠実に生きる人である。

 意志を言語表現に限定することによって、言葉をもたない犬や猫
には欲望や思考はあっても、意志はないことになる。意志は、物理
的存在ではなく、言語による論理表現であり、意志をもつことで人
生に目標ができ、生きる活力が生まれる。

 意志は人間にかぎられた現象である。

2.	思考とは何か

 思考とは,記憶の二項演算である.

 ヒトの場合は主として言語記憶をつかって行なう.言語記憶は
その言葉に関連したさまざまな五官の記憶や思考の記憶とネットワ
ークして,それらを代表することができる.

 自分がもっているある言語記憶ともうひとつの記憶を結びつけた
結果,肯定・否定,一致・不一致,どちらが大きいか,早いか,重
いか,などの属性の比較が生まれる.

 記憶にないことは思考できない.無理に思考しても正しい結果は
生まれない.まず書を読んで他者の知識を自らの内部に取りこまな
いと,思考しても無駄である.論語にも「吾かつて終日食わず,終
夜寝ねず,以て思う.益無し.学に如かざるなり」とある.

 記憶の二項演算である思考は,刺激と記憶の二項演算である感情
と同時には成立しない.感情に流されず,冷静に正しい思考を行な
うためには,一度目を閉ざして外部刺激の入力を遮断することが有
効である.

 ヒトだけが,言語を使って複雑で繊細なことを思考できるのだが
,いったいどれだけの人間がそれを実行しているだろうか.

3.	感情とは何か
 人間にかぎらず動物は、外界の刺激に対応するにあたって、行動
を加速するために脳内で化学物質を分泌する。この化学物質の効果
で、仲間と楽しむ、敵と戦う、危機を回避するといった行動が活性
化する。これが人間が感情と呼ぶものの正体である。

 感情のメカニズムは、脊髄反射である。外界の刺激が、視覚や聴
覚に入ってくると、記憶に照らして、それがよい記憶か、悪い記憶
かのパターン認識が生まれる。記憶にないものに対して反応はおき
ない。

 刺激のパターン認識結果が、刺激の運動ベクトルの向きとの二元
論的に作用して、感情は生まれる。つまりある刺激がよいか、悪い
かの認識と、その刺激が、近づいてくるか、遠ざかっていくかの
2×2行列にもとづいて、喜怒哀楽の4種類の化学物質が分泌され、意
識の状態が変わるのだ。「よい記憶x近づく=喜び」、「よい記憶x遠
ざかる=悲しみ」、「悪い記憶x近づく=怒り」、「悪い記憶x遠ざか
る=楽しみ」といった具合である。
 
 これは動物の学習能力の発現であり、このメカニズムを理解する
ことで、感情に流されることがなくなり、羹にこりて膾を吹くこと
も減ると考えられる。

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恐怖は論理的に超えられる
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

ペドロ岐部は、なぜ強く振る舞うことができたのか。

それは論理の力を使ったからではないか。

言葉の力、イエスの受難の前例のおかげで、強く
振る舞えたのではないか。

というのは、言語の文法と論理と感情は、同じ分子構造
(抗体グロブリンの可変領域から不変領域への信号伝達
メカニズム)によるので、文法的に正しいものが必ずしも
論理的に正しいわけでなく、論理的に考えるときはむしろ
文法を使わず、また論理的思考から感情が抜け落ちる。
感情的になったら、論理的に考えられない。

というメカニズムがあるのではないかと思うのです。

だから、言葉の力、論理の力で、念じておれば、恐怖は
感じなくなる。

本当かなあ、、、とも思いますが、もしかしたらそうかもと
思うのです。

合気道の稽古について昨日まとめた「安定打坐での稽古法」
をお届けします。

得丸
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脳の量子論
From: tokumaru
ペンローズの脳の量子論や、保江邦夫、治部真理らの論文や本を、
追いかけた時期が2〜3年前にありました。
(ちなみに保江邦夫は、武道家でもあり、本を出しておられます)

脳の量子力学現象を探すためでした

しかし、残念ながら、彼らの著作からは、なにひとつ具体的な分子
構造や量子現象はあらわれてきませんでした。

脳科学の最大の問題は、大脳皮質、ニューロン、シナプス接続、電
気パルスによって、何が起こるかということしか考えていないから
だと思います。

脳の量子力学は、脳室内の免疫細胞ネットワークだと思います。

二分法論理をうみだす抗原抗体反応と、二元論論理をうみだす可変
部不変部の信号伝達。

これこそが脳の量子力学といってよいでしょう。


1974年にパスツール研究所でイェルネは、ニューロンとリンパ球は
、神経細胞としては同じ機能をもっている。
二元論(A+B=C、という形で、任意の式をつくり、AとBの入
力に対応する)と二分法(パターン認識)の論理をもつことも同じ。
抑制刺激も、興奮刺激も出せる。
認識すると同時に、認識される。

こういった点では、リンパ球は、ニューロンそのものなのです。

違いは、リンパ球は、ニューロンの100倍あること。
ニューロンは、シナプス接続しないといけないのに、リンパ球は、
自由に移動して、B細胞受容体(B-Cell Receptor)や、抗体分子を通
じて、抗原抗体反応によって自由にネットワークする。

つまり、リンパ球は、神経細胞が進化したもので、「モバイル・ネ
ットワーク・ニューロン」とよぶのがふさわしい細胞なのです。


このリンパ球と、脳幹網様体とが、免疫応答によってネットワーク
するのが、記号であり、言語であるというのが、私の到達点です。

残念ながらその仮説に沿った本はまだ一冊もありません。


ちなみに、文法もまた抗体の二元論理を利用しています。

抗体は抗原とどのように接触したか(ピッタリなのか、少し隙間が
あるのか、など)の情報を別のリンパ球に伝える機能をもっています。

だから、思考(記憶と記憶の二元論)、感情(記憶と刺激の二元論
)、文法(概念と文法ベクトルの二元論)は、それぞれ脊髄反射あ
るいは脳室内のリンパ球の二元論理にもとづいている。

ペトロ岐部が、体を焼かれても平気だったのは、思考の力で、感情
や感覚の二元論を抑えたからではないでしょうか。


感情と論理は両立しませんし、文法と感情、文法と論理も必ずしも
両立しません。

デジタル言語学はここまできたのです。


デジタルとは、再生復調が特徴です。つまり、どのような刺激が来
るかあらかじめわかっていることが重要なのです。

しかし目に見えない放射能をおびえるためには、放射能に対応する
ためには、五官ではなく、論理の記憶を作らなければならない。

これは大変です。真剣に考えて何日もかかります。

インドで「シュリ・パドマヴァーティ」の名前を記憶することが難
しかったように。

僕の脳内にこの女神の記憶が出来上がったとき、大学の先生が、「
パドマヴァーティ寺院によるといいわよ」とおっしゃったのを聞い
て、「あれ、この言葉、聞き覚えがある」という不思議な感覚に包
まれました。

というわけで、ペンローズはあまりお勧めしません。

脳内の免疫細胞の働きについて書かれた本は、しかしありません。

得丸
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物理と論理
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
みなさま、
いつもながら「わかりにくい」という苦情をいただきましたので、
できるだけわかりやすく、説明しなおしてみます。

ある方からとくにわかりにくいというご指摘3.1のところを中心にし
ます。

1.まず、「物理」と「論理」という言葉についてです。

物理とは、重さがあり、存在があるものです。肉体は物理的存在です。衣食住も
物理的です。

一方、論理には重さや存在はありません。論理とは、DNAの並び方とか、デジタ
ルファイルに(論理的)1と(論理的)0がどう並んでいるか、あるいは話し言葉に登
場する音節の並び方も論理的です。情報は論理です。

論理には重さや存在はありませんから、コピーが容易であり、伝達しやすい構造
です。

しかし、論理にも最低限の物理が必要です。DNA自体は物理的構造をもっていま
す。それらは水素結合などの微小物理力によって秩序だてて保存されています。
メモリーも 物理的であり、電気的な信号処理装置がなければ、情報を取り出す
ことはできません。言葉も、声に出すとか、文字に書くとか、それほど大き な
力ではないですが、力は必要です。

物理層というのは、物理的世界ということで、論理層というのは論理の世界とい
う意味です。

キリスト教は愛の宗教というときの「愛」とは物理か論理か。私は愛は論理だと
思います。愛は目に見えるものではない。 愛は我々の意識の現象としてありま
す。だから愛は論理層の現象だといいました。


2.

ペトロ岐部は浪漫派であり、「物理的敗北は論理的敗北ではない」いうのは、彼
は拷問によってその身を焼かれて殺された のですが、こうして21世紀を生きる
我々にメッセージを伝えてくれている。あ の17世紀前半を生きた人間のうち、
いったい何人が今もメッ セージを送り続けているかというと、ごく僅かです。
そういう点で、ペトロ岐部は、論理的世界では勝者となったといえます。

これができるのは、人間が言語をもつからです。人間が言語を持っていなかった
ら、ペトロ岐部はローマに手紙を書き送る こともできず、我々が彼の偉業をし
る術もありません。

もちろん、ペトロ岐部も、イエスの受難の歴史を言葉として教えられたことに
よって、自らも拷問に耐えることができた。 イエスの物語が心の支えとなっ
た。目に見えない論理ではありますが、論理には、意外と力があることがわかり
ます。


3.
さて、松本さんが主張される「心身二元論」と私が主張する「心身一元論」の違
いは何かというところです。

そもそも「心」とは何か。

私は、それは我々の脳内における感覚入力、記憶の想起、そして感覚と記憶の論
理操作、記憶と記憶の論理操作でしかない と考えるのです。感覚がどのように
神経細胞によって脳内に伝えられるのか、脳内で記憶がどのように保存され、ど
のように活性化されるのか がわかれば、それはすべてタンパク質と微小力学現
象によって説明できると思うのです。

そうなると、心というものは、科学的に説明されつくして、よくよく考えれば
「心」なんてどこにも姿も形もないタンパク 質と微小力学現象だったとわかる
のです。これが私の心身一元論です。

つまり、心身二元論における心は、人間の脳内の記憶のメカニズムと、感 覚刺
激・感覚記憶・言語記憶らのネットワークが解明されていない期間、それらを何
か実態があるもののように呼ぶ便宜的なものであるといえ ます。


4.
合気道の稽古は、「安定打坐」という言葉で始まります。無念無想、無心 の状
態で、これからの稽古時間を過ごしなさいということです。「安禅必ずしも山水
を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し(火もおのづから涼し)」という快川紹喜
和尚の言葉にあるように、心頭を滅却することで、火を熱いと感じなくなる。そ
ういうことがどうして可 能なのかということです。

それは、脳内のタンパク質の論理作用が、修行を積んだ結果、きちんとコ ント
ロールされて、論理的思考に集中されるからです。

タンパク質(免疫グロブリン)の論理 作用には、2種類(少なくとも)ありま す。
ひとつは二分法。これはAであるか、Aではないかと瞬時に判断するパターン認識
機能です。抗原と抗体が結合するのは、この機能です。

もうひとつの論理は、二元論です。二元論は、二項演算ともいえます。二 つの
入力刺激に対して、ある一定の出力を出すメカニズムが二元論です。

たとえば、鈴木先生の「鳥類の音声活動」で紹介されていた雉類の危険信 号
は、「首の短い鳥の影」がパターン認識され、さらにそれが「近づいている」と
いうベクトル解析の結果、発せられます。

+の形に 対して反応があった

+の方 向のときだけ、危険信号を発した

つまり、雉類は、[首の短い影]+[近づく]= [危険信号]という二元論理をもって
いるといえます。


5.
文法も二元論理で作用します。

「月日は」「百代の」「過客にして」とあるとき、

([月日]+[は])a`([百代]+[の])a`([過客]+[にして])と順接で続きます。

あるいは

([太郎]と),([太郎]も),([太郎]か), ([太郎]が) というそれぞれ音の後に、
([花子] が、 も、か、に)といった接続が来ると、それぞれまったく違ったイ
メージがわきます。

概念+文法(この場 合は接続助詞)というミニマムな意味単位は、橋本進吉文法で
「文節」といいます。

我々の言語は、この文節構造を並べることによって、複雑なメッセージ(=情報)
を生み出すことができるようになっています。これが現生人類の進化です。これ
が可能になったのは、母音が発声できるよ うになったからで、今から66000年前
の南アフリカでの出来事だと考えられます。


6.
実は、思考も二元論です。思考とは、過去の記憶同士、あるいは感覚刺激 入力
と過去の記憶を比較する処理であり、その結果、「良い、悪い」「大きい、小さ
い」、「同じ、違う」などの思考結果が生まれます。

感情も思考の一部であって二元論理によって作用します。感情は、記憶が 良い
記憶か、悪い記憶か、それらが近づいてくるか、遠ざかっているかの二元論に
よって、喜怒哀楽が生まれる仕組みです。


7.
ウクライナの言語学者ポテブニャが指摘していることですが、論理的思考と文法
は、まったく別に作用する。つまり背反事象であるということ です。

文法的に正しくても論理的に正しいとは限らない。論理的思考は、文法を とも
なわない。

文法を使うようになると、人の運動反射機能は衰える。感情的になると、 論理
的に考えられなくなる。

これらの現象は、運動反射、文法、論理的思考、感情が、実は免疫グロブ リン
タンパク質の同じ構造を使っておきる現象だからではないでしょうか。


8.
こう考えると、ペトロ岐部が殉教するとき、快川紹喜和尚と同じように、 「安
禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」とさわやかな笑顔で死
んでいった可能性があるといえます。

吉田松陰も斬首されるとき、肝がすわっていたと言われています。

私はできれば拷問死や斬首で死にたくありませんが、もしそうなったとき に、
さわやかな笑顔で死んでいけたらカッコイイなあと思います。

合気道の稽古と同じように、論理に集中するためには、あまりしゃべらな いほ
うがよいと思います。しゃべるということは、文法を使うということで、その間
は論理的思考が作用しなくなるからです。

以上、昨日の話の一部をパラフレーズしてみました。

何かわからないことがあったら、お気軽にメールしてください。

とくまる
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言語記憶が脳室・脳脊髄液中の免疫記憶のネットワークであることについて
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様

昨日の松本さんの「わけがわからない」というコメントは、僕もじつは「免疫シ
ステムの生成文法」という論文の一部に初めて触れた2008年11月 に思ったこと
でした。

ハンス・ノルというスイス系アメリカ人の分子生物学者が、Digital Origin of
Human Languageという12ページの論文を書いていて、その中で、イェルネの「免
疫システムの生成文法」(1984年)と「免疫システムのネットワーク理 論」(1974
年)がかなり長く引用されていて、それらを初めて読んだとき、「言語と免疫が
どうして関係あるの?」と思ったものでしが。

そして、そのハンス・ノルの論文を何度も何度も読んで、和訳まで作ったにもか
かわらず、言語の記憶が脳室内の免疫細胞ではないかと思い至ったの は、なん
とそれから4年もたってからでした。

2011年の10月の研究会ではまだ思いついていなくて、翌11月の研究会で論じてい
ました。

言葉を学習して、それを何度も何度も思考操作して、ああでもない、こうでもな
い、ああかな、こうかなと考えることによって、我々の意識は広がり深 まって
いくのですが、年に20本から30本の研究会報告を作っていた僕ですら、丸三年も
かかって、イェルネが1984年に示唆したことをイメージ できたのです。

だから、松本さんや他の方が、「わけがわからない」というお気持ちはわかります。

でも、新しい言葉を学習し、それを使ってていねいに思考を重ねないことには、
意識は広がりません。

7万年間、謎でありつづけた人類の言語の起源とメカニズムを理解するために
は、何度も何度も思考の地平を打ち立てては、それを打ち壊すということ をや
る必要があるのだと思います。

だから、平易な言葉を使ってもダメで、聴く人がどれだけ自分の中で、それを
「学び、思う」かが大事なのかもしれません。

得丸

http://www.ieice.org/ken/paper/20111014N0iX/

http://www.ieice.org/ken/paper/20111126a0KB/

http://www.ieice.org/ken/paper/20120629u0Sc/
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助詞のベクトル性
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

「太郎と花子」、「太郎か花子」、「太郎も花子も」、「太郎が花子に」、と
いったことばを耳にしたときに、わずか一音節の違いなのに、まるで違っ たイ
メージがわいてきませんか。

それは文法のベクトル性のおかげだと思うのです。

添付の図は、2年前に、研究会で自分の出番をまちながら、それぞれの助詞を
オートシェイプで表現するとどうなるかと考えて描いたものですが、我々 の脳
は、それぞれの助詞を形として聞き取って処理している。

「と」とか「も」というの「オ」の音を含むものは、水平な関係、

「か」(接続助詞)とか「が」(格助詞、接続助詞)、「だ」(終助詞)など
「ア」音は、上下の動き、

とかまあ、思いつきで、あれこれと描いてみました。


このベクトル処理が、どうして可能になるのか。これが文法の謎ですが、鈴木先
生の「鳥類の音声活動」で、雉類が、首が短い影という危険信号の 「形」と、
「運動ベクトル」を処理しているのが、参考になりました。

動物が運動ベクトルを処理する機能を、ヒトは論理ベクトルとして処理する。

だから、1〜2才のこどもは、ちょっとしたあやしにおおはしゃぎするのに、文法
を覚えると反応しなくなるのではないか。

と考えたのです。


このことを、文法はプロトコルスイッチであるというのです。無意識に脊髄反射
でベクトル処理をして、単語と単語を自動的につないでいくのが、文 法。

これができるのは、ヒトが母音を獲得したからだ。

これがデジタル言語学のコアです。

得丸


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