4524.論理とは、新たな思考経路・信号伝達回路



結局デジタルとは、微小物理学による複雑情報の自動処理と、その過程でおきる
進化なのではないかと
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、おはようございます

音節の重複順列による造語能力から、言語はデジタルではないかと思ったのが4
年前でした。それからデジタルとは何か、あれやこれや、ああかなこう かなと
考えつづけてきましたが、究極のところ、デジタルとは、微小な物理力(言語の
場合は母音のもつ周波数の高低、振幅の強弱というアクセントの 力)によっ
て、複雑な情報すべてが自動処理され、時として進化するという深遠なるメカニ
ズムであることがわかってきました。(詳しくはポスター を)

このメカニズムのもとになっているのが、鈴木孝夫先生がご研究なされた「鳥類
の音声活動」のなかにあるティンバーゲンの記号についての研究です。 記号と
は、脊髄反射をひき起こす視聴覚刺激である。こんな大切なことが、一般の記号
論の論文や本にはまったく触れられていない。鈴木先生のおかげ で、これに気
づいたことが、デジタル言語学にとっては、最大のカギでした。

それと、千葉勉さんが1935年に富山房から出されたアクセントの研究。これも非
常に参考になりました。(このあたりもポスターを)


佐藤優が、『人間の叡智』のなかで、実念論と唯名論を紹介していますが、私は
どちらの考えも取らないほうがよいと思います。そうではなく、唯物論 こそが
言語の本来あるべき姿なのではないでしょうか。

もし、名前がそこにあるなら、きっと何か深遠なものがあるはずだ。そう考え
て、コペルニクスも、メンデルも、研究を進めて、それぞれ生きている間 には
成果を人に問うことができませんでした。自然科学は、西洋キリスト教の神の実
体を明らかにしようとする試みであり、その結果、神以外のものの 姿を明らか
にしてしまったという、怪我の功名、ひょうたんから駒みたいな話です。

そして、フォン・ノイマンやイエルネという神を信じない、コスモポリタンな科
学者たちも、同じものを求めていました。それは、ひとことでいうと、 「何故
生命は進化するのか」ということです。

答えは、デジタルというメカニズムにあるのでは。

ひとつひとつのアミノ酸が生命である。

アミノ酸が組織化して、タンパク質になり、細胞になり、器官になり、生命体に
なって、我々は生きている。

生命のデジタル現象は、電子的なものももちろんありますが、むしろアミノ酸の
物理法則で説明ができるのでは。


我々の意識も、つまり記憶も欲望も、結局のところ、アミノ酸の作用にすぎない
といえるでしょう。

それが深遠な科学的真理の探究に向かうためには、ひとつひとつの細胞とそれを
構成するアミノ酸が、自然の法則に即した状態にあることが大事なのだ と思い
ます。たとえば仏教の八正道の教えは、そういうことでしょう。

ヒトとヒト以外の動物の身体的な違いは、母音を発声できるかできないかだけだ
といって過言ではありません。

この母音のもつエネルギーが、ヒトを人間に変える量子力学を生みだす力の源泉。

我々はひたすら正しく学び、正しく考え、何度も何度も考えて、真理を求めるた
めに生まれてきたのです。

これまでの人類は、自分たちがどのような動物であるのかを知らずに、無明の中
をいきてきました。

言語のデジタル性が明らかになれば、人間本来の生き方、本当の人間として生き
る道筋もまた、明らかになると思うのです。

ポスターの説明は、15時〜17時30分まで行います。参加自由です。

http://www.ieice.org/ken/program/index.php?tgs_regid=8086257276d1a7970b3b0f60fb41f3806e8d05feddf8cae123b44546219becd9&tgid=IEICE-IBISML&lang=

http://www.ieice.org/ken/paper/20121108p0Wr/

得丸公明(思想道場 鷹揚の会)
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論理とは、新たな思考経路・信号伝達回路を、学習して身につけるものではないか
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU
皆様、

日本には日本論理学会というものがありません。

だから、論理について議論する場って、あまりありません。

「論理」とは何か。

論理とは、思考回路のことではないでしょうか。

ヒトの言語活動において、それは生得的なものではなく、後天的に学習するもの
です。


*** 論理は学習して身につけるものだといってよいのではないか。***

自分にとって論理的であるとは、すでにその論理を自分が獲得しているというこ
とではないだろうか。自分が獲得していない論理を、非論理的という。

たとえば、1+1=2が論理的だといえるのは、10進法と自然数の論理を獲得
しているから、それが論理的だと思うのだ。

もし、1+1=10という数式を見たら、二進法を知らない人は、それが間違い
である(非論理的である)と思うだろう。しかし、二進法を知っている 人な
ら、これは正しい(論理的である)と思う。

もし、自然数の考え方ではなく、同一性か異質性かで判断する場合、1+1=1
ということもいえる。(大根と大根とでは大根しかない。)この考え方 (論
理)を身につけている人は、1+1=1という式を見ても驚かない。だけど、十
進法と自然数しか知らない人にとって、1+1=1は受け入れられ ない。


論理とは、したがって、ある思考法のことをいう。そしてそれは学習によって身
につけるものだ。

パブロフのイヌの実験は、イヌが論理回路を構築する実験であったといえる。

たとえばメトロノームの「100回/分」で「餌が出る」環境に置かれると、「100
回/分」を聞けば涎が出る。
そのような論理を獲得したイヌに、「96回/分」で「餌が出ない」環境を用意す
ると、はじめは多少涎が出るのだが、しばらくして「96回/分」で は餌を出さな
いのに、涎が「100回/分」と同じだけ出るようになる。それからまたしばらくす
ると、「96回/分」では涎がゼロとなって安定す る。このとき、イヌは「96回/
分」は「餌が出ない」記号であるという論理を獲得したといえる。

だからイヌにとって一番辛かった実験は、負の相互誘導実験だった。これは
「100回/分」⇒「餌」⇒「96回/分」⇒「餌」というサイクルを繰り かえす実験
だった。この実験こそ、イヌは「なんと非論理的なことをやるものだ」と頭を悩
ませたに違いない。実際、気が狂うイヌもいたという。


論理とは学習するものである。学習しないことには、新たな論理を獲得すること
はできない。

学習しないかぎり、自分の知らないことはすべて非論理的に思える。

自分の知らない世界を広げようとしない大人、新しいことを勉強しない大人は、
時代に取り残されてしまう。人類社会において多くの過ちは、大人たち が学習
する努力をおこたって、自分の知らないものを非論理的として排除・弾圧してき
たからではないだろうか。


論理学とは、したがって、学習の結果、新たな信号伝達経路を脳内での構築する
技法を論じなければならない。


得丸公明(思想道場 鷹揚の会)






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