4605.『幻日(ゲンジツ)』という小説の重さと深さについて



ゲンジツという小説の重さと深さについて
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

多少体調が悪くても、小説を味わって読めるのなら、希望ですね。

この『幻日(ゲンジツ)』には、遠藤周作の『沈黙』に登場したフェレイラ神父
が登場します。(P240-241)
それも穴吊るしの拷問を受けた8人の神父と修道士のなかで、ただひとり棄教
し、生き延びる人間として。

このとき、残りの7人の聖職者は、拷問の穴から引きづりだされて、「お前たち
もフェレイラにつづけ」とそそのかされます。
そして、刑吏は、最高齢者であった中浦ジュリアンに対してとくに目をつけて、
意地悪なことばを吐きます。

「一体、爺さんはどこの国の人間だね。得体の知れない南蛮の神など信心して、
極楽に行きたくはないのかい」
刑吏のそんな悪たれに、老いた神父は、何かをラテン語で答えた。(略)
「私は、ローマを見てきた・・・・・ジュリアンだ、と」
有馬のセミナリヨから選抜された十代の少年たちが、勇躍、ローマへ旅立った日
から、51年の歳月が流れ去っていた。(P242)

私は、この言葉の重さ、深さについて考えてみたいですね。

つまり、中浦ジュリアンは、ローマのキリスト教は、厳しい拷問には耐えられな
いことは、50年前に自分の目で確かめていたというのではないでしょ うか。
俺の信仰は、そんな甘いものじゃない。もっと純粋だ、命なんか惜しくない。そ
ういう気概を述べたのではないでしょうかね。

遠藤周作は、『沈黙』の中で、フェレイラに、「この国は沼地だ」という言葉を
吐かせます。しかし、別の場所で、沼地とは汚い場所ではない、もっと 別の意
味がこめられているということを言っています。つまり、沼地とは、蓮の花が咲
く場ということでしょう。

『幻日』は、『沈黙』が伝えようとしたメッセージを、さらに純化して描いてい
るような気がします。
得丸
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天正の少年使節と東方三賢人
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
みなさま、

『幻日』と『沈黙』を読み比べると、沈黙はあくまでバテレンの立場で描かれて
いるのに、幻日は逆に日本人の側から描かれていることが感じられます。対照的
ですね。

4人の天正の少年使節について、若桑みどりの『クアトロ・ラガッツィ』が詳し
いというので、読み始めました。

なんと、中浦ジュリアンは、ローマに行ったのに、法王に会えなかったのだとい
うことです。
なぜなら東方からくるのは三人じゃなければならなかったからだというのです。

そのジュリアンだけが、殉教を遂げたというのは、歴史の皮肉でしょうかね。

得丸公明 (思想道場 鷹揚の会)
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Re: 天正の少年使節と東方三賢人
From: MINAMI
得丸さん

『幻日』は今週末にとりかかります。
『クアトロ・ラガッツイ』は発行されたときに、たしか新聞の書評欄で
褒めていたので読みました。いまは文庫本も出ていますね。
長いので根気が要ります。

「東方の3博士」に拠ったと思いますが、
一説には、中浦ジュリアン(副使)は高熱だった、とも言われています。
非公式ではありますが、後日、単独で法王に謁見できたようです。

あとの3人ですが、
・伊東マンショ(正使):1613年のバテレン追放令が出る前に病死
・千々石ミゲル(正使):1601年にイエズス会を退会、棄教
 (その後、反キリスト教徒となり、藩主の大村氏も棄教させる)
・原マルチノ(副使):バテレン追放令でマカオへ出国、そこで病没
しています。

伊東、中浦、原は、1608年に司祭になっています。
中浦ジュリアンも、原マルチノのように海外へ出るという方法も
あったでのでしょうが、地下活動を続け、捕縛され、処刑されました。
単独で法王に謁見したことが、信仰を強くさせたのでしょうか。

個人的には、棄教した千々石ミゲルに興味があります。
南
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Re: 天正の少年使節と東方三賢人
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU 
南さん、

そうですか。若桑みどりの『クアトロ・ラガッツァ』は読んでおられますか。
さすがですね。僕は気がつかなかった。最近書評欄もあまり目を通さなかったし。

まだ上巻の150ページしか読んでいませんが、バテレンの評価と日本人の評価
が正反対のことが多いのは、なんでしょうかね。

どちらかが間違っているというよりは、価値観が違ってるからかもしれないと思
いました。


>個人的には、棄教した千々石ミゲルに興味があります。
千々岩ミゲルは、『幻日』において、4人のなかでもっともスポットライトがあ
たります。
どうぞお楽しみに

得丸
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言葉の即興:意味を記憶から解放する、山本陽子の詩の試み
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
みなさま

 山本陽子(1942-1983)の詩が難解であるのは、それが人類の言語活動の最前衛
に位置するからだ。前衛を理解するためには、我々も前衛に立つ必 要がある。
私は、アラカワの意味のメカニズムの解読を続けてきて、最近ようやく山本陽子
の詩が狙いとするものがみえてきたように思う。

 1970年に発表された代表作「遥るかする、するするながらIII」を丁寧に読む
と、そこで使われているのは、日本語の音韻体系に属して、よく聞きなれている
ようでいて、実は辞書には 存在していない言葉である。接続詞、代名詞、数
詞、疑問詞などの文法もない。

 言葉の意味とは、個人が体験と思考の結果に獲得する記憶である。その 最大
の問題は、人によってもっている記憶が違うところにある。記憶に依存するかぎ
り、言葉の意味を共有できる保証はない。意味の限界を乗 り越えるため、詩人
は、記憶と結びつくことで意味を生む言葉を排除して、誰も記憶に持たない言葉
を選りすぐったのではないか。

 だが、記憶にない言葉は、耳に入ってこない。言語反射のフィルターが 受け
いれるように、耳になじみのある音韻構造にしたのだろう。

 詩において、魅力的な音韻の響きをもつ言葉が、何かを指し示すために では
なく使われている。脳は、詩の言葉を受けいれるが、その言葉の記憶もその言葉
と結びつく五官の記憶も存在しない。

 こうして今この瞬間を讃えるために、記憶に依存しない言葉そのものの もつ
力を示すために、ジャズの即興が始まるのだ。

得丸

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