4792.『銃と十字架』



『銃と十字架』は相当面白い
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

『銃と十字架』、おもしろいですね。あえてネタばらしはしません
が、この本の超絶的なおもしろさは、これが誰によっても積極的な
評価をうけていないところにあらわれていると思います。

>遠藤があまり書いていない「強者」の代表格ともいえるペトロ・カスイ
>岐部について書いたという小説『銃と十字架』をとりあげて、今夏合宿の総括の
>場ともするというのが、この間の流れからすればベストではないかと思います。

>ただし、この本は絶版であり、なぜか遠藤周作文学館でも入手できなかった1冊。
>もしかしたら遠藤自身か遺族が失敗作とみなして目に触れないようにしている
>のかもしれません。

松本さん、遠藤は失敗作だとは思ってなかったと思います。
『沈黙』同様に、バチカンが嫌ったか、バチカンの目に触れさせたくなかっただ
けでしょう。

僕は遠藤周作のキリスト教観の理論的な最高峰にある本だと思いました。

そして、17世紀前半の日本におけるキリスト教弾圧時の貴重な通史
ともなっています。

神の沈黙、フェレイラの棄教、島原の乱。

この必敗の時代背景のなかで、敢然と殉教を勝ち取っていった
ペドロ岐部がいったい何を考えていたのか。ほとんど資料がない
なかで、遠藤は自己投入して、岐部の心中を描いています。

遠藤は、岐部のなかにも弱者の部分をみつけ、岐部が自らの弱い
ところをどうやって乗り越えたかを明らかにしています。

これは徹底的に読み込む価値がある本です。

隠れキリシタンの教えとも結びつく話ではないでしょうか。


>この必敗の時代背景のなかで、敢然と殉教を勝ち取っていった
> ペドロ岐部がいったい何を考えていたのか。

ペドロ岐部は、浪漫派だといえませんか。

日本に帰国すれば必ず棄教か殉教かの厳しい状況に置かれる
ことがわかっていて、それでも帰国して、実際に拷問にあう。

そこで棄教せず、殉教したことによって、自分の宗教の正しさ
を歴史的に証明した。

自らのロマンに殉ずることによって、そのロマンを史実にした。

ペトロ岐部は、キリスト教会内の浪漫派であり、イエス・キリスト
の再来といってもよいくらいではないかと思いました。

得丸
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From: 松本輝夫
得丸さん、皆さん

あれこれあって、残念ながらまだ半分くらいしか読めてないけど、
ペトロ岐部のような今の日本人のありようからすれば信じがたいほ
どの「強者」=殉教者が生まれてくる時代状況、世界状況を
遠藤なりにかなりよく調べ、学習し、考え抜いて書いた稀に見る
1冊であることが、よくわかります。
遠藤のなかでは「弱者」に力点おいて書いてきた著作が続いた中で、
バランスを図る内的必要性が生じてきたが故の所産かもしれないが、
この強者=ペトロ岐部の一筋縄ではいかない陰影,背景にも迫ろう
としていて、それがこの本の魅力と価値を高めていると思います。

こうしたペトロ岐部をキリスト教徒内浪漫派というのは、
すこぶる面白い見方だと思うけど、その場合、それこそ
「浪漫派」の厳格な定義が不可欠でしょうね。
三島由紀夫の「殉教」(彼の主観では多分殉教だったはず)と基本
的に同じ意味で言うとすれば、かなり違うと思うけど。
では、2・26若手将校らの「殉教」とは、どうかな?
ここまで来ると、「殉教」可能な思想、あるいは心構えとはつまり
はどのような構造を孕むか、さらには、そうした思想を原理的に
どう受けとめるか、といった主題に行きつくのではないかと思いま
す。
これはやや飛躍させれば、今日でもイスラム世界では、
なんで「聖戦」戦士や殉教をも恐れぬデモ参加者が限りなく生れて
くるのかという謎とも通い合う問題ではないだろうか。
ともあれ、この1冊をめぐって、原理的な議論を深めていければい
いなと願っています。

最後に敢えてやや余計なことを言えば、ペトロ岐部は大分の国東出身の人物。そ
の点では新大分県人である小生にとっても、また大分ネイティブであるはずの得
丸さんにとっても、格別な意味合いをもつ男と言えるかもしれませんね。遠藤も
書いているけど、他ならぬ国東という地域に根を張っていた岐部一族の出自とい
う要素もペトロ岐部というとんでもない傑物を考える上では欠かせない側面でしょ
うからね。
                   松本輝夫

追記:他ならぬ遠藤周作文学館にも、なぜこのテキストがなかったのか、あの日
の訪問時は天候がにわかに激しく荒れてきて、気持ち的なゆとりが失せたせいか、
館員に質問することを忘れてきてしまったのですが、近日中に電話して尋ねてみ
ることにします。もちろん館員の回答が、そのまま是と受け取れるものかどうか
は別問題でしょうが。
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松本さん、

>こうしたペトロ岐部をキリスト教徒内浪漫派というのは、
>すこぶる面白い見方だと思うけど、その場合、それこそ
> 「浪漫派」の厳格な定義が不可欠でしょうね。

浪漫派というのは、今そこにある現実は間違っているという
認識をもちながら、その世界から逃げるわけでなく、あるいは
その世界を言葉で批判するわけでなく、自らの必敗の行動に
よって本来あるべき世界を提示する人々というのはいかがで
しょうか。

神風特攻隊とか、保田與重郎の生き方とか、似ていませんか。

タイトルの『銃と十字架』は、明らかに西欧キリスト教が植民地
主義の片棒を担いできたことを示唆しています。

植民地主義的ではないキリスト教がありうるのだということを
後世の歴史家に委ねたのがペドロ岐部だった。これが遠藤
の理解では。

『沈黙』を書いた後のさまざまなことによって、バチカンによる
ナガサキ原爆投下という人類史上最大の犯罪を、遠藤は確信
したのだと思います。

それがペドロ岐部理解につながったのでは?

得丸



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