4433.現代という芸術アラカワ



現代という芸術アラカワ
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU

皆様

現代という芸術アラカワ 生命を切りひらく家 バイオスクリーブハウス その
3です

とくまる

http://www.milestone-art.com/MILESTONES/issue137/htm/p14tokumaru.html

現代という芸術アラカワ 生命を切りひらくバイオスクリーブハウス そ の3

こんなにきれいな光と影をお前見たことあるか

4月30日の昼過ぎにバイオスクリーブハウスに到着し、家の中 をひと回りしてか
ら、箒で床を掃き始めた。塵や埃がだいぶたまっていたからだ。ひと部屋ごとに
箒で掃いて、掃除機でたまった塵を吸い込ん で、疲れたらお茶を飲んで写真を
撮るという単純な作業を続けていた。

夕方6時(夏時間)を回るころ、台所を隔てた反対側の黒い壁に光り輝くものが見
えた。いっ たい何が光っているのだろうと近づくと、高い窓から差し込んでく
る西陽が壁に当たっていた。黒壁の光と逆光の窓に心を奪われ、全身打ちの め
されて、しばらく茫然としていた。

 それまでの数時間の掃除は、この瞬間のためにあった。生まれてこのか た、
光を見てこれほど感動したことはない。子どもがはじめて自転車に乗れたときの
喜びに近かった。生まれてからこれまで毎日光とともに生 きてきたが、今日は
じめて光の本当の姿を見た。


 それから家の中を歩くと、それまでとは違った光の魅力、影の美しさが 自然
と目に入ってくるようになり、驚きと喜びの渦に巻き込まれてしまった。こんな
ことってあるのだろうか。同じ家の中にいるはずなのに、 まったく違った世界
が見えている。

 窓から差し込む光、壁に写る入射光や反射光、すりガラスに映る木々の 影、
壁に映る光の中に木々の陰。どこでどう反射が起きているのかもわからないくら
いあっちこっちからの光がいろいろな方向に飛び交ってい る。息つく暇もない
ほどの勢いで光と影をおいかけて家の中を歩き回った。

 これも手続き記憶なのだろう。つまり、自転車を一度覚えたら一生忘れ ない
ように、光の見方感じ方を覚えると、それも一生忘れないのだ。文字通り満員の
帰国便で、ひと眠りして見た機内の美しさに心を打たれ た。こんなにきれいな
景色見たことない。天井に映った常夜灯の灯りだった。思わずロッカーからカメ
ラを取り出して写真に収めた。
==============================
概念化とは何か
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU

皆様、

概念とは何でしょう。

ことばは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、
人間にとって有意義と思われる仕方で、世界を断片として切り出し、分 類し、
体系づける。

これが概念化ではないでしょうか。

つまり、概念の恣意的かつ無限に生み出せる音韻記号によって、一般化・対象化
した物質や現象に適切な名前を与えられる。

そして概念のおかげでそこに存在していないものを表現し想起でき、それを思考
に代入できる。
スライド 15

これが概念化だとすれば、鈴木先生が『ことばと文化』の中で、分節と呼んでい
るものは、概念化ではないでしょうか。


とくまる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> 概念の恣意的かつ無限に生み出せる音韻記号によって、一般化・
対象化した物質や現象に適切な名前を与えられる。
> 

ある意味で、ヒトの未完の進化の同時代の現実、すなわち、ヒトの
脳の蓄積、分析に容量として単語、文節のセグメントを設けざるを
得なかったのでは。之を拓くのは半世紀ほど掛けて分子生物の学問
にありやなしや。浅学晩学の浅山からでした。草々
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Re: 概念化とは何か
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU

浅山さん

レスありがとうございます。

しかし、話がつながっているかどうか、判断できません。
すみません。

私のメールが問題として取り上げたのは、
「ことばと文化」の中で鈴木先生が、「分節」として説明している現象が、
実は「概念化」のことではないかということです。

それは井筒さんの問題なのですが。

つまり井筒さんがarticulationとして説明しているのは、conceptualization
のことではないか。

articulationという言葉を聞いて、その意味として概念化で説明した。
その可能性があるように思ったのです。

それに対するコメントでしょうか。

得丸
==============================
ボンネットのご来光 : ひとりひとりの人間は太陽光の生まれ変わりである
From: KUMON KIMIAKI TOKUMARU

4月の連休で、ニューヨーク郊外にあるアラカワの遺作、バイオスクリーブハウ
スを訪れたとき、私は作品の掃除をすることによって、作品との対話が 生まれた。

これは禅的である。

というのは、禅の「香厳撃竹」という話とつながるからだ。

唐末の時代、香厳という非常に優秀なお坊さんに対して、師が「あなたの両親の
生まれる前に、いったいあなたは何者だったのか(父母未生以前の一 句)」とい
う質問をした。香厳は、いろいろと答を考えるが、師はすべて否定する。頭で考
えてもなんにもならない、と。

香厳は、まじめな性格だったから、本を全て焼き払い、寺男として作務に励む。
そして何年か、何十年かたったある朝、道路を箒で掃いていたとき、箒 に小石
が当たって、小石が飛んでいって竹にぶつかったときに、悟りを開く。

この悟りが何であったか、これまでいろいろと想像してきた。香厳本人しかわか
らないし、本人にしか意味のないことではあるが、どんな悟りだったの だろう
かと興味はつきない。

だが大事なことは、悟りが掃除の時間に得られたことではないだろうか。

土曜日夕方から昨日の午後まで、東久留米の一九会道場で、暑気祓いの修行に参
加してきた。十万度祓いといって、禊をいつもよりたくさんする修行で ある。

昨日、朝食後の時間、門から玄関までに敷かれている庭の敷石を竹箒で掃除した。

朝食が終わったのは6時前だったから、朝のすがすがしく、静かな気配の中で、
玄関から門まで30m近く続いている、横に3つ並んだ敷石を一列ずつ 順番に
掃いていった。その日、この敷石の上に、ござをひいて道場の布団干しをするこ
とになっていたから、この掃除には意味があった。

一人で、黙々と、一列ずつ、敷石を掃いて、ときどき一休みしていた。はんぶん
くらい終わったころ、東のほうに何か光り輝くものが見えた。一九会の 門を出
たところにあるパーマ屋さんの駐車場に停められている白い自動車のボンネット
に、太陽の光が当たっているのだった。

それは朝日とはいえ力強く、反射した場所が車のボンネットだから広さも十分あ
り、まるでご来光のような生き生きとした光だった。

パーマ屋のご夫婦は、早起きで、車の近くで犬の世話か、掃除をしておられ、と
きおりご来光を遮ってシルエットになる。

そのときだ。

「光が主であり、人間存在はその作り出した影、従にすぎないのではないか。」

「もしかして、我々はすべて光の生まれ変わりではないか」

という考えがふっとわいてきたのだ。


ハンガリー出身の量子生化学者、アルベルト・セント=ジェルジの『生体の電子
論』によれば、「生命の燃料は電子である、より正確には、光合成にお いて光
子から奪ったエネルギーである」。そして『生体のエネルギー』によれば、「生
物の世界のエネルギーは、光合成とその逆過程とからなってい る。」

太陽の光が植物の葉緑体によって、エネルギーとして蓄積され、そのエネルギー
を使って、すべての生命活動がおこなわれている。

だとすれば、一木一草の生命は太陽のおかげであり、その姿は太陽光の生まれ変
わりである。そして、草や木の実を食べて生きているすべての生命活動 が、太
陽のおかげであり、その姿は太陽光の生まれ変わりであるということになる。


遠藤周作の『沈黙』の中で、日本人にはキリスト教の神の概念が理解できず、ゼ
ウスを大日と書いて、太陽を拝んでいる。宣教師はこれがわかって絶望 する。
だが、ご来光を拝む日本人クリスチャンこそが、20世紀量子力学の到達点を体
で理解していたということにならないか。

我々が光の生まれ変わりであるとしたら、日本に独自な仏教思想、人間は生まれ
ながらにして悟っているとする(天台)本覚論は、正しいということに なる。

言葉も、生命情報を伝える遺伝子発現メカニズムと同じデジタル通信方式を使っ
ているから、本来的には正しい。


では、いったい人類はどこで間違えたのか。何がまちがっているのか。

何がまちがっているのかというと、それは嘘をつくことだ。嘘とは何か。自分が
本当と思うことを、偽り、誤魔化すことだ。

原発推進派の人たちの最大の問題は、本心は「金が欲しい」、「フクシマの人間
は、これまで原発で潤ってきたのだから、多少の犠牲は当たり前だ」、 ところ
にあって、現実に起きていることを隠蔽し、偽情報をばら撒いているところにあ
る。あるいは、本当か嘘かを確かめずに、都合のいい情報を流し ているところ
にある。

人類は、嘘によって滅びていくとは、悲しいことである。

今こそ、ことばを正しく使う必要がある。

自然思想家 得丸公明








コラム目次に戻る
トップページに戻る