4787.隠れキリシタンはキリスト教のどこに惚れたのか



隠れキリシタンはキリスト教のどこに惚れたのか
From:tokumaru
みなさま、

キリスト教の何が隠れキリシタンの人々を惹きつけたのかという問
題かなと思います。

日本語は、世界でもっとも古い音節文字を2組もっていて、それも作
成以来一度も形が変わっておらず、そのため庶民の識字率が高く、
詩歌を愛する、文学を愛する、心豊かな民族が生まれました。

その日本人が、キリスト教のどこにそんなに魅入られたのか。これ
はまだあまり議論が行われていないことです。

僕は、論理性だと思っています。

日本語は便利ですが、論理性という点では、弱い。というよりも、
日本人は言語表現の論理性をはなから馬鹿にしていて、頓知ものの
民話では、言語コミュニケーションのもつ陥穽を鋭くつくものが多
くあります。

言語の二義性(一休さんの「この橋とおるべからず」)や同じ表現
をまったく別に理解する例(「餅屋の禅問答」)、言葉はあるもの
の意味が理解できない言葉のもつ呪術的力(「ふるやのもり」)、
言葉と意味の恣意的結びつき(「吉四六さんのどっこいしょ」:奥
さんの実家で生まれてはじめて団子を御馳走になり、家に帰ったら
奥さんに「団子」と言おうと思って、忘れないように「団子、団子
、団子」と言いながら帰途についた吉四六さんは、小川を飛び越す
ときに思わず「どっこいしょ」と声を出したために、それから「ど
っこいしょ、どっこいしょ」と言い続けて、家で奥さんに「どっこ
いしょを食べたいから作ってくれ」といった話)。

また、問いのたて方によって、答えが誤ることがある例もあります。
吉四六さんは、朝早く臼杵の街を出て、日中ずっと大分に向かって
歩きながら、「臼杵から大分は何里か」と問い続けたために、どん
なに歩いても、大分まで13里の距離が縮まらず、落胆して大分に
着く直線に引き返した話など。

だからそもそも言語で何かを論理的に構築するなんて発想がなく、
不立文字の世界、さとり、もののあはれ、を重んじてきた。

でも、科学を考えるときは、それではいけない。宇宙や生命の神秘
を考えるためには、目に見えないものを論理化することが必要で、
それをもっていたのがキリスト教教学だった。

そこに惹かれたので、だから隠れキリシタンの教義・教学にはユニ
ークな世界観をもつものがあるかもしれないと期待してます。

得丸
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皆様

さすが朝日、夏休みの日曜版のお陰でいろいろな知人からコメント
を頂戴しました。
山中さんとのお話のあと、”中国の文化大革命活動家のその後につ
いて”余りかかれていない
ので機会があれば書いてくださいと頼んでみました。我々とおなじ
年齢世代ですがひどく空虚な世代らしいです。
山中さんとの取材で記事に出ていない私の独断裏会話を紹介します。

 中国は理工系出身の要人政治家が多い。胡錦濤、温家宝、習近平な
ど清華大学工学部のテクノクラート出身者たちが数多く活躍している。
中国通の友人が調べたところでは
 胡錦濤 (清華大学水力エンジニア学部)
 呉邦国 (清華大学無線電子学科真空トランジスター学部)
 温家宝 (北京地質学院)
 李長春 (ハルピン工業大学電機学部)
 習近平 (清華大学化学工程部)など
 
これは、文化大革命後、■小平が国づくりのため論争と破壊活動ば
かりしている「改革開放路線」の文系の若者を嫌い、実利的である
理工系の人材を重用したためといわれています。結果の是非はとも
かく彼らテクノクラートたちは確かに国づくりに役立っている人材
であっただろうとおもいます。
 
全共闘活動はおる意味で中国の文化大革命を文化輸入したような部
分がある。
日本では文官重用社会である。日本に文化大革命ー全共闘活動家や
周辺のその後はどうなったかあまり書かれていないようです。山本
義隆のような特殊な人もいるが、大部分の理工系学生はノンポリで
就職して企業戦士になってその後は資本の論理の犠牲になっている
サラリーマン技術者たちが多い。
 
日本では首相になった菅直人(東工大応用物理学科、弁理士)鳩山
由起夫(東大情報工学、スタンフォード大 オペレーションリサー
チ専攻 phD)がいるが異色でテクノクラートではなく変わり者にす
ぎない。福島原発の事故のときに専門家の真似をしてヒステリーに
命令した首相が日本を救ったとは思えない。実際に救ったのは東電
吉田所長のような現場の技術者の判断であったろうと思う。日本の
技術者はタコツボ的な専門バカか班目のような無責任な権威者が幅
を利かせているのが日本のテクノクラートの現状でしょうか?
 
国づくりという点では明治維新の志士や弟子たちの仕事ぶりに近い
ことをしているのは現在の韓国、中国のテクノクラートたちのよう
に思いますがいかがでしょうか?
このあたり、囲碁をはじめいろんな分野で韓国・中国が日本を凌駕
してきているのは単なる途上国のハングリー精神の差とのみで片付
けられないように思いますがいかがでしょうか?
中国の文化大革命活動家のその後の話や日本のテクノクラートにつ
いての
皆様のご意見お聞かせくだされば幸甚です。
 
小川
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渡辺京二著「もうひとつのこの世」について
石牟礼道子が描いたものは、幻視だったのか、現実だったのか
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆さま、

ちょうど合宿が島原で行なわれている今日の毎日新聞 今週の本棚で、渡辺京二
著「もうひとつのこの世」が取り上げられていました。書評者は中島岳 志でした。

中島の文を一部だけ紹介します。

「彼女の描く世界が美しいのは、喪失と崩壊の上に成り立つ幻影だからである。
一切の分裂がない原初的な世界など、もはや眼前には存在しない。美し い世界
は、喪失によって再帰的に獲得される。そこには「現実から拒まれた人間が必然
的に幻想せざるをえぬ美しさ」が存在する。現実が過酷な崩壊に 直面し、絶望
が加速すると、その苦悩の先に美しい世界が幻視される。だから「苦海」は「浄
土」となる」

このあたり、中島氏の説なのか、渡辺氏の説なのか、原典を読んでいないので、
わかりませんが、僕には違和感があります。

『神々の村』で描かれていた胎児性水俣病患者の生き方は、もっとストレートで
純粋な生の喜びであり、人間が共通にもつ「もののあはれ」であると思 うから
です。

つまり、「苦海」が「浄土」であるのは、イロニイとしてではなく、絶望の果て
から、性善の歓喜が垣間見えているからだと思うのです。それは、幻視 ではな
く、現実として、実在として、姿を見せている。

いかがですか。

今週の本棚の記事内容は、ネットでは公開されていないようですが、お近くに毎
日新聞があれば、是非とも手にとって、読んでみて下さい。

渡辺さんの本が出たときに、本を紹介する記事が少し前の新聞にあったので、コ
ピーします。

http://mainichi.jp/feature/news/20130803ddp014040004000c.html

  渡辺京二さん:『もうひとつのこの世』刊行 石牟礼道子論の集大成 近代以
  降の孤絶感、論考
毎日新聞 2013年08月03日 西部朝刊

 <土曜カルチャー>
 日本近代史家の渡 辺京二さん
http://mainichi.jp/search/index.html?q=%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4
%BA%8C%E3%81%95%E3%82%93&r=reflink(83)=熊本市在住=が評論集『もう
ひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』(弦書房)を刊行した。作家・石牟礼道
子さん(86)=同=についての論考14本を収録する。文学的盟友で思想的同
志との半世紀余に及ぶ交友をベースにした石牟礼論の集大成 だ。【米本浩二】

 2人の出会いは1962年。渡辺さんが編集の地域文化誌『熊本風土記』で石
牟礼さんの「海と空のあいだ に」が8回連載され、70年に連載をベースに
『苦海浄土』が出版された。原稿を渡辺さんが全部清書するなど、その後も交友
は続く。石牟礼 さんがパーキンソ ン病を患う現在は、渡辺さんが石牟礼さん宅
で手紙や資料の整理をし、夕飯を作って一緒に食べるのを日課としている。

 「以前は彼女の家に10時間くらいいた。気力と体力のなくなった今は4時間
程度。石牟礼さんが水俣病の患者救済運動に身を投じたの が、彼女のもとに通
うきっかけですね。宿の世話や取材の段取りなど、誰かがしないといけない。
放っておけない人なんです。縁ですね」

 今著は、石牟礼研究の記念碑的基礎文献ともいえる講談社文庫版『苦海浄土』
の解説「『苦海浄土』の世 界」(72年)を冒頭に置き、書き下ろし評論
「『天湖』の構造」(13年)で締めくくる。14本のうち4本が単行本未収
録。石牟礼さんと の出会いが「私の 自己の再発見」であり、「この出会いなし
に、物書きとしての今日の私は存在しない」と断言する。「日本近代のとらえ方
において、彼女の示 した世界は圧倒的 に大きかった」とも振り返る。この本は
石牟礼論であるとともに渡辺さんの自己検証の試みでもあるようだ。

 書名の「もうひとつのこの世」は、石牟礼作品の核心を示す言葉でもある。日
本が近代化される以前の、精霊が息づく土俗的な世界。<世 俗的な生活の彼方
に、その始原ないし根元をなす隠れた存在の次元があって、その次元から絶えず
呼び返されている>のが人間の生だという。

 しかし、近代に育てられた以上、ユートピアのような「もうひとつのこの世」
にとどまるのは不可能であ る。<文字以前の世界に安住しているのではなく、
まさに文字文化によって与えられた分裂した意識の中に生き、そこから引き裂か
れる以前の 世界を幻視するの である>。近代と前近代とのはざまで宙づりに
なったような孤絶感こそ、石牟礼さんがペンを走らせる力となるのだ。

「チッソ告発のジャンヌ・ダルクとして有名になった。左翼的な記録文学作家と
見なされ、純粋な小説家ないし詩人と認められない時期もあった。 石牟礼 とい
う作家の本質は、日本近代文学が描こうとしなかった、むしろ描くことができな
かった世界に初めて表現をもたらしたところにあります」

 石牟礼さんの旺盛な表現意欲をはぐくんだものは何なのか。「彼女は、日本近
代の創生期に育っています。 社会が変容し、村が町になる。資本主義社会が確
立していく。近代化に庶民が巻き込まれていく。人間性が失われる。そんな大き
な変化が石牟 礼さん自身のドラ マとしてあった。水俣病はそのドラマの極点に
あったのです」

 石牟礼作品のもうひとつの特質は、過去と現在が共存し、交じりあい、同時進
行する特異な物語構造にある。フォークナーらが先駆となり マルケスらが展開
した20世紀前衛文学の手法に酷似している、としばしば指摘される。

 「マルケスらには実験的意図があるのでしょうが、石牟礼さんには全然ない。
意図せずに過去と現在が一緒になる。生まれ持った前近代的 な時間感覚ゆえで
しょうか。才能としか言いようがありません」

 石牟礼さん宅には膨大な原稿、ノート類がある。昨年刊行された石牟礼さんの
『最後の人詩人高群逸枝』の 中核をなす「森の家日記」はノートから起こした
ものだ。宝の山ともいえるノート類の整理の進捗(しんちょく)状況は「半分程
度」という。 日記の断片も、月 日は書いてあっても年月が不明の場合、前後か
ら類推しないといけない。難事業だ。

 これまでの歩みを渡辺さんは「楽しかった。幸せでした」と振り返る。後継者
は?と問うと、首を振る。

 「40歳になってもイギリスが島国なのを知らない。石牟礼さんにはそんな珍
談、奇談が山ほどある。書い ておかないと忘れられてしまう。聞き書きをした
り伝記的なものを書こうという人がいないんです。書いておけば後年必ず引用さ
れる。いい仕 事になるはずなん です。誰かやらないかな」
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『論語』の誤植の可能性 孔子が弟子たちに語った言葉は、
「思而不學則罔、學而不思則殆」ではなかったか
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU 

「論語」の誤植の可能性について

『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あ
やう)し』

「学んでも考えなければ、[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなけれ
ば、[独断におちいって]危険である」というのが、孔子『論語』(金 谷治訳
注/岩波文庫)での解説です。原文は、「子曰、學而不思則罔、思而不學則
殆。」です。

しかし、孔子が弟子たちに言った言葉は、學と思が入れ替わって「思而不學則
罔、學而不思則殆。」ではなかったかと思うのです。つまりかなり古い昔 から
誤植があったのではないか。もしかしたら、弟子たちが孔子のことばを記憶し間
違えていたとすれば、誤植というよりも、弟子の記憶誤りになりま す。

誤りを正すと、『思いて学ばざれば則ち罔し、学びて思わざれば則ち殆し』とな
ります。

それを、現代語訳すると「いくら一人であれこれと考えても、先人や他者の考え
てきたことを参考にして学ばないと、思考の幅が狭くて意味がない。 (人類の
叡智の歴史的所産あるいは同時代人の知的営為に暗いということである)

 他者の言葉を学んだ後で、ああでもない、こうでもない、ああかな、こうかな
と、自分の頭の中で思考を深めないと、その言葉を正しく使えない(言 葉を正
しい意味で使えないので危険である)」となります。

 デジタル言語学としては、学ぶとは、生物学的には、新たな言葉の波形を免疫
記憶の凸(脳幹網様体)と凹(脳脊髄液中のBリンパ球受容体)のセッ トとして獲得
することを言います。これは免疫細胞のもつ二分法論理、つまり言葉の音韻パ
ターン認識を可能にするための作業です。

 また、思う・思考とは、記憶と言葉、言葉と別の言葉を、二項演算して、○、
×、△、<、>などと論理的な関係を明確にすることを言います。これ は免疫細
胞の二元論に基づいた論理操作です。

得丸
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皆様

得丸さんから毎日新聞の渡辺京二著作の書評紹介が出ていましたが、
先週は朝日新聞で渡辺京二さんインタビューが掲載されていました。
以下転載します。御参照下さい。

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朝日新聞 2013.08.22 オピニオン
(インタビュー)生きづらい世を生きる
 
近代化の意味を問う評論家・渡辺京二さん
 
幕末維新のころ日本に滞在した外国人の訪日録を集め、近代化以前
の社会の実相を明らかにした「逝(ゆ)きし世の面影」が12万部
を超すロングセラーになっている。異邦人の目に映ったのは、幸福
と満足にあふれる当時の日本人の姿だった。その後、私たちは何を
失ったのか。なぜ生きづらい世になったのか。著者の渡辺京二さん
に聞いた。

 ――「日本に貧乏人はいるが貧困は存在しない」という外国人の
言葉が強く印象に残りました。

 「明治初期に東大に招かれた米国の動物学者モースの言葉ですね
。彼の念頭にあったのは、19世紀末の当時、欧米の大都会でみら
れた労働者の打ちひしがれた表情です。すでに資本主義が始まって
いました。貧困によって人間の尊厳まで否定される絶望。『人生の
敗者』を思わせる不幸。そういったものが刻み込まれた貧困の表情
が日本の貧乏人には見られない、と驚いたのです」
 「江戸には膨大な数の貧乏人がいたんですよ。でも彼らは、それ
ぞれ居場所をもっていた。たとえば、煙管(きせる)にヤニが詰ま
りますね。それを掃除する仕事が職業になる。それで食べていける
。そのかわり粗末な長屋暮らしですよ。家具もほとんどない。しか
し、そんな貧乏人が食事になると美しい食器を使う。その美意識に

も外国人は驚いたんです。しかも親はしつけで子をたたかない。『

子どもの楽園である』と」
 ――日本も日本人も、大きく変わってしまったんですね。
 「維新後に司法省顧問に呼ばれたフランス人のブスケは、日本の
労働者はちょっと働いたらすぐタバコ休みにする、これでは近代産
業を移植するのは無理だと考えた。当時の日本人はまだ、自分が時
間の主人公だったんですよ。地固め工事のヨイトマケをみたモース
も、日本の労働者はまず歌い、それから滑車の綱を引くと。なんで
労働の手を休めて歌うのか、不思議に思うんです。要するに労働は
資本主義の賃労働と違って、遊びと分離されておらず、楽しみが含
まれていた。そういう非効率なものを排除していったのが近代化だ
ったわけです」

 ――まるでメルヘンの世界ですが、そんな時代を取り戻そう、と
いう趣旨で本を書かれたのですか。

 「違います。一度失った文明は取り戻せるはずもない。それに、
こういう特質は資本主義が始まる前の中世の欧州にもありました。
欧米の観察者が日本で見いだしたのは、古き良き欧州も持っていた
前近代社会の良さだったのです」
 「私たちは彼らの観察を通して、近代化で失ったものの大きさ、
豊かさを初めて実感できます。いま私たちが生きている近代文明の
本質も見えてくる。たとえば、いくら江戸時代がいいといっても当
時の平均寿命は今の半分以下だったんだぞ、という批判があります
。でも、その前提にある『寿命は長ければ長いほどいい』という価
値観が、すでに近代の発想なんです。人は時代に考えを左右される
。その思考枠に揺さぶりをかけ、いまの社会のありようを相対視し
たかったのです」

    ■     ■

 ――では現代はどう見えますか。
 「あらゆる意味づけが解体され、人が生きる意味、根拠まで見失
って、ニヒリズムに直面しているのではありませんか。だから合理
的に働き、合理的に稼ぎ、合理的にモノを買って遊ぶ。グルメや温
泉巡り、ゲームがはやるわけです。稼いで遊び、遊ぶために稼ぐ。
それが人生だと。それで済む人もいるでしょう。でも人間はいつま
でもは満足できない。そのうち空しくなる」

 ――生きづらい世の中になってしまったのは、なぜでしょう。
 「根本には、高度資本主義の止めどもない深化があると思います
。基礎的な共同社会を、資本主義は根っこから破壊してしまうんで
すよ。たとえば江戸の長屋だったら、お隣さんに『悪いわね』とい
って子を預けて外出できた。ところが今は、お金を払ってベビーシ
ッターを呼ぶ。つまり共同社会では無償で支え合ってきたものを、
資本主義社会は商品化してしまうわけです」
 「お金を払えば済むわけですから便利ではあるんですよ。だけど
人間はバラバラになってしまう。資本主義は一人一人を徹底的に切
り離して消費者にする。その方が人はお金を使いますから。生きる
上でのあらゆる必要を商品化し、依存させ、巨大なシステムに成長
してきたのです」

 ――でも、私たちはそれによって経済的繁栄を手に入れたはずで
す。

 「その通りです。何よりも貧しさを克服した。人類は長い間、衣
食住の面で基本的な生存を確保できず、初めて手に入れたのが近代
ですから。しかし、近代は人間を幸せにすることには失敗しました
。人間に敵対的な文明になってしまった」
 「昔は想像もつかなかったほどの生産能力を、私たちはすでに持
っているんですよ。高度消費社会を支える科学技術、合理的な社会
設計、商品の自由な流通。すべてが実現し、生活水準は十分に上が
って、近代はその行程をほぼ歩み終えたと言っていい。まだ経済成
長が必要ですか。経済にとらわれていることが、私たちの苦しみの
根源なのではありませんか。人は何を求めて生きるのか、何を幸せ
として生きる生き物なのか、考え直す時期なのです」

    ■     ■

 ――人が生きていくうえで、大事なことは何だとお考えですか。
 「どんな女に出会ったか、どんな友に出会ったか、どんな仲間と
メシを食ってきたか。これが一番です。そこでどんな関係を構築で
きるか。自分が何を得て、どんな人間になっていけるか。そこに人
間の一生の意味、生の実質がある。本来、生きていることが喜びで
あるべきなのです。日本がGDPで世界2位か20位かは関係ない
んです」
 「どんな社会を構築していくべきか。そのヒントが江戸時代にあ
ります。皆が1日5時間働いて、ほどほどの暮らしができないかと
か、労働自体の中に楽しみがあり、仲間との絆が生まれる働き方が
できないかとか。もちろん直接の応用はできませんよ。経済も社会
も大きく変わっていますから。でも、社会に幸福感を広げるにはど
こを目指せばいいのか、その手がかりはある」

 ――しかし現実には、低賃金の長時間労働、非正規雇用が増え、
独身率も高まって若い人は大変です。

 「就職難で『僕は社会から必要とされていない』と感じる若者が
いるらしいねえ。でも、人は社会から認められ、許されて生きるも
のではない。そもそも社会なんて矛盾だらけで、そんな立派なもの
じゃない。社会がどうあろうと、自分は生きたいし生きてみせる、
という意地を持ってほしいなあ」
 「『自己実現』という言葉に振り回されている気もしますね。そ
れは、ただの出世の話でしょ。社会規範にうまく適合し、基準を上
手にマスターし、高度資本主義に認められたステータスに到達した
というだけのこと。自分の個性に従って生きれば誰しも自己は実現
されるんです。あんなものには惑わされない、しっかりとした倫理
観と堅実な生活感覚をもった民衆像が日本にはあるんです。藤沢周
平の小説にみられるような豊かな庶民生活の伝統が」

    ■     ■

 ――ご自身はずっと熊本ですか。

 僕は小学4年から今の高校1年まで旧満州の大連で育ったの。
戦後、着の身着のままで熊本に引き揚げてきて、バラックの六畳間
に7人暮らし。17歳で共産党に入り、結核にもかかって、まとも
な就職なんかできなかった。それでも僕は生き延びてみせると思っ
たし、生き延びてきた。ソ連の戦車がハンガリーの街頭で民衆に砲
口を向けた時点で、党とはさっぱりと切れましたが」
 「人は何のために生きるのかと考えると、何か大きな存在、意義
あるものにつながりたくなります。ただ、それは下手するとナチズ
ムや共産主義のように、ある大義のために人間を犠牲にしてしまう
危険がある。人間の命を燃料にして前に進むものはいけません。そ
の失敗は、歴史がすでに証明しています」

 ――若い世代にアドバイスを。

 「人と人の間で何かを作り出すことですよ。自分を超えた国家の
力はどうしても働いてくるんだけど、なるべくそれに左右されず、
依存もしない。自分がキープできる範囲の世界で、自分の仲間と豊
かで楽しい世界を作っていく。みんなで集まって芝居を作ってもい
い。ささやかに食っていける会社を10人ぐらいで立ち上げてもい
い。僕も熊本でずっと、仲間と文学雑誌をつくっては壊し、つくっ
ては壊ししてきたんです」
 「ただ、基礎的な社会にだけ生きて国家のことは俺は知らないよ
、ということはできない。国民国家のなかに僕らは仮住まいしてい
て、大家には義理がありますから。だけど、それはあくまでも義理
。義理は果たさねばならないが、本心は別のところに置いておきた
いものです」

-- 
NIHIRA Takuma
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三水会の夏の旅行 徒然なるままに
From:tokumaru
みなさま、

今年は夏にいくつか旅行の誘いがあったのですが、そのなかで、1月
に亡くなった毎日新聞の村田昭夫さんの生まれ故郷の山口を訪ねる
というのがありました。8月31日と9月1日の一泊二日で、下関、長門
、萩を訪れる旅でした。

ロンドン時代に、三水会という名前で、第三水曜日に食事と談話を
楽しむ会として立ちあげられて、みんなが帰国した後は、月例で東
京で開かれていました。

僕は、お金もなかったので、年に1〜2回しか参加してなかったの
ですが、それでもメンバー資格をはく奪されることもなく、ずっと
メンバーでいました。

じつは月末の予定が確定した8月17日に、鷹揚の旅行の申し込みをし
ようと思って、石川さんの紹介してくれた阪急旅行のツアーをみた
ら、すでに申込期間が終わっていて、ものすごく高い料金になって
しまうことがわかりました。

そのとき、村田さんが、「たまには三水会に来いよ」といつもいっ
てくれていたことをふと思い出して、幹事に旅行に追加で申し込み
たいと連絡しました。

すると、幹事が、「もう、手配はすべて終わっている。ドタキャン
要員でスタンバイするか」というので、空席待ちをしていたのです。

先週水曜日、夜、六時半ごろ、携帯に連絡があり「ドタキャン出た
よ」と幹事の嬉しそうな声がする。

ある会員のお母さんが、ちょっと具合が悪くて、用心のために病院
にいったところ、硬膜下で出血がみられて、即座に入院手術という
ことになったというのです。

今思えば、その方が用心のためにお母さんを連れて病院に行ったの
は、村田さんの影響だったのかな。

週末の山陰地方の天気は大荒れで、飛行機が飛ぶのか飛ばないのか
といったことで、キャンセルしたらどうなるか、東京で飲む場所を
見つけようかといったメールが飛び交った中、土曜日朝は全便ちゃ
んと飛んだし、我々の旅程中雨は結構降ったけど、とくに大きな問
題もなかった。

村田さんは晴れ男だったのですが、僕も晴れ男だから、ドタキャン
を出して、晴れ男を増やしたんじゃないか。

しかし、日本で宴会するにあたって、刺身を食べないですませるの
は、大変ですが、結局、僕は食べずに通しました。

海洋中に大量の放射能が混じっていて、日本列島の周りには沿岸流
と沿岸反流という流れがあって、放射能を適度にばらまいている。

この状況では、魚を食べる文化をもつ日本人は、毎日「福引き」し
ているようなもの。大当たりの魚を食べたら、癌になったり、心筋
梗塞になったり。

だからさなかはもう食べないのが正解だと思うのだけど、誰に伝え
てよいかもわからず、結局、みんなが刺身定食のときに自分一人肉
うどんを食べたり、刺身の皿に手をつけなかったり、その程度の自
衛策をしていました。

日本人に魚を食べるなというのは、非国民以下、非常識もはなはだ
しいということになるのでしょう。

なんで僕だけこんなに魚に敏感なのかというと、2000年から3年間、
海洋汚染の監視の仕事をしたときの経験があるからだと思います。

当時すでに水銀濃度が高いから、マグロ類は妊婦や子供は食べては
いけないということが欧米では言われていましたし、水産試験場の
職員も、多年魚は子供には食べさせたくないと言っていました。

しかし、「公的機関がもっときちんと国民に(魚の汚染について)訴
えるべきではないのか」というと、「誰が漁業補償するのか?」と
いう反応で、要するに安全よりは、生活安定を優先させるのが漁業
者の本音であることがわかって愕然としたことがあります。

漁業者から魚や海の汚染について、正しく伝えられることはないと
すると、ほかの人はみんな海に行かないのだから、海で起きている
ことを知りようがない。

知らないことは、イメージもわかないから、魚の汚染について、誰
も考えることができないのではないか。

思考のためには言葉が必要であり、言葉を覚えるためには、それが
必要だと思わせる状況が不可欠。

だからみんな、海洋汚染や魚の汚染について考えることができない
のだ。


こういったことを考えながら、富山で鈴木孝夫先生の「言語文化論
ノート」を読んでいたのが、僕と言語学の最初の出会いでした。


長々と書きましたが、今回の旅行で、村田さんの霊の存在を感じま
したが、霊とは話ができないから、つまらなかった。

みなさま、用心できるなら、用心して、少しでも長生きしてくださ
い。

今の日本は、うかうかしていると、放射能まみれになって、自分で
原因もわからないうちに病気で死んでしまう。

もっともっと頭を使って、悩んでみてください。
悩むことで何かが変わるかもしれないから。

得丸



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