今日はナガサキ原爆忌ですね。 なぜ長崎にキリスト教国アメリカが原爆を落とす必要があったのか。 これはよくよく考えると、大変な問題だと思います。 仮に日本がどこかの国と戦争をするとき、相手の国の神社がもしあ ったら、そこに最強の爆弾を落とすなんてことするでしょうか。 この疑問は、遠藤周作がなぜ『沈黙』を書いたのかという問題とも つながります。 『沈黙』は、遠藤が戦後はじめて長崎を訪れた後に書かれます。 なぜ江戸時代のキリシタン弾圧と、棄教した宣教師を、登場させる 必要があったのか。 本当は、原爆のことを、原爆を落としたことをローマ教会が認めた ことを、非難したかったのではないでしょうか。 だから、『沈黙』は、カトリックで禁書になったのでは? 長崎に原爆が落とされたのは、極東の日本の教会がアジアで勢力を 伸ばすことを快く思わなかった人たちが、教会中央にいたからでは ないかと思います。 異端弾圧の一種だったのでは。 そんなことやるだろうかと考えるまでもない。キリスト教は、異教 徒よりも、異端に対して、厳しい攻撃をかけてきました。それを思 えば、浦上天主堂が攻撃目標であったとしても、少しもおかしくな いですね。 他にもいろいろと状況証拠や推理のヒントはありますが、私は最近 、ますます、ナガサキへの原爆投下は、キリスト教内の権力闘争、 異端つぶしだったような気がしています 十返舎一休