4507.「サモアに思う」



「サモアに思う」      小川眞一

1.サモアの地誌と人々
南太平洋の島国についてわれわれはどんなイメージを描くであろうか?
「人類最後の南海の楽園」:原始人に近い姿の人たち
「ゴーギャンの描く楽園」:人はどこからきたのか?どこへいくのか?
「第2次世界大戦の海戦地」:ブーゲンビリアとラバウル

南太平洋の地は白砂の浜が、エメラルドグリーンのラグーンと空を
突き刺すように伸びる椰子の木々の間に弧を描いて横たわっている
島嶼国である。

サモア独立国は、ニュージランドの北2,300km、ハワイの南3,700km
の南太平洋上に位置する広さ2,935km2(鳥取県より少し小さい)の大小
9つの島で構成された火山性島嶼国である。赤道の南1,200km、南太
平洋の中心に位置するサモア諸島は、日付変更線のすぐ近く西経171
度線の両側にあり、その西側のサモア独立国(以下サモア)と東側
のアメリカ合衆国領サモア(以下米領サモア)に分かれている。1962
年の独立時には西サモア独立国と呼ばれていたが、1997年に現在の
国名に変更された。東側は米領サモアを挟んでクック諸島、南側は
トンガ王国、そして北側はニュージランド領のトケラウ諸島が連な
る。サモアでは、サバイイ島(面積1,700km2)とウポル島(1,115km2)
の2つの大きな島が国土の96%を占めている。大きな2島は18kmのア
ポリマ海峡を挟んでいるが、その間には2つの小島(マノノ島とアポ
リマ島)がある。サバイイ島とウポル島はともに火山島であり、共に
1000m級の山を擁した急峻な地形を有し、内部は未開の熱帯雨林で覆
われている。サバイイ島には、サモアの最高峰標高1,858mのシリシ
リ山(Mt. Silisili)があり、東西に火山が連なっている。

気候は、熱帯雨林気候区に属し一年を通じて高温多湿である。1日の
気温の変化は24?30℃で5月から10月までが乾季、11月から4月が雨季
になる。最も雨が多いのは12月から2月である。 1月の雨量は平均で
500mm弱にもなり、そのほとんどは夜に降る。1年を通して湿度(平
均80%)が高いが4月から10月は南東の貿易風によってかなり和らげ
られる。
人口は、約18万人でありその9割をポリネシア系サモア人が占めウポ
ル島に7割、サバイイ島に2割が居住している。

サモアは、素朴で伝統的なポリネシアの慣習を守って生活している
国である。外国で働くサモア人からの海外送金と観光収入もあるが
、自給自足経済への依存度が強く本来の伝統を色濃く残している国
である。農業従事者が3分の2をしめ、ココナッツ、コプラなどの農
産物で生計を立てている。一方、分かれた東側の米領サモアは、ア
メリカ海軍基地として統治され、更にアメリカ資本による漁業開発
が行われ、完全な貨幣経済社会になった。労働人口の3分の1が米国
政府の関連施設で働いている。米領サモアは食生活も輸入された缶
詰や冷凍食品が伝統的な食事のスタイルを変化させていわゆるコカ
コーラとマクドナルドのアメリカナイズした国でサモア独立国(旧
西サモア)とは大幅に違った国となっている。

サモアは2011年12月29日に日付変更線の西側に移行した。世界で最
も遅く太陽が沈む国から世界で一番早く朝を迎える国になった。日
本より4時間早い。一方東経171度を境に日付変更線をはさんで分か
れた米領サモアは東側に属すため最も遅い時差である。僅か150
キロしか離れていない両国であるが24時間の時差をもつことになっ
た。

サモアの人口は約18万人の島国である。20万人の行政単位は日本
では、町村単位、都市部では区の行政単位である(鳥取市、調布市
など)。このサモアでは、国家であり、憲法があり、国会、内閣、
裁判所がある。国連の一票を投じる権利を有している。政党もあり
総理大臣、外務、財務、運輸などの行政毎の大臣がいる。5ヵ年国家
開発戦略が策定されていて「Improved Quality of Life for All」
(みんなの生活改善) が最大目標となっている。各分野毎の戦略目
標に従って国家経済が近代的手法で運営されているが、“for ALL”
というところに相互扶助の精神があらわされている。

この国には別の民族的な面がある。伝統的権威のあるマタイという
首長(チーフ)がおり大土地所有者であり、大家族に関する社会政
治経済問題を指揮している。古来より首長を中心とした相互扶助の
精神があって暮らしはおっとりとしている。現在はキリスト教が普
及している(メソジソスト派、プレスビテリアンなど)が、現地の
土俗宗教とうまく混交しているようだ。キリスト教が布教される以
前のポリネシアでは、マナという超自然的な力に対する信仰があっ
た。その神話の中で神から直系のラインで降りてきたとされている
人物を祖先とする家系が、もっともマナの強い家系であると考えら
れてきた。直系とは、長男、長男という形でラインを降りてくるも
のである。首長には神に最も近い家計の長男に生まれた者が就く。

世襲によって後継者が選ばれ首長は社会の頂点に君臨している。こ
の点日本の天皇と良く似ている。女系天皇問題でゆれているが天皇
制の原点のようでもある。マナの力は接触することで伝染すると考
えられていた。首長が触れることで強いマナが物や人に帯びると考
えられていた。弱いマナの平民が強いマナに触れると死んでしまう
と畏れられた。首長が触れたものは、平民が触れることの出来ない
ものとなり、タブーとなった。超自然的な制裁が降ると信じられて
いた。日本の“たたり”と似たものだろうか。人間の力よりも自然
を重んじる人たちである。

町を歩くとこの国の人たちは大人も子どもスレ違う外国人に対して
にこやかに挨拶してくれる。人当たりの良い人が多いようだ。親日
的でもある。政府高官も我々のような開発コンサルタントの表敬訪
問に対しても快く受け入れてくれた。政府の高官もアロハシャツと
長い半ズボンである。レイを首につけた副首相と財務大臣まで面談
してくれた。来週IMF総会に参加するため日本に出かけるとにこ
やかに語る姿が印象的だった。

2.アピアの町
海運公社との仕事を終えてホテルまでの帰り道は、海岸に沿って歩
きアピアの町を散策した。首都アピアの人口は4万人で、人口18
万人のサモア唯一の都会である。コロニアル風の町並みが海沿いに
続き、カラフルに塗装されたトラックやバスが町を駆け抜ける。街
の中心に時計台があってロータリーとなっており目印となって分か
りやすい。この時計台はドイツ植民地時代に建てられたものでヨー
ロッパ風である。ストリート横には魚市場がありスーパーマーケッ
トやショッピング店が並んでいる。ところどころに近代的な20階
建てのオフィスビルが建てられている。政府庁舎として使われてい
る立派なビルがいくつかあるがいずれも外国からの援助で贈与され
たり、低金利の借款で建てられたりしたビルである。

近代的なビルの隣にローカルな白ペンキを塗りの木造のバスターミ
ナルがある。地方を往来する現地の人たちが待ち合いしている。周
りは、市場になっていて洋服や飲料などを売っている。店では真っ
白な子供服が吊るされて清潔感を感じさせる。珊瑚礁のある島国で
あるが雨の多い国で山から水が豊富に湧き出ている。雨は夜中寝て
いる時に降ることが多い。水が良いためローカルビールがある。製
造され、ドイツ時代に造られたブリュアリーで製造されVAILIMAとい
うローカルブランドがあり近隣の島嶼国に輸出までしている。美味
い良質のラーガービールで、アルコール分は4.5%と日本のビー
ルよりやや低くて飲み易い。

夕方、ホテルから海沿いの道を街と反対方向に散策するとガーデン
レストランが浜辺の道際にあって、談笑しながら食事をしている。
南の島の夕食は、海を見ながらである。伝統的なサモア料理はタロ
イモやバナナ皮で魚や肉を蒸し焼きしたウム料理があるようだが、
口にする時間がなかった。海沿いにあるリゾート・レストランは西
欧人の観光客が多い。ニュージランド、オーストラリア、アメリカ
からの長期滞在型の客のようだ。レストラン横で子供が月明かりの
夜の海を泳いでいる。星が多く見える。ヤシの木のあいだから見え
る南十字星が大きい。

マグロの刺身があると聞いてメニューをみてOKAという名前の前菜を
試してみた。赤身のマグロのブツ切りがココナッツミルクに浸され
、刻んだトマト、たまねぎ、パセリなどがかけられグラスに入って
出てきた。ココナッツミルクの甘味がマグロと良く合って旨い。日
本では口に出来ないマグロ料理である。私たちが日常的に食べてい
るマグロやカツオなどの赤身の魚の多くは南太平洋の島々から来て
いる。食した魚はビンナガマグロだったようだ。別の夜に食したも
う一つのマグロの前菜はPOKEと名づけられたものであった。こちら
の方は、マグロのブツ切りを醤油とトンガラシ、ゴマ、刻みねぎで
まぶしたものである。脇にココナッツの果肉の薄切りが数枚ついて
いる。ビールと良く合う極上の肴であった。街灯は少なく星と海に
照らす月を見ながらホテルに戻った。

3.ポリネシアのこと
サモアに人間が住み始めたのは、約2500年前とされている。ポリネ
シア人の起源は、モンゴロイドであるという。フィリピン、インド
ネシアなど島嶼東南アジアを経由してサモアに住みつき、ここを中
心にポリネシア各地へ散っていったといわれている。日本人の祖先
は南からの人種と北からの人種との混血であった説があるが、黒潮
にのってきた椰子の実とは反対向きの人の流れもあったようだ。海
に囲まれた海洋国の日本人には先祖のDNAがどこかでつながって
いるような気がする。

オセアニアの海洋の島は大きくは3つの地域に区分される。赤道より
も北のミクロネシア(パラオ、ナウル、マーシャル、キリバス、グ
アム、マリアナ諸島など)、赤道より南の地は日付変更線より西側
のメラネシア(パプアニューギニア、ソロモン、フィジー、バヌア
ツ、ニューカレドニアなど)と東側のポリネシア(サモア、トンガ
、ツバル、タヒチ、ハワイ、クック諸島など)に分けられる。南太
平洋はメラネシアとポリネシアであるが、対照的な違いがある。メ
ラネシアの「メラ」は「黒い」意味がある。メラネシア人は漆黒の
肌である。中肉中背で髪は縮れたり巻いたりしている。各地で身体
の差があり多様性が大きい。オーストラリア先住民と共通する人種
のオーストラロイド系で約3-5万年前に祖先が住み始めたといわれる。
言語もマルチリンガルであり部族間でバラバラである。

ポリネシアとは「多くの島々」を意味する。ポリネシア人の肌は褐
色であり、髪はまっすぐかやや波状、身長が高く体重も大きい人が
多い。65%以上がBMI30以上の肥満である。(日本や中国で
は3%程度)男も女も相撲取りのように体つきの大きな人が多い。
ハワイ出身といわれていた高見山、武蔵丸、小錦、南海竜などの力
士は親たちがサモアからハワイに移民していたようだ。元はサモア
出身のポリネシア人である。ポリネシア人の体が大きい理由に関し
ては、倹約遺伝子仮説がある。アジア大陸からポリネシアへと、小
さな島の間を航海して移住していった集団は、船の中で限られた食
糧に耐えねばならない時間が長かった。食べられる時に余剰な食糧
をエネルギーとして体内に貯蔵できる体質の者だけが生き残ること
ができ、そうでない者たちは淘汰された。この体質のため食糧が安
定的に得られる今日では、肥満になってしまうという説である。

ポリネシア人はモンゴロイド系であり、日本人を含むアジア人と同
じ分類の人種であるとされている。モンゴロイド系(東アジア人と
同じ分類の人種)である。約1,000〜3,000年前に東アジアから派生
した集団が南太平洋に移住したといわれ、東アジアで培った農耕技
術、遠距離航海技術をもって移動し島嶼環境に適応したといわれて
いる。ポリネシアは基本的に1国においてひとつの「南太平洋の言語」
とひとつの「他地域の言語」(英語あるいはフランス語)が使用さ
れている。メラネシアのパプアニューギニアでは約800の言語が
存在する。ポリネシアのサモアではサモア語のみが日常的に話され
ている。ポリネシアには約20のオーストロネイア語があるが、均
質性の高い言語でモノリンガルである。サモア語、ツバル語、タヒ
チ語、ハワイ語、マオリ語など海をはさんで広範囲に離れていても
お互いの親縁性が強く類似している。サモア語はどこか日本語と近
い。ある朝、ホテルの掃除のメイドたちの話声で目が覚めたが、日
本の女性が宿泊していて話しているのかと錯覚した。意味は分から
ないが日本語の口調と良く似ている。サモア語の母音はAEIOUの5つ
であるという。話語が似ていると感じるのはこのためかもしれない。
海に囲まれた海洋国の日本人は祖先のDNAがこの国の人たちとどこか
でつながっているような気がする。

4.	貧国における豊かさ
この国は幸せ度が高い国である。豊富なヤシの実とタロイモ、海か
らの魚貝と山からの清水がある。火山灰土壌で作物も育てやすい。
日光は豊富で特に手を加えなくても育つ穀物である。楽天的で大人
も子供もいつも笑顔がある。ココヤシとタロイモと魚がどこでも手
に入るので飢え死にすることはない。首長を中心とした相互扶助の
精神があるので孤独死などはない。南太平洋の人々の生活のリズム
は実にのんびりしている。お日様と共に起きて、おなかがすいたら
食事をし、暑かったら日陰で休む。一生懸命あくせく働くよりも、
楽しく愉快に暮らす。ココヤシの木の下でくつろぐサモアの人々の
姿である。

長屋で寝転んでばかりいる若者に長老が言う落語がある。
“「いい若いもんが。寝てばかりいないで、働け。」「働いてどう
なる?」「金が貯まる。」  「貯まったらどうなる?」「寝て暮
らせる。」「もう、寝て暮らしてるわね。」“
この国では、既にそれが実行されているのである。この南の島国は
あくせく努力しなくても食べてゆける楽園なのだ。さらにもう一つ
似た話“西欧の金持ちが2―3週間の大型レジャーとして客船クル
ーズでこの国に観光で遊びにくる。この島国の人たちは、ニコニコ
幸せそうな顔をして2週間どころか毎日のように海で泳いだり、昼
寝したり、酒を飲んで歌い踊って、大型のレジャーの生活をしてい
る。幸せ度は同じではないか。” (タカの会で鈴木孝夫先生から聞
いた話)レジャーとはLazyになること。時間を不精に贅沢に使うこ
とである。

ブータン国王の訪日時、国民総幸福量(Gross National Happiness
, GNH)という指標が日本でも話題になった。国内総生産(GDP)が個
人消費や設備投資から成り立つように、GNHは 1.心理的幸福、2.健
康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、
8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素からできる指数
である。ブータン国立研究所所長のカルマ・ウラ氏の言葉であるが
、「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の
人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはな
ぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れる
のか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が
安心して暮らす中で欠かせない要素である。金融危機の中、関心が
一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。
GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」

南の島の人たちの生き方をみて今の日本人には「下山の思想」や
「人にはどれだけの物が必要か―ミニマム生活のすすめ」が求めら
れているのだと実感した。サモアには首長がサモアの伝統的な生き
方と西洋の生き方を比べて、西洋の生き方を批判して“我々は伝統
的な生活を守っていこう”と語った「パパラギ」という本がある。
(立風書房から出版)ゆっくり読んでみたい。この国の国家開発戦
略(Samoa Development Strategy 2012-2016)には“Improved Life 
of Life for All” とはっきり書かれている。

5.マオリ族のHAKA
サモア人の祖先はマオリ族である。HAKAとはラグビーニュージーラ
ンド代表(オールブラックス)が国際試合前に舞う民族舞踏として
披露されるWar Cry(闘いの叫び)である。ニュージーランドマオリ
(ネイティブ・ニュージーランド人によるラグビーの代表チーム)
が行ったことが起源である。本来はマオリ族の戦士が戦いの前に、
手を叩いて足を踏み鳴らしながら自らの力を誇示し、相手を威嚇す
る踊りである。サモアやトンガの原住民マオリ族たちも行うWar Cry
である。ニュージランドではハカと呼んで有名になっているが、サ
モアのものはシヴァタウ、トンガのものはシピタウと呼ばれる。

マオリの伝説によると太陽神タマ=ヌイ=ト=ラには2人の妻、夏の女神
のヒネ=ラウマティと冬の女神のヒネ=タクルアがいた。ヒネ=ラウマ
ティの産んだ息子、タネ=ロレが踊りを作り出したとされている。
ハカはマオリの人々の伝統的な踊りで、戦場で敵と対面するときや
和平を結ぶ際に、一族のプライドをかけて披露する慣わしがあった。
気迫に満ちたハカは部族の強さと結束力を表す手段だった。勇まし
く足を踏みならし、体を叩いたり舌を突き出したりして、リズムに
合わせて踊る。同時に大声でたたみかける歌詞は、先祖の系統や部
族の歴史を詩にしたものが多い。気力を充実させるには本当に良い
準備運動だと思う。レスラー浜口(父)のエール“気合だ、気合だ
、気合だ”と似ている。ファイヤーダンスに使う黒い木製の刀の飾
り絵が素晴らしく購入した。
歌詞:
リード
カ マテ! カ マテ!
コーラス 
カ オラ、カ オラ!
リード
カ マテ! カ マテ!
コーラス 
カ オラ、カ オラ!
テネイ テ タナタ プッフル=フル ナア ネ イ ティキ
マイ ファカ=フィティ テ ラ!
ア ウパネ! ア フパネ!
ア ウパネ! カ=ウパネ!
フィティ テ ラ!
ヒ!
訳文:
私は死ぬ! 私は死ぬ!
私は生きる! 私は生きる!
(以上を2回繰り返し) 
見よ、この勇気ある者を。
ここにいる毛深い男が再び太陽を輝かせる!
一歩はしごを上へ! さらに一歩上へ!
一歩はしごを上へ! そして最後の一歩!
そして外へ一歩!
太陽の光の中へ!

6.楽園
最終日に海運公社の担当者が車でアピアから数時間ドライブし、東
側のリゾート地であるフェレタ地区に案内してくれた。多忙な日程
で半ば諦めていたがやっとサンゴ礁の浜辺を観光することができた。
日本を出発してからオークランド乗換便でアピアに到着するまで約
35時間かかっている。遠い国である。白砂の浜が、エメラルドグリ
ーンのラグーンと空を突き刺すように伸びるココヤシの木々の間に
弧を描いて横たわり、不規則に流れ込んだ溶岩が造りだす岩場が波
間に見え隠れする楽園があった。

ファレが並ぶ美しいラロマヌ・ビーチを訪れた。ファレとは、壁が
無く柱と屋根でできている、サモアの伝統的な家である。風通しが
とても良い。オーストラリアやニュージランドからの家族連れの観
光客が数組水浴びしていた。サンゴ礁の白砂とブルーラグーンの対
比が美しい。サモアは火山島でもあって溶岩が流れ出して島を形成
している。サンゴ礁だけからなる島と違って雨も多く山の緑が濃く
滝や急流もあって水が豊富である。

サンゴ礁の浜辺のみならず浜辺近くに溶岩壁画造り出す天然のプー
ルができている。ビウラ洞窟ではタイドプール(Swimming Hole)と
いう巨大な穴が地面に開いている。下をのぞくと鮮やかなエメラル
ド色をした海水が溜まっていてさまざまな熱帯魚が泳ぎまわってい
る。こどもが飛び込みをしたり天然岩のウオータシュートを滑った
りしている。売店もなければビーチパラソルもデッキチェアーもな
い。目に入るのはすべて自然の世界である。ゲーリー・クーパー主
演の「Return to Paradise(楽園に帰る)」(1952)のロケ地だった
レファガ村ビーチと同じ楽園である。

「サモア島の歌」(小林幹治作詞・ポリネシア民謡)が南の国のイ
メージを掻き立ててくれるので紹介したい。ゆっくりしたメロディ
ーで口ずさむと良く合う。

青い青い空だよ 雲のない空だよ
サモアの島 常夏(とこなつ)だよ
高い高いやしの木 大きな大きなやしの実
サモアの島 楽しい島よ
青い青い海だよ 海また海だよ
サモアの島 常夏だよ
白い白いきれいな 浜辺の広場だ
サモアの島 たのしい島よ
風は吹く 静かな海
鳥がとぶとぶ 波間をゆく
ララ 船出を祝い 無事を祈る
みんなの声が 追いかける

7.	南の島の野生
ゴーギャンはタヒチで「我々は、どこからきたのか、我々は何者か
、我々は何処へ行くのか」をタヒチで描いている。出発前エコー・
ド・パリ紙に「私は静かに生活をするため、そして文明の影響から
逃れるために出発するのです。私はシンプルな芸術だけをつくりた
いのです。そのために私は手つかずの自然の中で自分を鍛えなおし
、野蛮人たちだけを見つめ、彼らと同じ生活をする必要があるので
す。」と答えてタヒチに向かっている。また、「月と6ペンス」(サ
マーセット・モーム)では主人公ストリックランドは、ロンドンに
住む妻子ある不自由ない株屋(今のファントマネージャーか)だっ
たが、突如パリに家出して画業に専念し家族を破滅させ南の島に渡
って死ぬ。南太平洋の島は先進国の人を惹きつける最後の楽園であ
る。現代社会の歪みに疲れたひとの心を癒してくれる。無秩序的に
氾濫する愚かしい情報の数々、時間に追われストレスをためるばか
りの日々、金に目がくらむ者たちの商法と経済至上主義、便利と快
適を追求してゴミを出し続ける消費社会から脱出したい気持ちが楽
園への逃避につながる。ゴーギャンは「野蛮人」にあこがれていた。

人間に普遍的に住む原初的な思惟、野性を追及していた。ゴーギャ
ンの中に潜む性(エロス)と死(タナトス)というテーマを追求し
彼の野生でもあった。南の島は人間の原点に帰りたい本能を呼び起
こしてくれる。アピア市内にはダンスクラブがいくつかある。酒に
酔ってレイの香しい花の匂いをかぎながら、大きな女たちと一緒に
なって体を動かしているとマオリの野生に溶け込みたい気持ちにな
った。

8.	サモアの分断
再び歴史の話に戻る。
サモアは、軍隊をもたない国である。他国から攻められた有事の際
はニュジーランド軍隊が応戦してくれる協定をむすんでいる。米領
サモアの方はアメリカ合衆国軍隊が助けてくれることになっている。
サモアは、1962年に独立し西サモアと米領サモアに分かれた。西サ
モアは、1962年に名称をサモアと変えた。サモアの分断は19世紀
後半の西欧列強の南太平洋進出の勢力争いに始まる。ドイツ、イギ
リス、アメリカの3カ国が、有力首長同士の争いに加担して、影響
力の拡大を図った。1899年に植民地開発を目的としてドイツが土地
や人口が豊かなウボル島(現在サモアの首都アピアがある島)とサ
ヴァイイ島を含むサモア諸島の西部を獲得し、軍事拠点を求めてい
たアメリカは天然の良港であるパゴパゴ湾を有するツツイラ島とそ
の東のマヌア諸島などの東部を領有することとなった。サモアの分
割から手を引いたイギリスはその隣のトンガを保護領とし、ニウエ
島やソロモン諸島の大半を領有することを認めさせた。分割後西サ
モアでは、ドイツ人の総督によって、統治がはじめられ、ココヤシ
・プランテーションでのコプラ生産を中心とした植民地開発が進め
られた。その間もサモアの人々が親族集団単位で所有した土地は保
護され、自給自足経済が維持された。1914年に第1次世界大戦がは
じまると、ドイツ統治下にあった西サモアはニュージランドによっ
て軍事占領され、戦後も国際連盟の委任統治領として統治が継続さ
れた。その後、統治の不手際とサモア人実力者との意見の相違から
、マウ(異議申し立て)運動という抵抗運動があり、独立運動につ
ながった。第2次世界大戦を経て1962年に西サモアとして独立を果
たした。

一方、アメリカの統治を受けることとなった東サモアでは、1900年
にアメリカ海軍による軍政が敷かれ、1911年米領サモアとなった。
もともと平地がすくなく自給自足する土地にかぎりのあった米領サ
モアでは、海軍基地での雇用が、現地の人々にとって貴重な現金収
入の機会となっていった。第2次大戦後の1951年に海軍基地がハワ
イの真珠湾に移転統合されると、それに付き添ってサモア人の兵士
や軍属、家族の多くがハワイに移住した。それによる労働者不足を
埋める形で西サモアから出稼ぎ労働者が入り込む構図が見られる。
米領サモアはアメリカ合衆国制度的枠組みの中で市民としての権利
獲得を目指している。半世紀以上にわたる分断の結果、ニュージラ
ンド統治下にあった西サモアはラグビーやクリケットとそのユニフ
ォームが人気である。米領サモアは、アメリカンフットボールにジ
ャージという大衆文化や嗜好に大きな違いを見せている。車の走行
も右側と左側と異なっている。

9.	中国の海外進出
尖閣列島問題の渦中、海洋資源を狙って南太平洋の国々に援助の攻
勢をかけている中国の海外進出について書きたい。サモアの場合地
理的な近さもあって元来ニュージランドやオーストラリアからの経
済援助が多い国である。日本は遠洋漁業資源の確保のため援助は70
年代から続けられていた。2000年以降の中国の南太平洋島嶼国への
進出は目覚ましい。中国は日本から円借款の援助をもらいながらア
フリカの小国などに援助をして外交力を拡大していたが、太平洋の
島嶼国に対しても同様である。中国の援助は派手でわかりやすい。

 20階建ての政府庁舎ビル、病院、スポーツセンター施設など目立
つものが多い。昔から世界中に華僑がどこにもいる海外在住の中国
人であったが、最近は政府関係者やビジネスマンが進出している。
ビルの建設は中国の建設企業が施工している。海運関係でもニュー
ジランドやオーストラリアの船社からアジアシフトして中国の船社
グループが活躍している。中国はいまや日本を抜く経済大国となっ
たが、ごく最近まで日本政府は中国に毎年数千億円という円借款の
経済援助を与え続けていた。円借款は、郵便貯金や厚生年金基金な
どからの借り入れからなる財政投融資資金により開発途上国へ低金
利・長期の貸付を行うものである。日本のODAは要請主義である。

要請主義とは、具体的なODA案件が日本の発議ではなく、途上国の発
議によって形成され、その要請を受けてはじめて案件として審査の
対象となることである。このため、借入案件の決定は途上国側の政
府高官の意見が強く反映されることから商社やフィクサーなどが暗
躍して賄賂の温床になったりした歴史がある。中国に多額の経済援
助を行っても、大きく広報されることは少なく両方の国民はあまり
知らされず、中国から感謝されることはなかった。マスコミも日本
企業の負の面しか報道してこなかった。そのうえ、日本政府はOECD
ガイドラインに遠慮して公平性を強調するため、アンタイドローン
として日本企業が受注するとは限らなくなった。日本の企業同士が
安値で争い、政府高官への商人的営業活動してやっと受注している。

ひどい場合は、資金だけ供与して韓国企業が受注するケースもある
円借款である。外務省関係者は日本企業に冷たく海外の政治家や政
府高官の顔色を伺うことに精力をつかうことが多い。90年後半から
日本は、財政赤字となり、日本がギリシャのよう財政危機にならな
いようにと消費税増税のキャンペーンを行ったが、円借款の意義と
効果についてはあまり議論されていない。

余談であるが、80年代の日本の援助によって中国の技術レベルは格
段に向上している。自分が関係してきた造船、プラント建設、製鉄
所などの分野では日本の技術者が培った技術はコピー盗用されたり
技術者を買収したりして流出している。立会検査とか中日交流セミ
ナーとかの無償のレクチャーなどによってライセンス料なしで技術
移転してしまった。造船業界のシェアーは、1980年代までは、日本
が圧勝していたが90年代は韓国と日本が首位を争い2000年代は中国
が進出して韓国、中国、日本の順位であった。2010年以降は中国、
韓国、日本の順位になっている。日本の造船所は人も設備も老朽化
し円高もあって競争力は低下する一方である。日本の戦後の経済援
助は感謝されることなく韓国と中国の競争相手を生む結果となった。
竹島や尖閣列島に見る隣国の反日国民は、戦前の日本の悪を追及す
るが戦後日本の援助に対する援助は言わない。日本人は侵略する商
人としてしか見られていないようだ。

アピアの街には中国人が多い。買い物や食事にでると顔が似ている
せいか中国人か?と間違えられることが多い。さらに印象的なのは
、TV衛星放送における中国の攻勢である。CCTVの中国人キャ
スターがすごい勢いの英語でまくし立てて天安門広場を背景に24時
間報道を続けている。日本の場合は、NHKの海外衛星放送を有料
にすべきかどうか脳天気に議論している次第である。

日本政府が、太平洋・島サミットをはじめた主な動機は、2000年当
時外交目標として掲げていた国連安全保障理事会の常任理事国入り
に向けて、太平洋島嶼諸国の票固めをすることだった。小なりとい
えども南太平洋島嶼国の国連加盟国は12を数えている。そうした
日本の姿勢に揺さぶりをかけて、太平洋の権益と海洋資源を狙って
中国による太平洋島嶼諸国への経済支援がでてきた。太平洋・島サ
ミットは3年に1回開かれるが、2006年の開催直前、中国はフィジー
において中国・太平洋島嶼諸国経済開発協力フォーラムという名称
の首脳会議を開き、総額約430億円にのぼる貿易と投資の拡大を目的
とした借款を実施すると発表した。当時の日本の円借款の1.5倍の援
助額であった。日本の援助は学校、病院の人材育成や職業訓練、農
業・漁業の支援、港湾などのインフラ整備、フェリーボート、タグ
ボートなどの供与、環境保全の整備などソフトを含んだ基礎的な地
味な援助案件が多い。一方中国は、政府庁舎ビルやスポーツセンタ
ーの建設など分かり易い大型案件が並んでいる。このような中国の
積極姿勢の状況下、今まで多額の無償援助をしてきた日本に対しサ
モアは感謝しており親日的な関係が続いている国である。要請案件
があると先ず日本に相談に来て義理堅いところがある。今回の業務
でも中国からの申し出がある中で日本側に相談をしてきた案件であ
った。しかし、如何に義理堅くても日本政府の硬直的な対応が続く
場合、流動的に好条件を提案する中国の方に靡くことになるであろ
うと危惧する。

10.サモアで働く人々
国際協力機構(JICA)のアピア支店を訪問した折、現地に滞在
する日本人たちの様子を聞いた。サモアに滞在する人は長期・短期
合わせて約50名いるそうだ。JICA関係は派遣専門家、青年協
力隊員、シルバーボランティアなどがいる。後日、夕食をとったレ
ストランの隣席で帰国する日本人の送別会が催されていて老若男女
15人ほどが談笑していた。途上国を援助する青雲の志を持つ若者
と老後をシルバーボランティアしながら余暇を過ごそうとする中老
の家族とが混在している。この国は開発途上国であるがサブアフリ
カの途上国と違って伝染病もなく治安も良く住み易いため青年にも
老年にも人気が高いようだ。10年程前、JICAを引退した藤田
元総裁がサモアのシルバーボランティアとして来訪し関係者をあわ
てさせた国でもある。総裁の地位にのぼり功名を立てた人が引退後
、一兵卒となってボランティアする姿勢には敬服するが、結局、周
辺りがとりなしてサモア政府の政策アドバイザーとして滞在された
ようである。

現地の人たちのことを書いてみたい。サモアの人たちは写真好きで
ある。町を歩くと子供たちは写真をとってくれと恥ずかしげにすれ
違う。仕事関係でも記念写真をたくさんとったが、ここの人は大き
いのでどの写真でも肩までしか届かない自分が子供のように見える。
サモアの人は、スポーツ好きでもある。ラグビー、レスリング、重
量挙げなどが人気である。クリケット、野球、サッカーなども好き
であるが、体重を利用するスポーツは得意で強い。ラグビーの国際
試合では日本代表チームがボロ負けしている。スクラムなどすごい
力であり、体力の差で日本チームは勝てない。どんなに力が強いか
試してみようと海岸辺りのパブで一緒にビールを飲みながら談笑し
ていた港湾局職員の大男に足のような腕で自分の上腕を握ってもら
った。酔っ払っていたが、確かに強い。合気道の技をかけて抜けて
みた。不思議そうな顔をして「おまえの腕はオクトパス(たこ)の
ようだ」と笑っていた。海洋民族らしい表現だと思った。

帰国前の夕方、空港まで港湾庁事務所の女性たちが見送りに来てく
れ一緒に海辺のパブで飲んで談笑した。大柄だが花の髪かざりが可
愛い。左側につけると未婚、右側につけると既婚だそうだ。レイを
つけてくれる。よい匂いがする。パブで例のVAIKOMAビールを10杯
ほど乾したあと出発まで未だ時間があるからディスコダンスに行こ
うと誘ってくれる。女性たちも車に同乗してきた。バンドは生演奏
で上手い。この国の人は人当たりが好く芸能に秀でているようだ。
地中海クルーズなどの客船に船員を多数送りこんでいるが、サモア
船員は人気者である。客船内はホテルのようなもので、船員の顧客
サービスが重要である。イスラム系の気難しい船員よりも大柄で楽
しい遊び好きな性格が好まれてサモア人船員は人気者である。この
国の観光収入と外貨獲得の貴重な人的資源となっている。男も女も
ダンスも歌も上手い。リズム感がよく大きな体を揺すって踊る。パ
ートナーとなってくれた女性の名はブラジルとテンいう名前だった。
大柄で首まで届かない自分はセミのようだ。笑うと金歯が見えて酋
長の娘の餌食になったような気持ちであった。楽しい空港までの時
間であった。
2012/10/25


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