4650.『資本主義という謎』



資本主義という謎
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

余裕のある方、これから連休にかけて本を探しておられる方、『資本主義という
謎』は、おもしろいです。

僕はまだ70ページしか読んでいませんが、二人の対談を読みつつ、「ちょっと
違うぞ」、「あれれ、そうかな」という思いがどんどん湧いてきます。

資本主義とは何かというところから、著者と考え方が違うのですが、それによっ
て資本主義について根源的な考察が可能になるという予感がします。

なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか。これは、キリスト教的なロゴス(論
理)の世界が、資本主義を生んだのだと思います。

資本という存在が、論理層(形而上)において、人間を支配するようになったか
ら、資本主義が生まれたのではないか。

その資本の論理によって、資本が資本を生み出す利子が肯定され、お金をもうけ
ることが論理的営為に高められた。

さらに、ラスカサスが描いたように、異教徒は人間ではない、生かすも殺すも自
由であるという自己中心主義的な思想が、資本主義と合体すると、大航 海時
代、植民地といういびつな経済発展、外部から収奪することによって発展する経
済というものが生まれてくる。

これが資本主義の正体ではないか。

といったことを感じながら読んでいます。(著者の主張とはまったく違うことを
考えています)


ぜひぜひ『資本主義という謎』をお試しください。
得丸
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桐島、部活やめるってよ って知っていました? 
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

「資本主義の謎」、いやぁ、本当に面白い。

資本主義の終わりの時代に、資本主義を徹底的に哲学しています。

とくにびっくりして、感動したのは最終章の第5章です。

第5章では、昨年話題になったという映画「桐島、部活やめるってよ」が話題に
なります。

この映画、皆さん、知っていましたか。僕はこの「資本主義の謎」ではじめてそ
のタイトルを知りました。

ネットでみると、相当な話題になったこの映画、存在すら知らなかった自分が正
直いって恥ずかしい。アンテナが鈍っているといえるかも。

大澤さんと水野さんは、この映画、ベケットの「ゴドーを待ちながら」とのアナ
ロジーで論じています。

ひと言でいうと、この映画に登場する高校生たちは、資本主義の次の時代を予感
して、旅立とうとしているというのです。

http://www.vap.co.jp/kirishima-movie/

http://www.kirishima-movie.com/index.html

http://www.shueisha.co.jp/kirishima/

新書本にしては盛りだくさんな内容が議論されている「資本主義の謎」ですが、
連休もあるので、5月はこの本を取り上げませんか。

何回も読み返すと、その面白さに感動するはずです。

資本主義についての考えが深まり、研ぎ澄まされます。

得丸
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From: 盛利泰
得丸様、皆様

映画の『桐島、部活やめるってよ』は、朝井リョウの原作(『少女
は卒業しない』もおすすめです。というか、まだこの2冊しか読ん
でいないのですが)を映像的に再構築した部分が素晴らしく、原作
とは違った面白さが味わえます(部分的にもかなり改変しているの
で印象もずいぶんと違っていました)。

ただ、これと似た手法の洋画(題名が思い出せないのがなんとも…
…)を何年か前に見ていたので、私としてはそれが気になったので
したが。

> 大澤さんと水野さんは、この映画、ベケットの「ゴドーを待ちながら」とのアナ
> ロジーで論じています。
> > ひと言でいうと、この映画に登場する高校生たちは、資本主義の次の時代を予感
> して、旅立とうとしているというのです。

題名では主役の「桐島」が、名前だけでしか登場しないから『ゴド
ーを待ちながら』なのでしょうか?

圧倒的存在感のあった「桐島」が部活をやめてしまった(らしい)
ことに、登場人物たちが右往左往はするけれど、「桐島」が果たし
て彼らにとって待たれた存在だったのかどうか。

ゴドーがゴッドで桐島がキリストなのだというこじつけは可能にし
ても(とはいえ、これは「批評」として面白いのであって、「映画
」や「原作」の魅力とは別物のような気がします)、「資本主義の
次の時代を予感して、旅立とうとしている」となると、どうなので
しょう(『資本主義の謎』は未読なので、どう書かれているかは知
りませんが)。

確かに「戦おう、この世界で。俺たちはこの世界で生きていかなけ
ればならないのだから。覚えといてよ」というようなセリフが最後
の方にあったので、「戦おう」というところはそうなるでしょうか。
でも、後半部分は、資本主義はなくならない、と言っているように
もきこえてしまいます。

> 資本主義の終わりの時代に、資本主義を徹底的に哲学しています。

『資本主義の謎』読みたくなってきました。

鈴木先生も、「庭を自分で刈るのと仕事としてやってもらうのとは
どう違うのか」というようなことを先日のタカの会でおっしゃって
いましたが、「資本主義の終わりの時代」というのは、まだ答えが
見つけられていないという意味でも、今一番のテーマではないかと
思います。

この関連になるでしょうか。『独立国家のつくりかた』(坂口恭平
、講談社現代新書)という本も興味深かったです。これまた疑問満
載ではありましたが。
             盛 利泰 2013/04/18
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From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU 
盛様、皆様、

しっかし、さすが盛さん、『桐島、、、』見ておられるのですね。

原作読んで見たいです。平成生まれの作家がそんなインパクトある小説を世に送
り出してくるとは、すごいですね。若者こそ、いつの時代でも可能性をもって
いる。そうそう、これも、『資本主義という謎』では議論されていました。

そうか、桐島はキリストか、ゴドーがゴッドと似てますからね。

資本主義の次の時代は、形而上学の時代にならないかな。

といっても、造物主がいるかいないかという議論をする形而上学ではなく、一人
一人の脳内に論理世界を構築するという意味の形而上学、論理学です。

脳内の論理の量子力学的なネットワークに、大きな感動を覚える。わずかなカロ
リーでも、幸せになれる。

そんな幸福を目指すのがよいような気がします。
得丸
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From: 

ネットワーク論理層における意識の現象としての信仰および資本主義

今年取り上げている本は、1月『内部被曝の脅威』、2月 南アフリ
カにおける現生人類の誕生(旅行報告)、3月『幻日』、4月『方丈記
』、5月『資本主義という謎』、6月『ナガサキ、消えたもう一つの
「原爆ドーム」』となっている。一見、バラバラなようにみえて、
これらの本の間に通底するひとつの問題、ヒトの意識のネットワー
ク論理層、あるいは形而上学の問題があると思うようになった。
きっかけは、『幻日』における信仰の問題であり、キリスト教のよ
うに頭の中で概念を操作することが、じつは非常に重要であること
への気づきである。

僕はこれまで形而上学というものは、「造物主がいる」、「マリア
は処女でイエスを生んだ」といったありもしないことを信じること
で、思考を誤らせるものだと考えていた。信仰も同様で、非現実的
なことがらを真に受けることで、人間は行動を誤ると考えていた。
たとえば、16世紀にキリスト教徒が南米でインディオを殺戮しまく
ったとき、「異教徒は人間ではないから、いくら殺してもよい」と
考えていて、キリスト教会もそれをある程度あるいは積極的に容認
していた。このような過ちを生むものが形而上学だと思っていた。
このところ考えているのは、我々人間は形而上学を必要とする生理
構造をもっているということ。つまり、人間の脳の中では、言葉が
力をもつ。言葉が喜びを生み出し、言葉が生きる力を与えてくれる。
それが可能なメカニズムがある。

こう考えるきっかけのひとつは、『幻日』の読書会のときにも紹介
したビルマの捕虜収容所で、昭和21年1月に詠まれた歌。

相共に百人一首を思い出しカルタを作る すべてかなひぬ (森田
丈夫『認識票』)

30万人が派遣され、20万人が戦死したビルマ戦線。そこで文字通り
九死に一生を得た兵士たちが、身体の自由はなくても、生命の危険
から免れて、頭のなかで自由にものを考える自由を回復して、誰が
思いついたか「正月だからカルタをしよう」、「いろはカルタもよ
いけれど、百人一首をやろうじゃないか」、「でも、ここにカルタ
はない。じゃあ、みんなで思い出してみよう」といって、おそらく
何日もかけて少しずつ記憶の底から百人の和歌を思い出したのだろ
う。
最後の百番目に思い出したのは、大伴家持の「かささぎの渡せる橋
におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける」であり、それを思い出し
たのは自分であったと森田丈夫さんは注書きしている。よほどうれ
しかったにちがいない。
おもしろいことに、このエピソードは、職場の若い同僚に話しても
理解してもらえる。共感してもらえるのだ。
かつて読書会でとりあげた石原吉郎は、戦後、シベリアの収容所で
何年か生活するが、収容所で俳句会や短歌会を続けた人たちは、厳
しい収容所で生き延びたということが報告されていた。ビルマの収
容所で百人一首を思い出した喜びと同種の喜びが、収容所で不条理
な労働生活を強いられた抑留者たちに、生きる力を与えたのだろう。

ビルマの収容所で百人一首を思い出したときに感じた喜びは、1グ
ラムの重さも、1カロリーの栄養もともなわない。
数学で難問が解けたときの快感に似ているだろうか。いや、テレビ
のクイズ番組が人気をえるのも、同種の快感によるのだろう。
外部から入ってくる刺激が、自分の記憶とピッタリと結合する感覚
。「ピッタシカンカン」、「スッキリ」という擬音が登場するが、
あの感覚である。
終戦直後のビルマの収容所で、命の安全と思考の自由だけは回復し
た日本の若者たちにとって、百人一首を全部思い出したことは、実
際に記憶をたぐりよせて思い出した者たちのみならず、収容所中の
話題となり、喜びとなったのではないだろうか。

1グラムの重さも、1カロリーの栄養もないことによって、どうして
喜びが生まれるのか。喜びは現実のものである。喜びにうちふるえ
て、体が宙に舞って飛び上がったような気分になった人もいたかも
しれない。お腹がペコペコであることをしばらく忘れた人もいたか
もしれない。
大事なことは、その喜びを、説明を受けた誰もが共感できることで
ある。これは現生人類という生き物に共通する脳内生理メカニズム
があるからだろう。

日本の隠れキリシタンは、仏教からキリスト教には容易に改宗した
のに、どうしてキリスト教から仏教には再改宗することを拒んだの
か。この点について、こないだの読書会で話題にしました。
仏教にはなくて、キリスト教にだけあるものが、あるからではない
でしょうか。それは脳内で言語をつかって概念体系を構築すること
、形而上学ではないかと思うのです。論理学といったほうがよいの
かもしれません。脳内の生理メカニズムにもとづいた論理操作の結
果として、生理的な一貫性をもつ概念体系・論理体系が生まれる。

コペルニクスやガリレオやメンデルがキリスト教と深い関係にあっ
たのも、修道院生活を続けつつ、自然の摂理を脳内の論理メカニズ
ムに写し取っていった結果として、聖書に書いてあることよりもよ
り正確な自然観を獲得したのが彼らだった。

形而上学とは、脳内に概念を生み出し、それをああでもない、こう
でもないと思考操作を続けることによって、だんだんと論理的整合
性のあるひとつの論理体系・概念体系へと高めていくための学問で
あると思うのです。
造物主はいるのかいないのか、という問いかけをするのではない。
不思議な自然現象を、ひとつひとつじっくりと観察して概念化して
脳内に取り込むと、脳内で他の自然現象を表わす概念装置と相互作
用して、あるとき「ひらめき」となって新たな法則や原理が発見さ
れる。そのようにして科学は発達した。

資本主義がキリスト教世界で発展したのも同様に、論理学的に説明
ができる。「資本」というのは、物理層現象をともなわない言葉で
す。「孫」というのは、関係性を表わす論理概念であると同時に、
誰かの孫という物理的存在がある。でも、「資本」には、目に見え
る存在がない。
おそらく「お金」、「株券」などが、「資本」が物理的存在になっ
たときの名称なのです。でもそれらを資本と呼ばないことによって
、資本の崇高さ、万能さは、いや増したにちがいない。
『資本主義という謎』が、後半になるにつれて段々と宗教論に近づ
いてくるのもこのためではないかと思います。

得丸公明 (思想道場 鷹揚の会)
(2013.4.19)
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北原亞以子著『父の戦地』(新潮文庫)
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様

 3月にミャンマーに出張するということがわかったとき、図書館でミャンマー
(ビルマ)関連の本を手当たり次第調べてみました。そのうち何冊かを 実際に
借りて、そのまた何冊かは読みました。

 北原亞以子さんは、3月12日にお亡くなりになった歴史小説家です。じつは僕
は彼女の小説は一冊も読んだことがなかったのですが、『父の戦地』 がミャン
マーで戦死したお父さんからの絵葉書を紹介しつつ、父への思いを綴ったエッ
セー(『波』に連載したもの)だというので、借りていました。 彼女の訃報を
見つけたときには、まだ本は読んでいませんでした。訃報をきっかけにして、拾
い読みし、帰国後に通読しました。

 このエッセー、15回連載だったのか、15章仕立てですが、一番書きたかったの
は最後の章でしょう。ここには「少々信じがたい話」が登場しま す。

 新潮新人賞を受賞してから20年間鳴かず飛ばずの状態にあったときに、「人違
いというハプニングから新人物往来社の大出俊幸さんに会い、大出さ んにすす
められて新撰組の土方歳三を主人公とする長篇を書くこととなった。」
 生まれてはじめての長篇に「四苦八苦していた或る夜、ふと目覚めると枕許に
人がいた。
 といっても、はっきり見えたわけではない。薄煙が人のかたちをしていたと
言ったほうが正確なのだが、私はなぜか起き上がって挨拶をした」
 その数日後、さらに数日後、同じ人が枕許にいた。

 枕許の人かげは、お父さんじゃなかったかと、北原さんは書いています。自分
が売れるようになったのは、「父の後押し」があったからだと。もしか した
ら、「人違いというハプニング」も、お父さんが仕組んだものだったのかもしれ
ません。


 第2回は、「いきなり妙なことをと思われるかもしれないが、私の最大の後悔
は、子供を生まなかったことである。」という言葉ではじまります。
 「友人達は、なぜあなたが結婚しなかったのかわからないと、いまだに首をひ
ねる。(略)17,8歳の頃の私は、高校を卒業したらすぐに結婚して 子供を
三、四人生むと、口癖のように言っていたらしい。」
「結婚したいと思った男性もいた。先方も好意をもってくれていた筈なのだが、
どこか私にいたらぬところがあったのだろう。」
「いい縁談がもちこまれた時は一流企業に勤めている美男に夢中で、縁談を断っ
たとたん美男にふられるというようなことを繰返しているうちに、婚期 を逸し
てしまっただけのことだ。」

 この部分、一回目に読んだときは、そうか、結婚に縁のない方だったの
か、、、と言葉どおりに受け取っていたのですが、もしかしたら、すべてお父
さんが結婚の邪魔をしたのではないでしょうか。このエッセーを読み終わって、
そんな気がしてきました。


 北原さんのお父さんは、東京の家具職人で長男だったのですが、昭和16年10月
に応召されて、ビルマで自動車の整備を担当します。

 どうして長男なのに応召されたのか。
「一枚の写真がある。父は在郷軍人会に入っていたといい、その集まりで撮った
写真」が残っている。「そこで、父はシャッターがきられる瞬間に、親 子丼ら
しきものを食べてみせるというパフォーマンスを見せているのである。」
 この写真のパフォーマンスで、軍部に目をつけられたのではないでしょうか。
北原さんはそこまでは書いておられないが、なんとなくそんな気がしま す。

 配属されたところが後方だから、わりあいと安全だったのでしょうが、終盤に
なって、昭和20年4月にイラワジ川を渡っていたときに乗っていた船 が攻撃され
て沈没して戦没されたそうです。でも死んでしまったお父さんは、北原さんを
ずっとずっと見守っていて、仕事のことや、結婚のことに、い ろいろと関与し
ていたのではなかったか。

 『父の戦地』は、「娘から父に宛てた恋文です」と壇ふみが帯に書いています
が、その言葉が実にリアルに感じられます。 本なんて、一度読んだだ けでは
ダメで、二度、三度と読まないと、著者の本当の気持ちは読み取れないのではな
いか。そんなことを思いました。

 北原亞以子さんは、きっと死後の世界で、お父さんに会えて、今はお二人とも
お幸せなのでしょう。お二人のご冥福をお祈りします。
得丸公明(思想道場 鷹揚の会)
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五味文彦著「鴨長明伝」(2013年、山川出版社)
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

鴨長明の「方丈記」、本日一度目の読みを終えました。
実はこれ、ある書店で立ち読みしました。

その書店に、五味文彦著「鴨長明伝」(山川出版、2013年)があり、こちらも
ちょっと覗きました。

買ってもいいかなと思いつつ、財布の軽さに、いったん思いとどまって、「発心
抄」と「無名抄」について調べてみようと思い立ちました。

http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/2138/

方丈記は、世の無常を論じ、世捨て人となって、枯れて生きることを論じた本だ
と漠然と理解していましたが、今日、通読して思ったのは、鴨長明は世 捨て人
的な生き方に否定的ではないか。

だから、方丈記を書いた後で、「発心抄」と「無名抄」を書いた。

そんな気がしてきました。

いかがでしょう。

つまり、動物的に生きているのがよいと思って方丈の庵に住んでみたけど、やは
り言語表現することが必要だと思いなおして、「発心抄」と「無名抄」 を書いた。

それが鴨長明ではないか。


つまり、地震や飢饉などの天災を目撃して、世捨て人を五年ほど経験した結論
は、人間は言語に賭けて生きるべき、というものだった。

そんなことを思いましたよ。

得丸公明(思想道場 鷹揚の会)


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